福田和也「奇妙な廃墟 フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール」

  ちくま学芸文庫 2002年
  
 海野弘氏の「二十世紀」の感想を書いていたとき、氏が、ナチスがなぜドイツで政権をとることができたのかについて、「ヒトラーは今なお、二十世紀の謎をつきつける」と述べ、ダヴィドという人の「たとえば人種主義ひとつとりあげてみても、あれほど不合理なことのはっきりした理論が、なぜ長いあいだ、偉大な民族の規範となりえたのか。また、あれほど無駄な犠牲をはらうことが、なぜ長いあいだ、国民の賛同をえられたのか」といっているのを紹介しているのを読んで、あらためてそのことを考えてみた。
 今日、誰もが平気で悪くいうことが公認されているもの筆頭がナチス政権である。それは合法的に多数決によって選ばれたものであるにもかかわらずである。
 今日、共産圏が崩壊した後となっては、あのような政治体制が一時的といってもかなりの長期に存在しえたことを、今の若い人は不思議に思うかもしれない。しかし、その体制が全世界を席捲してしまい、西側陣営は消失してしまって、民主主義とか多数決原理とかいう神話が信じられていたのが不思議なこととして振り返られるようなことになっていなかったのは、偶然であるかもしれないのである。第二次世界大戦は<正義>と<悪>の闘いであったのであり、結局は<正義>が勝利したのだ、<正義>はからなず勝つのだ、というのはとても皮相な見方である。
 ソヴィエト連邦が崩壊したのは、それが何か無理な体制であったからなのであり、人間が長く耐えうる体制ではなかったからというようなことがあるのだろうか? かりにナチスドイツが第二次世界大戦で勝利していたとしても、ナチスという体制は、それが人間のありかたににどこか根本的に反しているので、いづれは自壊する定めにあったのだろうか? それともそもそもナチスドイツ体制は戦争を長期に継続することさえ出来ない自己矛盾を孕んだ体制だったのだろうか?
 わたくしは普段ナチスとかヒトラーとかいったことについて特に考えているわけではない。ただ、ファシズムということが絶対の悪であるようにいわれ、それを糾弾することに誰も疑問を抱かない状態は、一種の思考停止状態である、ということを感じているだけである。そして海野氏の本を読んでいて、なぜだか、この「奇妙な廃墟」という本を思い出した。以前に買ってあって、それがフランスにおけるコラボラトゥール(第二次世界大戦中、ドイツ占領軍のフランス統治に協力した作家・文学者)について書いている本であることは知っていたが、読まずに置いてあった。何となく、エズラ・パウンドのような政治音痴の文学者の話だろうと思っていて、三島由紀夫が<天皇>といっていたのと同じで、福田氏の世の中への悪意と嘲笑を示した本なのだろうと感じていた。
 最近、ポストモダン思想という辺りをすこし読み漁っていて、それがまさに反近代主義、日本戦前における<近代の超克>と同根のものであることを感じるようになった。またアメリカというのが現代世界における<近代>なのであり、反グローバリズムというのはほとんど<反近代>思想なのでないかとも感じている。それで、この本の副題にある<フランスの反近代主義>ということに興味をもって、この本を今回はじめて通読してみることになった。
 おそらくナチスが政権をとれたというのもそれが反近代思想であったからなのであり、日本においても太平洋戦争突入があれほど明るいこととして受けとられたのも、その当時、日本が近代というものに倦んでいたからであることは間違いないのだろうと思う。当然、コラボ達はさまざまに立場は違っても<反近代>の側にいた。だからこそ、ナチスと親和したわけである。
 本書を読んでみて、なぜ今ごろフランスの反近代主義を福田氏が論じるのかはきわめて明白であると思った。フランスは第二次世界大戦において、ほとんど戦わずしてドイツにやぶれ、ヴィシー政権というドイツに協力する政権下に大戦のほとんどの時間を過ごした。ドゴール亡命政府という実態がほとんどないものがかろうじて存在していたために第二次世界大戦戦勝国の側にくわわる形にはなったが、実際には敗戦国なのであり、ヴィシー政権はドイツ占領下の政権のようなものであった。ということは、これがほとんどそのまま Occupied Japan の問題につながるわけである。ということで、この本は明白に日本を意識した本ということになる。

