D・デネット「ダーウィンの危険な思想」 その1

  青土社 2000年12月
  
 思うところがあって、ダーウィンがさまざまな思想にあたえた影響について少しまとめて考たいと思う。その手がかりとして、この本を読み返してみることにした。読み返すとしたが、前に読んだのは大分前で、引かれた傍線をみると、三分の二ほどのところで抛り出してしまったようである。内容もほとんど忘れていた。本文700ページほどで、とにかく長い本である。本棚を見ると、デネットの本はほかに「解明される意識」と「自由は進化する」の二冊があったが、前者は100ページで挫折、後者にいたっては山形浩生氏の解説を読んだだけであった(といっても30ページほどのかなり長い解説であるが)。
 デネットの本はどれも長いし、同じダーウィン派のピンカーの本もまたみな浩瀚である。ドーキンスの本も長い。E・O・ウイルソンの本も長い。彼らの本が長大になるのはキリスト教圏の読者にむかって書いているということがあるのだろうと思う。わたくしのような日本人にとっては、なんでこんなにくどくどと書く必要があるのだろうと思うところも、彼らにとっては必要で書かずにはいられないことなのであろう。ダーウィンを正しいとみとめると、創造神を否定することになるので、そうなっても人間の世界から倫理も道徳も消失しないということをワン・セットで主張せずにはいられないため、どうしても、くどくなり、長くなるということなのであろう。
 デネットドーキンスと同じに、わたくしもまた、創造神をみとめなくても、人間の世界から倫理も道徳もなくなることはないと思うけれども、彼らは倫理や道徳がなくなってどこが悪いのだと開き直ることはできないのである。そういう点でキリスト教圏の人間であることを強く感じる。キリスト教文化に骨の髄まで浸かっているのであろう。
 キリスト教化してからの西欧がそれ以前にくらべて特に倫理的にも道徳的にもなったわけではないと思うし、一神教的な創造神という考えが普及することがなかった東洋にも倫理も道徳もあったわけである。倫理とか道徳とかはキリスト教あるいは一神教を前提にしなければでてこないという考えに彼らがあれほど囚われているのが正直理解できないのだが、西欧世界でのキリスト教的世界観の呪縛の強さを示すものなのであろう。
 わたくしのダーウィン主義理解というのはいたって単純なもので、生物の連続性の主張と漸進性の主張である。飛躍はない、ということである。生物には切れ目はなく、人間と人間以外の動物の間にも避け目はない、ということである。
 ということは、別に人間は特別な動物ではなく、人間を特有にみせている心や精神や言語といったものもまた生物の連続性の中にある、ということである。とすれば霊魂の不滅などといったことがありえるはずのないことは、とりたてて論ずるまでもない自明のことになると、わたくしには思える。エックルスのように胎生何週かに神様が胎児に魂を注ぎ込むとか、ヴァチカンの見解のように神様は何よりもわれわれ人間を気遣っていてくださるので、われわれ人間にだけ魂をあたえてくださるのだ、とする論があることは知っている。しかし、そういう論を信仰によって受けいれるのでなければ、魂の不死などということは、ダーウィンの進化の主張によって、そのまま否定されるとしていいのではないかと思う。
 しかし、魂の不死などとはいわないにしても、人間は人間以外の動物とは根本的に異なっているのだということを、進化論を受けいれている人間、それどころか進化を研究している人間でさえいいだすことがあるのだから、この問題はややこしいうのである。デネットが本書でいうクレーンとスカイフックの問題である。クレーンは地上に支えをもつわけであり、人間以外の動物はそのクレーンによって地道に少しづつ進化していく。しかし人間だけは、なんら支えもをもたないスカイフック(天空にものを吊るすための想像上の手段)によって地上的な制約を離れて、進化によってだけでは説明できない存在足りえているとする見解が、決して少数派としてではなく西欧には存在している。だからデネットらの本は長くなる。
 「はじめに」でデネットはこの本をなぜ書いたかについて、「私は他の学問分野の思想家たちに進化論の考え方を真剣にうけとめてもらいたい」からなのだといっている。たとえばデネットが本書で紹介しているMITの研究会でのピンカーの発表への多くの著名な認知科学者たちの反応をみてみると、学者や思想家の中には進化論をまともに知らないし考えてもいないものが多くいるだろうことは間違いないようである。
