稲葉振一郎「モダンのクールダウン」

   NTT出版 2006年4月

 稲葉氏には、以前、わたくしが庄司薫について論じた文をとりあげていただいたことがあり http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070101、その後しばらくは、わたくしのブログもいささかにぎわうことになった。遅まきながら、記してここに御礼もうしあげる。とはいっても、以下、この「モダンのクールダウン」について必ずしも肯定的に論じるわけではないので、その点についてもあらかじめお詫びもうしあげておく。
 稲葉氏の本は以前「経済学という教養」をとりあげたことがある id:jmiyaza:20040307。
 あるいは記憶違いからもしれないが、稲葉氏のことを知ったのは黒木玄氏のホームページ http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/index-j.html でであって、黒木氏のHPのことを知ったのは山形浩生氏のクルーグマンの翻訳の後書でであったと思う(と思って、山形氏訳のクルーグマン著「経済入門」と「<ニッポン>経済入門」の後書を読み返してみたのだが、見当たらない。どこでだったのだろう? 記憶というのはあてにならないものだと思う)。
 それで黒木氏のHPを覗いてみて、こんなに多士済々のメンバーが素人を相手に議論してくれるところがあるのかと思って、うれしくなっていくつか発言したが、袋叩きにあって、這う這うの態で逃げ出した。袋叩きなどというのは大げさな言い方であって、お前さんもう少し勉強してから出直してこいという、教育的指導をされたというのが実態に近いのだと思うが。
 確か、養老孟司氏が、アメリカのある科学者の論について、ああいう論がでることがアメリカ社会のありさまをよく示している云々といっていたのに「賛成!、同感!」などと書いたのがいけなかった。黒木氏のHPにおいては、養老氏は似非学者、トンデモ学者の典型とされているようであることにあとから気がついた。それにたまたまわたくしがとりあげた論は文化相対主義と通じるものでもあるかもしれなくて、黒木氏のHPは、ドーキンスデネット、ピンカー派の参集場所であり、ソーカル派の陣地でもあるようであることにも後から気がついた。無知というのはつくづくと恐ろしいわけで、知らずにいくつもの地雷を踏んでしまったわけである。(黒木氏のHPについては、多くの科学者の養老さんへの見方を知ることができたし、黒木氏自身が数学者であり、数学についてもいろいろと教えられるところがあったので、大変有意義な経験をしたと思っている。)
 わたくしはドーキンス派はどうも毛が三本足りないような気がしていて、その宿敵であり、黒木HPではトンデモとされているS・J・グールドのほうが好きなのである。ドーキンスの本もデネットの本もピンカーの本もどれもくどい。陰影がなく、明るく、野暮である、という気がする。キリスト教圏の読者を相手にしているためなのか、キリスト教道徳を意識し過ぎているように思えて、科学、科学と突っ張っている割には、その裏に道徳的劣等感を持っていることが隠せないように思われる。科学からだけでは、汝の隣人を愛しなさい、ということが出てこないことに、びくびくしているのではないかと思う。
 それと比較するとグールドのほうはもっとオカルト的というか暗く、自分の中にある矛盾に気付いていて、というか自分が嘘をついていることの自覚があって、その矛盾がわかる人間にだけに自分の説が届けばいいと思っているような、一種のあきらめがあるように思う。グールド自身は科学を信じているのであろうが、すべての人を科学で説得できるというような不遜な考えは、持っていないように思う。
 ドーキンスは科学を理解できない馬鹿に苛立ちを隠さないが、グールドはもう少し理性の限界について寛容であるように思う。
 日本においては「社会生物学論争」というようなものがまったくおきなかったということ自体が、科学も文化背景の上に成立するということのなによりの証拠なのではないかとわたくしは思う。科学の論としてはドーキンスに軍配が上がることは間違いがない。しかし、人間は科学だけなのか、というようなことを科学の側の人間であるグールドが、科学の言葉で(科学を装ったかな?)言い出す矛盾が、グールドの魅力であるように思う。科学(偽装科学?)がいかに人種差別論に論拠を提供してきたか、ということをグールドはいう。ということは人種差別撤廃論にも科学(を装った?議論)は用いうるということである。昔の白人の学者は人種差別を肯定したいという動機が先にあり、それに都合にいい議論を捏造し蒐集したのだというグールドの主張は、人種差別を否定したいという動機から発する科学もまた、それに都合のいい結論を誘導するのではないか、という疑問をすぐに誘発してしまう。それをグールドは自覚していると思う。サンマルコ寺院のなんたらかんたらなどというのを探し出してくるのも、自説に都合がよくかつ意外性があり人がびっくりする話題を探した結果、見つけた出したものはないかと思う。サンマルコ寺院の構造がどうなっているかということが進化論の正否を決定するはずなどはないことは自明であるはずなのに、ある時期、進化論者がサンマルコ寺院の構造について論争するなどという奇妙なことがおきていた。
 以上は進化論方面の話題であるが、わたくしが覗いたころの黒木氏のHPは、いわゆるリフレ派の経済学者の集う場所にもなっていた。その当時の日本のデフレ脱却のためにはインフレ目標といった政策をとることが必須であるという議論であった。その当時わたくしも経済学の本を少し読み漁っていたので(だからこそクルーグマンの本なども読んだのだが)、それが黒木氏のHPを見てみるようになる直接の原因となった。
 わたくしには、リフレ派の議論というのは科学によって人間の営為をコントロールできるという議論であるように思われた。つまりデーキンスなどと一脈通じる理性主義的派の論であるように思った。そしてその当時、経済学音痴であるわたくしが理解できた範囲では、リフレ派の議論は正しいように思われた。リフレ派の議論によれば、中央銀行が現在の見えざる手ということになるのではないかと思えた。もしも、中央銀行が見えざる手であるとすれば、人智で人間の営為をコントロールできるということになる(人智が人間の営為に何らかの影響をあたえることについては誰も異存はないであろうが、思った方向へと誘導できるか、ということである)。
 それで疑問なのが、現在、日本の景気は少しは上向いているようであるが(これについても議論はいろいろとあると思う。しかし、数年前には、日本はデフレ・スパイラルでお先真っ暗、ここからの脱出には、もう戦争しかない!、というような議論が横行していた。たとえば、アメリカが大恐慌から脱出できたのは、ニュー・ディール政策によるのではなく、世界大戦がおきたためだ、とかいうような。少なくともそういうデスペレートな論は少なくなってきているように思う。それで、議論はもっぱら格差の方向に移っているようである。確かに景気は少しはよくなってきているのかもしれないが、その恩恵にあずかっているのは、一握りの上層部であって、大部分の人間はそれを実感できていない、というような方向である。議論が経済学から社会学に移ってきている)、そうであるならば、1)日本はデフレを脱却できたことを意味するのか? 2)それは日銀の政策誘導の成果によるものなのか、ということである。
 リフレ派の主張が正しいとすれば、日銀が何らかのインフレ目標に該当するようなものを明示的にではないかもしれないが実質的には導入したので、景気が回復しつつあるということなのであろうか? なにしろ当時の速水日銀総裁はリフレ派からは、経済理論のイロハも知らない痴呆法人のような言われ方をしていた。それが現在の福井総裁に代わって政策転換がおこなわれたことが、現状と結びついているのであろうか? この点について、どうもリフレ派の人は最近あまり発言をしなくなっているように思える。日本の経済の現状はリフレ派からはどう解釈されているのであろうか?
 稲葉氏の「経済学という教養」もリフレ派の議論に賛同することから書かれたというようなことが「あとがき」に書かれている。それにもかかわらず、いきなりソーカルの話から文化相対主義の話がでてくる。なぜそのような構成になっているのか、理解できなかった。稲葉氏は現代思想のほうが専門であって、その立場からの経済学論として、そのような構成が要請されたらしいことにあとから気付いたが、そのような著者の背景をしらないと理解できない構成というのは、単著としては少し具合が悪いのはないかと思う。
 以上、前書きが長くなったが、本書は稲葉氏が氏の専門である現代思想、特にポストモダン思想について論じたものである。最近、東浩紀氏の本を読んだ影響でポストモダンの方面の本を少し読んでいる。本書もまた、その線上で読んだのであるが、やはり、構成がよく理解できない本であった。
 第一章の最後、ジジェクらのシニシズムを現代において最も支配的なイデオロギーであると紹介し、これがポストモダンにおけるもっとも重要な思想的立場であるというような言い方で筆を擱く。当然、読者は、第二章以下で、シニシズムの分析がはじまることを期待すると思うが、第二章では、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」の議論がはじまり、続けて大塚英志氏の「キャラクター小説の作り方」にうつり、そこからリアリズム論、ファンタジー論やSF論となり、さらに公共性論からあっと驚くハンナ・アレントの「人間の条件」に移り(どう考えても、アレントポストモダンとは縁もゆかりもない人であると思う)、そこから「テーマパーク化」という見方を提言し、最後の方でまた東氏と大塚氏に戻ったかと思うと、永井均氏のデリダ論が東氏のものと比較され、と思うと本田透氏の「キャラ萌え」「脳内恋愛」論が紹介され、それが現代における出家の形態であるなどということが言われたあと、エリートと大衆論がはじまり、その二分法は現代においては最早無効であるという議論のあと、最後の数ページにおいて、ようやく稲葉氏の見通しが述べられる。それは大体、以下のようなものである。
 近代は近代の夢を見た時代である。しかし、ポストモダンには近代の夢に相当するものがない。単なる反=モダンであった。そこに東氏が登場したことは重要で、従来否定的にしか捉えられてこなかったポストモダンを、近代の夢なしでも生きていける社会として、はじめて肯定的にとらえうるという視点を提出した。理念がない、時代精神がないという事態を、困った事態、情けない事態として把握するのではなく、理念や時代精神なしでも生きていける時代として前向きに見たのだ、という。
 しかしポストモダンの時代は単に理念がない時代なのか、それともシニシズムあるいは動物化という積極的な生の技法である時代であるとするのかについては、東氏は明言していないという。そこから二つの立場が生じ、一方が、本田透氏のキャラ萌え=脳内恋愛路線であり、これは近代の夢を否定し、大きな夢をもたないことをわれわれの達成とする行きかたである。もう一つが、ポストモダン思想による近代批判を知った上で、それでも近代を擁護するという大塚英志氏の行きかたで、稲葉氏はどちらかといえば、大塚氏の路線でいきたいといい、まだ近代の可能性は残されているのではないか、その可能性を探っていきたいとする。
 ただ稲葉氏によれば、近代においては、近代の夢は普遍的なものであり、万人の夢であるとされていたのであるが、ポストモダンにおいては、近代が抱いた夢も一つの思想に過ぎないことになっているのだという。そのように相対的に見ることは必要であるが、ポストモダンの時代になって近代の夢が全否定されてしまったとするのは早計であり、近代の夢を少しばかりクールダウンして冷静に継承していく方向を探りたい、として論を終る。
 
 このように読んできて、わからないのが稲葉氏が見ている近代というのが何なのだろうか、ということである。稲葉氏に一番よく見えているのは、実はポストモダン思想なのであり、それが反対しているものとしてはじめて近代が規定されるという行きかたになっているように思えて仕方がない。つまり稲葉氏が見ているのは近代という時代ではなく、近代の思想家なのではないだろうか? 近代の夢という氏の言い方は非常に曖昧なのだが、自由とか平等とか今では手垢にまみれた言葉となってしまったものを、無批判に捨て去ってはいけないというようなことなのではないかと思う。
 わたくしのような素人にとっては、まず、近代=西欧近代である。そして西欧近代とは自由平等ではなく、科学技術+キリスト教である。もっと下世話にいえば、物質文明と永遠の魂である。物質文明と永遠の魂というのは、少しものを考える人間にとっては両立しがたいものであると見えるはずなのだが、それが多くの人間にとって矛盾でもなんでもなかったのが西欧近代であって、だから鉄砲を持って海を渡っていって現地の人間を皆殺しにしながら、それが福音を世界に広げていくことであると心の底から信じることができた。要するに野蛮が世界を征服したのである。だから、西欧の思想の歴史において反近代の思想が連綿とでてくることは当然なのである。しかし、野蛮に力をもたせたのはキリスト教に由来する普遍性(あるいは真理)という思想であった(科学を生んだのも、世界に普遍的な原理があるとするキリスト教の思想であることも、科学史の常識であろう)。
 そして普遍性の力が強いところでは、それに対抗して個という見方もまた強くなる。その個ということを主張したのは、普遍とのかかわりにとらわれていた思想ではなく、小説という形式であった。そして西洋が世界を征服するにあたって力があったのは科学技術でもあるが、個人の発見ということでもあったのではないか思う。
 西欧が自分に自信をなくする決定的なきっかけになったのが第一次世界大戦である。これにより人間理性による統治ということへの信を喪失した。そして戦争にこりごりした結果がヒトラーを生んだということが、西欧の二重のトラウマになっているはずで、反西欧、反近代の思想が、そこから陸続と生まれてくるのは当然である。そしてそういう思想を生むバックボーンとなるのも、「個」という思想なのである。
 日本は第一次世界大戦をほぼ無傷ですごした。それで近代の超克などという論がでる余裕をもてた。日本が決定的に自信をなくしたのは、太平洋戦争によてで、これは日本の精神主義アメリカの物質文明に敗れたのだということになったので、もう思想はいらない経済一本槍ということになった。朝日新聞の護憲論も、単に戦争はもうこりごりという以上の思想的なバックボーンはないのだと思う。
 日本のポストモダン思想のなんとなくおかしなところは、西洋では必然であった反西洋、反近代思想が生じる背景がほとんどないところに、輸入された学問として紹介されたところから生じているのではないだろうか? だから近代からポストモダンへの変換は東欧ソヴィエト圏の崩壊という外的な状況からもっぱら説明される。
 大きな物語の消失というのは、世界の枠組みを説明する超越的な存在を信じられなくなるということである。だから、西欧社会にとっては、それはキリスト教という二千年来の背骨なしで、これから生きていかなければいけないということである。
 西欧はキリスト教文明なのであるから、反キリスト教思想(反=超越論)の歴史もまた長く、腰がすわっている。日本の反西欧・反近代思想などは、今次大戦の敗北であっけなく霧散してしまう程度の根性のないものであった。だからポストモダンなどといわなければいけない必然性がどのくらいあるのだろうかと思う。
 近代とかポストモダンについて、わたくしの考えていることは全然大したことではなくて、人間もまた動物であるのだから、スピリチュアルだとかいうようなことはいかがわしい、そういうことを信じる人間にだけはなりたくないというだけのことである。そして、スピリチュアルがいかがわしいのならば、キリスト教もまたいかわがしいのであって、キリスト教が洗練されているのであれば、それは二千年の歴史がそうさせているだけなのだと思う。林達夫氏が「邪教問答」(「共産主義的人間」中公文庫 1973年)で、「かつて知名のある学者が冗談半分に(中略)、ギリシャ・ローマの教養ある人士の文章感覚が『新約聖書』の文体から感じたところは、例えば『ヨハネ福音書』の冒頭の句は「大初に言あり・・・言は神なりき」を「はじめに言葉があったんし・・・その言葉が神さまだんし」と訳し直してみるとよくわかるといったことがありました。お筆先のスタイルに甚だ似てくるというものです」といっている。オウム真理教だって、江原某氏だって、あと千年持てば立派なものになるはずである。わたくしにとって、西欧近代とは、科学技術という形をとってキリスト教がまだ信じられていた時代であり、ポストモダンとは科学技術さえも信じられなくなることによって、キリスト教への信が失われていく時代である。キリスト教が信じられなくなれば、人間は被造物ではなくなるのだから、動物に戻ることになる。動物化というのは、わたくしにとってはキリスト教的な思考の枠組みが失われたということである。
 本書によれば、本田透氏は「ぼくたちは、鬼畜になりたくないから萌えるんだ!」といっている、ということである。この鬼畜というのは要するに動物である。ケダモノである。本田氏の言にはかなり強烈な人間の優越意識、人間は精神をもつがゆえに尊く、肉体は醜く汚らわしい、人間は肉体を超越することができるがゆえに他の動物よりすぐれているという発想がある。これがキリスト教思想と通底するものであることは言うまでもない。とすれば本田氏の思考は、わたくしから見れば全然ポストモダンではなく、近代そのものであることになる。そういう精神尊重主義を批判した反近代論者がたとえばニーチェでありロレンスであったわけなのだが。
 本田氏の「喪男の哲学史」を論じたとき id:jmiyaza:20070225 、関係するブログなどを少し覗いてみたのだが、驚いたことに、グノーシス思想を真面目に真剣に論じている人がいるのである。アイオーンとかデミウルゴスといったことを一生懸命に考えている。グノーシス思想は、全知全能の神がいるのになぜ世界には悲惨があるのか?という問いへの卓抜な答えにはなっていると思うが、その世界像は荒唐無稽としかいいようのないもので、それを現代において自分の世界観の基礎にできるひとがいるとは、わたくしには想像もできないことだった。
 近代思想の根底は合理主義であると思うのだが、その合理主義の時代においても、それは物質の世界にだけかかわるとして、精神の世界は別の原理にしたがっているすることに疑問を感じない人が、近代には少なくなかったわけである。
 ポストモダンの時代は、人々が統一的な大きな原理がないことに痛痒を感じなくなる時代であるとすると、物質のことは科学に、心の問題は宗教へとして、両者の矛盾に平然と耐えられる人間がさらに多くなる時代なであるのかもしれない。むしろ非合理の時代へと回帰していくのかもしれない。
 わたくしのような合理主義を信奉している啓蒙主義者などというのは、単なる変わり者の時代遅れということになるのかもしれない。二十一世紀は宗教の世紀であるなどという人もいるようである。いやな時代だなあと思う。昔から自分はマイナーな人間であると思っているから、本当はそれで困ることもないのだが、少しは人間の進歩を信じている啓蒙の信奉者としては、暗澹たる思いでもある。
 稲葉氏の「近代の夢を早急には棄てない」というのも、合理主義の側に止まるぞ、という宣言であるのかもしれない。しかし稲葉氏は知識人である。多くの人はスピリチュアルに雪崩れていくのかもしれない。知識人の中で内輪で理性を前提に議論をしているうちに、いつの間にか、まわりは前世を信じ、占星術を信じるひとばかりになっていくかもしれない。ポストモダンが実は中世への逆もどりになったりすることはさすがにないとは思うのだが・・・。

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)