 ここでとりあげられている作家は、ド・ゴビノー、バレス、モーラス、ドリュ・ラ・ロシェル、ブラジャック、ルパテ、ニミエである。バレスの名前はドレフィス事件とのかかわりでわずかにきいたことがあり、あとモーラスの名前もなんとか知っていたが、それ以外は初耳の文学者ばかりであった。ドリュ・ラ・ロシェル、ブラジャック、ルパテの本当のコラボの3人はまったく知らなかった。フランスにおいて禁忌としてあつかわれているという事情もあるらしい。

 ゴビノーは1826年生まれ。彼は、ヨーロッパ文明の本質を「進歩」とし、オリエント文明の本質を「智」であるとした。西欧の社会的病はその文明の本質である「進歩」に由来するのであるから、もはや直しようにないものとかんがえた。またプロシャ王政に起因するドイツ人のモラルの均質化は、高貴で詩的なドイツを永遠に絶滅させ、人間性を産業セールスマンの愛想笑いの中に閉じ込めてしまうとした。
 ゴビノーは「人種不平等論」というのを書いていて、ナチスに大きな影響をあたえたといわれる。しかし、それは原著を読んでいなからであると福田氏はいう。混血により人間が均質化することにより文明は死滅する、というのがその趣旨であるという。ゴビノーは近代市民社会の普遍主義、画一性を激しく憎んだ。

 バレスは1862年生まれ。若き日にディレッタントとして出発したが、それは現実から乖離することですべての事象を理解するという不毛につながるとして、無意識の行動としてのアンガージュマン、非−理性の行動によりそれを乗り越えようとした、と福田氏はいう。文学は作品の内部、テクストのなかだけでは自足できないのだとし、それがバレスの場合には「土地と死者」という民族国家の方向となった、と。
 だが、そのバレスの思惑はドレフィス事件によるフランスの分裂で頓挫してしまう。共和制の側は理性と近代主義、普遍性と中央集権、資本と金銭を代表し、右翼の側は大地と死者の価値として無意識と伝統、分権と民衆を代表するものとされた。バレスのキーワードは「根」であった。ドレフィス派が要求した「真理」に対しては、国家や国民の状態から離れた普遍的な「真理」などはないとした。そういう抽象的な真理を求めることは国民をその基盤から「根こそぎ」(デラシネ)することであると批判した。

 モーラスは1868年生まれ。フランスにおける反近代主義と反ヒューマニズムの系譜の完成者である、と。しかも単なる反近代ではない「古典主義」という別の価値基準をつくりあげ、それは英米のエリオット、T・E・ヒューム、パウンドに大きな影響をあたえた(自国フランスでは、ヴィシー政権への加担のゆえに、評価をされていないが)。
 モーラスは王党派であったが、その王政主義とデュルケイムの社会学の関係を福田氏は論じている。モーラスは、自由をもとめる共和制のもとでは実際には人は権力慾と金銭欲に支配されて生を楽しめないので、不易の体制のもとでこそ、伝統的な価値観のなかで人は多様な生の局面を生きることができるとした。国王というは無意味であるからこそ超越的たりえ、「血統」という不合理な根拠のないものによるからこそ、民主主義に起因する国民の欲望を制限することができると、モーラスはした。
 モーラスもデュルケイムも「秩序」を考えたのだという。デュルケイムはアノミーの解消のため、個人を包含する集団が必要であるとしたが、それを担うものとして職業集団を考えた。モーラスの王党主義はアノミーを解消するための地域集団ともいえる、と福田氏はいう。またモーラスにとっての国王は、コントの唱えた「人類教」のようなものかもしれないともいう。
 若い時代のモーリス・ブランショはモーラスに魅了された。ブランショはやがてモーラスから離反し、ハイデガーをよりどころとするようになる。このことが後のフランス思想の中でデリダからドゥルーズにいたる反ヒューマニズムの流れを生むことになる。
 T・E・ヒュームは、近代ヨーロッパの築いた人道主義、個人の尊重、人権、平和、平等といった価値を転倒しようとした。

 以下のドリュ・ラ・ロシェル、ブラジャック、ルパテの三人が真正のコラボラトゥールである。ドイツはイタリアとは違って、政治的には無力であったフランスのファシズムは、文学的、文化的には大きな成果を生んだ、と福田氏はいう。

 ドリュ・ラ・ロシェルは1893年生まれ。ドリュは、いまやアメリカとロシアに挟撃されてヨーロッパは存亡の危機になると考えた。フランスがドイツと争うなどは自殺行為であり、真の敵は物質主義のアメリカとボルシェヴィズムのロシアであり、フランスはヨーロッパの生き残りをかけてドイツと協調すべきである、とした。ドリュは社会主義を志向したのであり、アメリカに代表され、フランスをも汚染している金銭の力、資本主義の超克を目指したのである。近代の衰亡し退廃した人間の再生としての革命を望み、ファシズムにそれを見たのである。ドリュは自殺により生を閉じた。

 ブラジャックは1909年生まれ。かれもまた西欧の文化と文明に強い危機感を持ち、政治を最優先する左翼の行き方ではなく、個人の幸福と大義が両立するものとしてファシズムを見た。かれはスペイン戦争の悲惨をみたが、古い価値が没落しつつあるヨーロッパでは戦いは避けれらないと考えた。かれはナチズムではなくスペインのファランヘ党というきわめて文学的なファシズムに共鳴した。それはほとんど地中海的な生の甘美さの追求なのであった。かれが欲したのは「澄んだ空気」だったのである。ブラジャックは対独協力者として銃殺された。

 ルパテは1903年生まれ。ルパテはそのきわめて高い教養のゆえに、西欧の教養はユダヤ人絶滅でしか守れないとした。しかしその教養は柔軟で、反近代主義というよりヒューマニズムに近いかもしれない。それにもかかわらず、ルパテはユダヤ人絶滅を願ったのである。かれはラッシュアワーや百貨店や雑踏を嫌悪し、それらを黙示録の四騎士が降臨して焼きつくさないかと願うような人物であった。近代とヒューマニズムの価値にもとづく市民生活へのテロリズムとしてのナチズムをかれは支持した。
 均質化され疲弊した人間の「魂」の復権を彼は要求した。エロスの領域とかかわる「魂」の世界である。かれは正統的な教養をもっていたがゆえに、近代の害毒をねだやしにするためにはあらゆることをしなくてはならないとした。ルパテの提示する問題は以下のようなものである。《西欧の文芸、人文主義の伝統とその人間的薫陶には内在的にホロコーストを阻むことができない、それどころかそれを許し、あるいはかきたてる何かがあるのではないか?》ということである。あらゆる西欧芸術の富は野蛮の温床でもあるのではないか? だからこそ「アウシュヴィッツのあとで、詩を書くことは野蛮」なのではないだろうか?
 ルパテの問題はハイデガーナチス突撃隊への親和の問題ともつながる。《生気あふれる精神文化の復活》と《ホロコーストの要求》はひと組のものとしてしか得られないのであり、前者だけをとって後者を否定することは可能なのだろうかという問いである。
 ルパテは自殺もせず銃殺もされず、死刑の求刑は恩赦され1952年釈放され、その後は音楽史などを執筆し、1972年に死んだ。

 最後のニミエはエピローグ。1925年うまれ。敗戦国フランスが戦勝国であるがごとくにふるまう欺瞞に抵抗した。自動車事故死。
 
 ここの紹介されている人間が反=近代であるのはさまざまな理由によっている。あるものは反=画一である。あるものは反=根こぎである。あるものは反=金銭である。また反=資本主義である。あるものは反=混濁である。また反=大衆である。それならば、近代とは、画一的で根をもたず、金銭欲にもとづく資本主義のもとに生きる大衆による、混濁し汚染された社会ということになる。たとえば今われわれが生きている社会とはそのような社会なのだろうか? それをそうでなくすることができるのはないかという夢が、マルクス主義を生み、ファシズムを生んだ。今、その夢はイスラム社会に残っているのだろうか?
 ドリュ・ラ・ロシェル、ブラジャック、ルパテといった人たちのことを読んでいて、すぐに想起するのが三島由紀夫である。百貨店で嬉々として家具を選んでいる家族を見ると吐き気がするといった三島由紀夫。道徳的マゾヒストを自称した三島由紀夫。とにかく三島はゆるいものに耐えられなかったのだと思う。緊張していない人間を許せなかったのだと思う。
 最近読んだ呉智英の「健全なる精神」(双葉社)に「「本気」の時代の終焉」という三島由紀夫の死を論じた文が収められている。呉氏のよれば、三島の死は本気の証明だったのであり、そして三島の死のあとわれわれは《「本気」が滑稽にしかならない時代》を生きることになったのだという。つまり《実務の時代》になったのだ、と。英雄が待ち望まれる時代は不幸な時代なのであり、思想や哲学や純文学が尊敬を集める時代も不幸な時代なのだという。1970年以降、日本は真面目な「本気」は「実務」の前に膝を屈して「幸福」な時代が到来したのだという。呉氏もしっかり年金に入っているそうだから、「実務」の人である。
 なんだか「奇妙な廃墟」で描かれている近代というのは「実務の時代」であるように思える。この「奇妙な廃墟」で描かれるのは非実務の思想家であり、純文学者なのである。
 まだ読んでいないけれども、ヴィノックという人の「知識人の時代」(紀伊国屋書店)という本があり、これはバレスからサルトルまでのフランスの知識人の動向を語っている本のようであるので、福田氏のこの本と相当部分がオーヴァーラップしている。バレスはゾラの「私は弾劾する」を「知識人の思い上がり」として批判したのだそうである。知識人という言葉はこのころようやく使われだしたということである。
 ポール・ジョンソンの「インテレクチュアルズ」(共同通信社 1990年)によれば、最初の近代知識人がルソーなのだそうだが、「奇妙な廃墟」でとりあげられている人間は多かれ少なかれルソーに通じるところがあるような気もする。反=都会、反=人為性、反=理性、反=堕落、反=資本主義・・・。そして、これまたナチスにも通じるところがあるような気がする。そうするとナチスもまたルソーの子孫?。
 そしてまた、全共闘運動というのも反=近代の運動だったのだなあ、ということを感じる。そして三島由紀夫全共闘運動を批判したのは、それが「本気」のように見えて「本気」ではなかった点なのだと思う。要するに「本気」とは「死ぬ気」なのである。とすれば、「実務」とは「生き続けること」である。
 現代日本人の最大の関心は年金問題である。安倍首相がなんだか滑稽なのは、現代が実務の時代であることを理解せず、政治というのが実務なのだということをも理解していないように見える点である。
 だが、実務だけでいいのか? それでさびしくはないのか? という声がどこからか聞こえてくる(安倍首相もまたそう言っているのだろうか? 選挙事務所の光熱費などということを議論しているだけでいいのか? もっと大事な問題はないのか? といいたいのであろうか?)。そしてそれは《西欧の文芸、人文主義の伝統とその人間的薫陶には内在的にホロコーストを阻むことができない、それどころかそれを許し、あるいはかきたてる何かがあるのではないか?》ということにつながる。あらゆる西欧芸術の富は野蛮の温床でもあるのではないか? ということである。もっといえば、西欧のという限定をおくことも必要ないのかもしれないくて、あらゆる芸術の富は野蛮の温床でもあるのではないか、ということでもある。
 この「奇妙な廃墟」は1989年に刊行されている。現在刊行される本にはみられない奇妙な熱気、本気を含んだ本である。氏はこの本を22歳から29歳までの7年をかけて書いたという。氏はここでとりあげたブラジャックらは「人生の美しさ」を信じたのだという。「実務」の世界には美しさがないのである。福田氏も耳にはブラジャックの銃殺される直前の言葉、「勇気!」という言葉が響いているという。たぶん、「実務」には「勇気」も必要がないのである。
 

健全なる精神

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