 「自由は進化する」(NTT出版 2005年)の「訳者解説」で山形浩生氏は、デネットを紹介して「一応哲学者だ。でも、そこらの普通のテツガクシャどもとはちょっとちがう。この業界で多くの人たちがやってるのは「アリストテレス後期哲学における自己概念がどーたらこーたら」「デカルト的な心身二元論が云々」という、一般人にはまったくどうでもいい内輪の重箱の隅つつきあいみたいな話だ。その間に科学はいろいろと進歩していて、人工知能やコンピュータや進化論はどんどん新しい知見や問題を提起しつつある。でもテツガクシャたちの多くは、それに対して何も言えないか、あるいは自分の仕事がなくなるんじゃないかと不安がってなにやらくだらない神秘主義をふりかざしてみせるばかり(ぼくはソーカル&ブリクモン『知の欺瞞』でさんざんコケにされたポモ哲学というのは、最終的にはこの神秘主義の最後のあがきだと思っている)。哲学で扱っていたはずの道徳だの魂だの倫理だの、といった問題について、総合的な視点からおもしろい本や議論を展開している人といえば、今やほとんどが自然科学方面の人か経済学方面の人になってしまっている」と、いつもの山形節で気炎をあげている。わたくしも倫理や道徳といったことについての面白い本は自然科学方面の人間によって多く書かれているという点については同意するけれども、それはわたくしが医学というまがりなりにも理科系の方面にいる人間であることによる偏見かもしれないとも思っている。
 山形氏はまた「脳以外の「心」ってのがどこかにあるのでは」という議論をオカルト神秘主義として一蹴する。わたくしは《人間の脳にはオカルト神秘主義へと傾く構造が進化の過程で組みこまれている》という説明もありうるのではないかと思っているので(最近の進化心理学による宗教の起源の説明はそういう方向に向いているのではないかと思う)、オカルト神秘主義だとするだけでは、そういう議論を否定はできないのではないかと思うし、そもそも《脳の外に「心」というものがある》という考えを持つことが人間にとって進化の上で有利であった可能性もあるのではないかとも思っているので、この議論はそれほど簡単にはいかないのだろうと思う。
 また科学という営為は西欧において光と影の双方をつくってきたのだから、その影の部分の否定克服という意図から発するポストモダン哲学を神秘主義の最後の悪あがきとだけ切り捨てることも生産的ではないとも思う。『知の欺瞞』でのソーカルらの問題提起に、ポストモダンの側がまともに応えていないことも確かなように思うけれども。
 「境界を侵犯すること」はカーソルがポストモダン派をからかうために作ったパロディ論文である。そこでポストモダン派からみた救いがたい西欧近代の認識論、西欧を支配したドグマはこんな風に書かれている。《外界は存在し、その諸性質は、いかなる個々の人間からも、それどころか人類全体からも独立している。外界の諸性質は『永遠不朽の』物理法則に書き込まれており、(いわゆる)科学的な方法によって規定された『客観的な』手続きと認識論的制約に則ることで、人間は―不完全で一時的なものとはいえ―これらの法則について信頼できる知識を獲得できる。》 わたくしはこれをほとんどそのまま信じているので、そうであれば、あきらかにソーカル派ということになるのだけれども、それでも、わたくしは自分がソーカル派なのだろうかということがわからないのである。そのあたりを、このデネットの本を読みながら考えてみたいと思っているわけである。
 わたくしは若いころから吉田健一の信者で、吉田氏の思想は《人間もまた動物である》であるというものと思っている。ということは《反キリスト教》でもある。なぜなら人間を人間以外の動物とは画然と異なるすぐれた存在であるという視点を提供したのがキリスト教なのであるから。ヨーロッパの野蛮はキリスト教に起源するのであり、ヨーロッパの文明化とはキリスト教を捨てることにあるというのが吉田氏の基調なのではないかと思っている。いうまでもなく、科学もまたキリスト教の変形、キリスト教の世俗版なのであるから、科学を盲信することも、また野蛮であることになるのだが。
 吉田健一には福田恆存を経由してたどりついた。福田氏の神輿はD・H・ロレンスであった。ロレンスもまた反キリストの人であったが、ロレンスは集団を統合する神としてのキリスト教(憎悪の宗教、嫉妬の宗教、黙示録の宗教)には反対したが、個人の宗教、愛の宗教としてのキリスト教は否定しなかったのかもしれない。ロレンスは人間よりも馬のほうが美しいと思っていたふしがあるので、人間には魂があるが馬にはなく、馬は単なる自動機械であるとしたキリスト教の差別思想?を嫌っただろうとは思うけれども。
 吉田氏のあとに一時けっこう入れ込んだひとにG・ベイトソンがいる。彼もまた無生物と生物の間に線を引いたひとであり(プレロマとクレアツゥラ)、人間以外の動物と人間の間に線をひくことに反対したひとだった。ベイトソンは、大部分の自然科学研究を生なきもの(プレロマ)を扱っているとしたのであり、一方宗教の側が魂などといって生あるもの(クレアツゥラ)の中に人間と人間以外の間に線を引いて平然としていることにも腹をたてていた。だから、こんなことをいっている。

