J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」

    みすず書房 2010年11月
 
 副題は「ソーカル事件を超えて」。原題は「Who Rules in Science?」副題が「An Opinionated Guide to the Wars」 「科学を誰が支配するのか」あるいは「科学は誰が支配すべきか」であり「ソーカル事件(サイエンス・ウォーズ)への旗幟鮮明な入門書」である。
 最初買ってきてぱらぱらと見た印象では、ポパーやクーンやファイアアーベントといった科学哲学の分野での主要な学者の主張とソーカル事件との関係をわかりやすく提示し、著者のソーカル事件への視点を明瞭に提示した面白い本と思ったのだが、後半にいくと何だがわからなくなってきた。
 著者によれば、ソーカルが「境界を侵犯すること」というパロディ論文を「ソーシャル・テクスト」に投稿したのは、ポストモダンの学者の軽薄を笑うためではなく、ポストモダンの学者たちが不当に占拠している「左派」の立場をもっと真っ当な左派のほうに明け渡させるためであったのだが(ソーカル自身も自分を「臆面もない古いタイプの左派で、脱構築がいったいどうすれば労働者階級の力になるのか(あるいは一般に社会正義を推進するのか)よくわからないといっている)、その意図が一般には理解されず、右派はその事件を鬼の首をとったように、左派全体がナンセンスの信奉者であることの一番いい証拠といった宣伝に使っているのだという。
 著者もまた一人の左派としてソーカルの本来の意図を明らかにして、まともな左翼(つまり正統的な科学に立脚している左翼)の手に政治運動を取戻そうと意図するのである(「ソーカルは、ポストモダン派の連中の手から科学を救出しなければならない、などというつもりはこれっぽちもなく、むしろ左派の政治運動をお粗末な思想から奪還しなければならないといっているのである。」)。
 ところで本書は著者の母にささげられていて、その母は著者にフェミニスたることを教えてくれたのだとされている。それで、本書の最後のほうはフェミニズムの擁護に充てられるのだが、反フェミニズム陣営からのフェミニズム陣営の論文への攻撃について、そのような言葉尻をとらえて批判するのではなく、その論文の本質を理解してから批判せよというようなことを言っている。しかしそれはポストモダンの陣営がソーカルの批判に応じたのと同じ論法であるとしか思えない。
 ポストモダンの陣営がその論文の杜撰によってその思想のお粗末さを暴露したのであるとすれば、フェミニズムの陣営もまたその論文の杜撰によってその思想がお粗末であることを露呈しているのだと思う。わたくしから見るとフェミニズムポストモダン思想の典型であり、またその最弱点でもある。正統的な科学によってフェミニズムを擁護するというような方向は端から無理な試みであると思う。反フェミニズムの陣営が科学を装った論法で男女差を肯定するような無数の論文を書いているということは間違いのない事実であろう。しかし、反対陣営が間違ったことをしていると証明することは、自分の陣営が正しいという証明にはならない。どうも本書は科学哲学についての冷静な論考とフェミニズムについての上ずった冷静を欠いた論考が並置された実に奇妙な本になっているように思う。
 最初、本書を少し細かく読んでいって科学哲学についての自分の見解をまとめていければと思ったのだが、しかし著者の意図が科学哲学を紹介することではなく、もっと政治的にある方向に加担すること、「経済格差を是正したい」という願いに「科学」が参加していけるようにすることであるとすれば、わたくしの読み方はまったくの見当違いであるのかもしれない。だが、「経済格差」を肯定させることを隠れた目的とした科学を装った論文の「非科学性」を「正統的科学」によって暴露することはできるかもしれないが、それがそのまま「経済格差を是正」することではないだろう。
 「経済格差があってはならない」ことを「正統科学」で示すことは不可能であるとわたくしは考える。「経済格差があってはならない」というのは倫理的、道徳的、政治的要請ではあっても「科学からの要請」ではありえないだろうと思う。
 ポストモダンの陣営がどのようなおかしな論文を書いたのだとしても、それが現実の政治にわずかでも影響をあたえたのだろうか? 著者はあたえたのだと思っているようである。だからこそその陣営が左派の主流でなくなることが労働者にとっての利益になると考えている。しかしそれはたかだか人文学者や政治学者のなかでの勢力争い、大学のなかでの地位の争奪には関係しても、現実の政治には海に注いだ葡萄酒一滴ほどの影響もあたえなかったのはないだろうか?
 外界が実在するかというのは古来からの哲学での永遠のテーマである。しかし大部分の人間は素朴実在論者なのであって、そんなことを考えるのは哲学者という特殊なひとだけである。そして本書でもまた「外界が実在するか」というのが科学哲学の重要問題として延々論じられている。量子力学における不思議もまた大きな話題になっている。しかし「外界が存在するか」とか「不確定性原理」とかが「格差是正」に関わるとはどうしても思えない。わたくしは哲学音痴ではあっても「科学哲学」にいささかでも関心をもつ人間として(医学あるいは医療というのが科学のなかでもいかにも奇妙な位置にいると思うので、自分なりに医療というのがどのようなものであるのかという理解を得たいと思うので)本書を面白く読んだが、それでもそのような議論が「経済格差の是正」に関わるのだとはどうしても思えなかった。
 次回以降、少し細かく見ていきたいと思うのが、フェミニズムの悪口なども書いてしまいそうな予感もする。
 

なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて

なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて