東谷暁「経済学者の栄光と敗北」(7)クルーグマン・シラー・スティグリッツ

 
 一時隆盛をきわめたシカゴ学派にかわってでてきた新しいケインズ派として、この3人が紹介されている。
 
 クルーグマン
 クルーグマンは本書では常に自信満々で政策を提言するが、見解をころころと変えるひととして紹介されている。
 わたくしがクルーグマンをはじめて知ったのは、山形浩生氏訳の「クルーグマン教授の経済入門」で、山形氏の訳の非常にくだけた調子が面白かった(原文がそういう口語調であるらしいのだが)のと、数式がほとんどなく、わたくしのように数式を見ると脳の活動が停止してしまう人間にもなんとなくわかったような気がするのがうれしかった。たしか、その解説でか山形氏が黒木玄氏による「黒木の何でも掲示板」というのを賞賛していて、そこを覗いてみたら、今から思うとリフレ派のひとたちが集結していて、日銀総裁の悪口が充ちみちていた。その時の総裁は確か速水さんというひとだったが、まるで白痴のような言われようであった。いまのわれわれは忘れがちであるが、バブルの時代にとんでもない悲惨な思いをしたひとは非常に多かったはずで、不動産はどんどんと値上がりし、「地上げ」などというのが横行し、まじめな勤め人が一生働いても小さな家一つ購入できないというような悲観が充満していた。だからバブルがはじけたときにそれを喝采した人も多かったわけで、どうも速水総裁もその一人らしいのだった。バブルの時に濡れ手に泡で大儲けしたようなひとが憎くてしかたがないらしく、そういう人が火傷を負ってこりごりして二度と土地転がしや投機によって金を儲けようなどと思わなくなるまで、バブルははじけたままにしておくほうがいいのだと思っているようであった。日銀総裁の役割は日本人に道徳を押しつけることではなく、「失われた10年」といわれるような状態を脱するための施策をおこなうことではないか、そう「何でも掲示板」では批判されていた。
 そして、そのような言論の震源地の一つがクルーグマンであったようで、そのころのクルーグマンの主張である「円を刷って刷ってすりまくれ論」から「インフレターゲット論」までが「何でも掲示板」での多数派見解となっていた。
 しかし、クルーグマンは、2000年には自信たっぷりに「私たちは景気後退を恐れる必要はない。もし景気後退がおきても、FRBが簡単に対応できる」と豪語していたにもかかわらず、リーマン・ショックがおきると「日本は対応が遅く、根本的な解決を避けていると、欧米の知識人たちは批判してきた。しかし、似たような状況に直面すると、私たちも同じような政策をとっている。・・日本を批判してきた私たちは、日本に謝らなくてはならない」というようになり、インフレターゲット政策は「それを達成できるとアメリカ国民は信じないだろうから」アメリカでは有効ではないだろうといいだすようになった。
 東谷氏は書いている。(クルーグマンが)「次々と政策を「売り歩く」のは、「ケインズ主義は正しい」と考えるからであり、「不況に対して経済学は何かができると信じているからなのである。」
 今のアベノミックスだか黒田路線だかについての報道を見ていても、それが日本の経済状況の回復のために正しい方向であるかどうかという前提からの議論であって、どこかに日本の経済を回復させる処方箋があるはずであり、しかもそれの鍵を握るのは政府の政策あるいは日銀の施策であるという暗黙の了解があるように思える。政府にも日銀にもその能力はありません、という選択肢は想定されていないようである。つまり非常に大きな枠組みでみるとケインズ路線のなかにいるようにみえる。そして具体的な経済政策というと規制緩和というようなシカゴ学派的な方向である。何だかよくわからない。
 不況に対して経済学は何もできないかもしれないというのも考えられるべき重大な選択肢の一つであるはずなのであるが、そういう方向はあまり表にはでてこないようである。
 もちろん、成長を追い求めるのをやめよ、それは最早、見果てぬ夢ではあって、現実には今後の日本が達成することはできない目標であるという見解もある。しかし、その反=成長路線はどこかで平等志向や福祉志向と重なるようなのである。だが、福祉とか平等というのも成長を前提として構想されたものではないかという疑義があり、もし成長とか景気の回復とかがないとその福祉や平等の達成もまた絶望的なのかもしれないのである。
 成長派も平等派もともに「大きな政府」派なのであり、広い意味で「賢者が何かをできる」という方向なのだと思う。それを否定すれば、「小さな政府」志向となり、国はあなたの面倒はみません。各自の才覚でやってください、富むのも貧しくなるのも自己責任です、ということになるのかもしれない。
 しかし、日本は高度成長期には「総中流意識」でやってきた国なのであるから、「小さな政府」「自己責任」路線は多くのひとにとって、きわめて受容しがたいものなのではないかと思う。日本人のなかには「大きな政府」「親方日の丸」「会社がそのまま社会」といった意識がしみついているのかもしれないわけで、自立した個人にはきわめて生きづらい社会なのであるのかもしれず、経済の問題といっても、結局は丸山真男問題(「なる」と「する」の対立)に帰着してしまうのかもしれない。なにしろ、出る杭は打たれ、足を引っ張られる社会なのである。「隣に倉たちゃ、わしゃ腹が立つ」世界で小さな政府などを志向したら、とんでもないことになるのかもしれない。
 
 シラー
 このひとは知らないひとだったが、早くからバブルの崩壊を予言していたひとらしい。シラーは「言葉を操る予言者の現代版であるグリーンスパン」といっているらしい。黒田日銀総裁もまたそうなのだろうか?
 効率的な市場などというのは学者の頭のなかにしか存在しない、現実には存在しないものであるとシラーは考えるので、その点では最近流行の「行動経済学」に近いという。
 行動経済学は、これまでのアカデミックな経済学が前提としていた合理的な経済人などは現実には存在せず、われわれの日々の行動はきわめて不合理な選択によっておこなわれていることを主張しているものだと思う。
 とすれば、ハーヴェイ・ロードの前提に立つケインズの路線とは対立するのだろうか? それとも、賢者と一般大衆をわけ、賢者は合理的、一般大衆は不合理とし、合理的な賢者が不合理な一般大衆を良導するというのがケインズの前提なのであり、行動経済学ケインズ路線とは対立しないものなだろうか?
 
 スティグリッツ
 このひとの本も本棚をさがせば一冊くらいどこかにあるかも知れないが、どうも好きになれない。何だか進歩的文化人という気がするのである。
 スティグリッツは「不完全情報の経済学」という分野を開発したひとらしい。それまでの経済学は完全情報を前提にしていたから、それは経済学の前提をくつがえしてしまう可能性がある。
 スティグリッツはこれを開発途上国などの世界経済の問題に応用し、IMFのやりかたを強く批判するようになる。市場は政府により規制されることによってはじめて機能するのであり、自由放任の市場を前提とした政策を途上国に押しつけたIMFは根本的に間違っているというのである。
 金谷氏は、最近のスティグリッツの主張は社会運動家か宗教運動家のものであっても、経済学からの発言とは思えないといっている。そうなのかもしれないが、それが賢者は正しい道を示すことができるという路線の上にあるのではないだろうか?
 
 問題は人間はどこまで賢いのかという問題に帰着してしまうのかもしれない。専門家は素人よりは少しは多くのことを知っているのかもしれないが、それは所詮五十歩百歩であって、本当に知らなければならないことにくらべれば圧倒的にわずかなものなのかもしれない。
 また、経済学は万古不易の真理を提示できることはなく、その時その時に応じて、ベストではないまでもせめてベターな策を提示できるだけの学問なのかもしれない。そうであればクルーグマンがその時その時に応じて主張を変えるのもまた当然のことなのかもしれない。とはいっても、その時その時において、どのような策が選ばれるべきかを決めるのが誰なのかという問題は残る。それまた賢者なのだろうか?
 賢者はおらず、市場こそが最高の賢者の代理人なのだという見方もあるだろう。その場合、市場がくだした判断?が「正しい」ということがあるのだろうか? それはいいも悪いもないただ市場という最高神がくだした判断としてうけいれるしかないものなのだろうか?
 経済学の一番の基本原理はフリーランチというものはないということを学ぶことなのだということをよくきく。資源は有限であって、ただ飯は存在しない。「あれもこれも」は無理で、「あれかこれか」を選ぶしかないとなると価値の問題がでてくる。しかしそれでは収拾がつかないことになるから、「お金」という計量可能なもので暫定的な解決策をしめす。「自由」か「平等」か、も「あれかこれか」の一種で、自由も平等もというのは無理なのであろう。
 本書はケインズからはじまっていた。若き日のケインズ福音書はムアの「倫理学原理」で、それは功利主義を否定しようとするものであった。前にも書いたように、わたしはムアの「倫理学原理」のことを清水幾太郎氏の「倫理学ノート」で知った。その清水氏は「功利主義のどこが悪いのか、どうしても、私には納得することが出来ないのである」というひとである。「功利主義は、大地に縛りつけられた人間の欲望や満足という事実を明らかにし、また、この満足の極大化に対するエリートの責任を明らかにしている」ともいう。そして後書きである「余白」で、オルテガ・イ・ガセットを論ずるのである。オルテガは「人間を二つのグループに分けて、一を「貴族」と名づけ、他を「大衆」と名づけた。前者は、無理と知りつつ、敢えて自分に高い要求を課し、それへ向って生きる少数派であり、後者は、自分に何一つ要求を課することなく、現にある自己のままに生きる多数派である」として、最後を、「飢餓の恐怖から解放された時代の道徳は、すべての「大衆」に「貴族」たることを要求することろから始まるであろう。しかし、それが不可能であるならば、「大衆」に向って「貴族」への服従を要求するであろう」というとんでもない文で結ぶ。
 問題は、清水氏がこれを書いたとき(昭和47年出版)、氏がわれわれは飢餓の恐怖から解放されたと思っていることである。わたくしが思うにポスト・モダン思想が前提としてたのも、もはや(先進諸国においては)飢餓の問題は解決されたということだったのではないだろうか。正社員なんかになるのは馬鹿で、フリーターこそがナウい生き方であるというようなムードが、バブルのころにはあった。しかし、失われた10年だか20年を経て、飢餓とまではいかないにしても貧困の問題がふたたび切実な問題となってきている。
どうも清水氏は飢餓への恐怖とまでは言わないにしても、貧困への恐怖が存在したほうが「大衆」はまともでいられると思っているふしがある。
 東谷氏が本書で述べていることも、つきつめると清水幾太郎氏が提示した問題にいきつくのではないかという気がする。われわれはある時期、みんな中流、貧困の問題は解決されたと思ってしまった。しかし、それにもかかわらずふたたび貧困の問題が前面にでてきている。一時期の豊かさは何かの間違い、あるいは偶然の産物であり、少しも経済政策の成果ではなかったのかもしれないのだが、あの豊かさをどうにかすればまた取り戻せるはずという幻想からどうしても自由になれないのかもしれない。
 

クルーグマン教授の経済入門

クルーグマン教授の経済入門

倫理学ノート (講談社学術文庫)

倫理学ノート (講談社学術文庫)