 正統派唯物論と大部分のオーソドックスな宗教が今でも持ち出してくる人間精神のイメージに比べたら、たとえ調速機(ガバナー)つきの蒸気機関のような単純な機構しかもたないものであっても、組織された物体―組織されていない物体などというものがあるとは私には思えないが―の方がまだ賢く、洗練されたものであるようには思えないだろうか。(「精神と自然」 思索社 1982年)

 どうもわたくしは、昔から人間を特別なものとする考えを受けつけない人間であったらしい。ベイトソンにはそのころ面白がって読んでいたニュー・エイジ・サイエンスからたどりついたのであり、ニュー・エイジ派は、《反=デカルト、親=東洋の叡智》という思想であったのだから、当然、反西洋、反科学である。ニュー・エイジ・サイエンスがポストモダンとどう通じるのか微妙であるが(全然関係ないかもしれないが)、反デカルト・反西洋というのは、実は反近代であったのではないかとも思うから、まったく無関係ともいえないように思う。心身二元論の克服がかれらの合言葉であったが、同時にオカルト的なものへの親和を隠そうとしていなかった。
 そのころから親しんで、それ以来ずっと読んできているのがポパーである。ポパーを知ったのは村上陽一郎氏の本での科学哲学の紹介によってであったと思う。クーンなども読んだがポパーが圧倒的に面白かった。村上氏の本を読んではじめて認識論という哲学分野を知り、クーンを読むことにより、知らないうちにポストモダン的な思想の片鱗にふれていたのだと思う。
 ポパーはいうまでもなく反証可能性の概念により科学と科学以外の営為を区別したひとで、科学者に例外的に人気のある哲学者なのではないかと思う。論理実証主義の立場が、科学は真であると証明できるものをあつかうとするものであり、それに対して哲学などの分野は証明が不可能であることを議論している、無駄な営為の場であるとしたのに対して、ポパーは、科学はあることを真であるとは証明できないが、真でないことは証明できるとしたので、科学の説明もまた永遠に仮説のままにとどまることになり、あることを真であることを証明できない点では、科学も科学以外の言説も区別はできないとした。ポパーは科学を救うとともに、論理実証主義ではたわごとの集積あつかいされることになった人文科学をも、ふたたび救い出したのであると思う。
 科学の営為が実際にはポパーのいうようなものではないことは、多少は研究の現場近くにいたことのある人間には、簡単に了解される。どう考えても科学の場でおこなわれているのはクーンのいうノーマル・サイエンスである。それにもかかわらず、ポパー説が科学者に人気があるのは、科学と科学以外の営為の間にはどこかで線が引けるはずであるという直感をポパーの説明が支持するからなのであろう。
 ずっとわからなかったのが自分が吉田健一ポパーというまったく共通性のないように見える二人になぜ同時に惹かれるのだろうかということであり、それなら両者にはどこかに共通な点があるのだろうか、ということであった。その当時、唯一共通項のように思えたのがヒュームであった。ヒュームは吉田健一の場合には彼が称揚する18世紀文明社会を代表する文明の人である。一方、ポパーにとっては、ポパーが解決したと称する帰納の問題の提起者、ポパーの問題の最大の論敵であった。だから両者の関心はまったく異なるのであるが。
 それらの間の関係についてはじめて共通項が見えてきたように思えたのが、丹生谷貴志氏の吉田健一論を読んだときで、「獣としての人間」ということを肯定的意味でつかっていた。そして近代の病理を寛解する時代としての現代という見方で、吉田健一ポストモダン的側面を示していた。丹生谷氏はドゥルーズ学者であるらしかったので、吉田氏の論とポストモダンの思想にはどこかで通底するところがあるのではないか、というようなことを考えるようになり、ポストモダン思想について少しまじめに読まなくてはいけないのかななどとも考えるようになった。またドゥルーズスピノザやヒュームについて論じているのを知り、西洋哲学の流れの中でのポストモダン思想の位置ということも漠然と考えるようになった。
 吉田氏は18世紀をヨーロッパの頂点とするわけであるが、18世紀は「人間の有限性」「人知の限界」の時代である(たとえば、A・O・ラヴジョイ「人間本性考」(名古屋大学出版会 1998年))。これは全知全能の神の否定と表裏の関係なのであり、人間が全知全能を僭称することの滑稽の指摘である。神ならぬ人間が何が正しいかを十全に知ることなどできるはずがないとすることは、寛容の思想に結びつく。
 ポパーは本来は科学哲学の側の人間であるが、「開かれた社会とその敵」などで人文科学の側にも発言している。それによれば、ナチス共産主義をもたらしたのは、優れた人間には何が正しいのかがわかるので、それを知った人間が社会を指導することによりよい社会を建設できるという、プラトン以来の賢人政治の思想に由来する人間観であるとしている。
 人間にはほとんど何もわからないということを知ること、人間が知っていることにくらべれば知らないことはあまりに多いのだということを自覚すること、それによってナチス共産主義の悲劇の再来を防止できるとした。これまた人知の限界の主張であり、人間の有限性の主張である。
 吉田健一ポパーを結びつけるものは人知の有限性、人間の限界という見方であるように思われきた。その反対の思想、人間は万物の霊長であり、人知には限界がないというような、人間の傲慢、人間の思い上がりが跋扈した時代が19世紀から20世紀であったのかもしれない。それに対する批判のひとつとしてポスト・モダン思想があったということができるのでないかと思う。
 その人間の傲慢を支えたもの、それは人間が神の似姿につくられており、人間は神の全知をあたえられているとする見方であった。カトリックなどはなによりも神と人の間の無限の距離を説くのであるから、このような見方は皮相なものなのであろうが、その皮相が大きな潮流となった時代があったわけである。
 最近、東浩紀氏の本を少し読んでいるが、そこにさかんに動物化という言葉がでてくる。この動物化という言葉は両義的に用いられていて、必ずしも否定的なニュアンスばかりで用いられているのではないと思うけれども、吉田健一の思考の根底に「獣としての人間」ということがあると思っているわたくしには気になる言葉である。東氏はデリダの新しい見方を提示することでデビューしたひとらしい。東氏の本を読む限り、デリダはフランス語に堪能な人間が原書で読むのでなければ理解できない思想家であるように思うので、デリダを翻訳で読んでみたいとは思わないが、東氏の本をとおしてかすかに感じられるデリダの像というのは、西欧の行きすぎと膨張に歯止めをかけることを願うひとであるように思える。
 ダーウィンもまた西欧の傲慢に歯止めをかけることに大きな(決定的な?)役割をはたした人間なのだと思う。ダーウィンのアイデアを承認するならば、人間もまた動物である。そのことからどんな帰結がでてくるのか、それを詳細に(ねちねちと?)論じたのが「ダーウィンの危険な思想」である。デネットによればダーウィンは「宇宙論的ピラミッド」と彼がよぶヨーロッパの伝統的思考を解体したのである。宇宙論的ピラミッドとは、上から、神−精神−デザイン−秩序−カオス−無というような序列を前提とする世界観である。ダーウィンがそれを壊したにもかかわらず、それが壊れていることを認めたくない人が多くあり、またダーウィンは生物学の分野にだけ影響をあたえたのであり人間の精神や思考の世界には少しも影響をあたえないとするものも多くいるので、少なくとも西欧においてはダーウィンの思想は危険な思想になるわけである。
 自分のことを考えてみると、別にダーウィンの思想を知ったから創造神を信じなくなったわけではない。生まれてからこのかた、ただの一度も創造神を信仰したことはない。それで困ったとも恥ずかしいとも思ったこともない。ただ文明開化のあとに生まれた人間として西欧生まれの思想に東洋由来の思想よりずっと多く親しんできていて、気がついてみれば物の考え方が西欧化されてしまっていたわけである(というのが本当であるのかは相当に問題であると思うが、本人の意識ではそうなのである。自分が東洋思想のもとに生きているなどとはまったく考えていない)。第一、自然科学は西欧由来の学問であるし、わたくしが従事しているのが西洋医学である。西欧ではカトリックはそれぞれの地の神々を取りこんだきたので、それが新しい思考への強靭な抵抗や免疫になったものと思われるが、日本ではそういうことがなかったために、本家の西欧以上に西欧化した国になってしまっているかもしれない。
 そういうなかでデネットダーウィン論を読んでいこうというわけである。本書によれば、進化論を受容することとキリスト教信仰を持つことは矛盾しないとするひとがアメリカにはとても多いのだそうである。デネットさんもやれんだろうなあと思う。しかし日本人であるわたくしとしては、自分にひきつけて「獣としての人間」という視点からみていきたいと思っている。三部にわかれているので、それぞれを別個に論じたい。第1部は「中間からのスタート」。

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化