T・C・W・ブラニング「フランス革命」
岩波書店 2005年
「啓蒙主義」「アンシャン・レジーム」ときて、今度は「フランス革命」。三点セットである。
ボードリヤールに「湾岸戦争は起こらなかった」という本があるが(読んでいないので、どんなことが書いてあるのかはしらない)、「フランス革命は起こらなかった」とでもいうような本である。もちろんフランス革命といわれる時期に何かがおこった。昔読んだJ・M・ロバーツの「世界の歴史 7 革命の時代」(創元社 2003年)を読み返してみたら、「(フランス革命の)本質や定義についてさまざまな見解があり、おそらく「1789年にきわめて重大な変化が開始された」ということ以外には、ほとんど一致する点はないといえるでしょう」とあった。むしろフランス革命がもたらしたものは、ロバーツによれば、
こうして革命は神話となり、いくつもの悲惨な状況を生みだしていきました。そして最初はヨーロッパが、つづいてヨーロッパが支配した世界が、この神話に情緒的に反応するやっかいな人びとをかかえこむことになりました(かつて宗教上の対立という愚かな現象をかかえこんだのと同様に)。こうした思想が現在まで存続してきたのも、フランス革命の影響がいかに大きかったかの証拠だといえるでしょう。
ということであって、フランス革命が事実としてどうであったのかということよりも、フランス革命がどのような神話を生みだしたのかということのほうが重要なのだということなのであろう。
いうまでもなくロバーツも一つの立場に荷担しているわけで、フランス革命の神話がいくつもの悲惨を生みだしたとする側である。そうであれば、当然フランス革命を脱神話化しようとする動きもでてくるわけである。フランス革命はロシア革命の先行モデルとされたいるのだから、ロシア革命から生まれたソヴィエト体制がフランス革命後200年で崩壊した後においては、当然フランス革命への見方も変わってくる。本書はその変化を示している。もっと露骨に言えば「マルクス主義から見たフランス革命観」対「非(反?)マルクス主義的フランス革命観」の対立である。本書を読んで改めて感じるのは、わたくしが高校時代に世界史で習ったフランス革命というのは、マルクス主義的フランス革命そのものだったのだなあ、ということである。そして、大学時代には革命的マルクス主義者同盟などというものがあった。革命という言葉から光背が消えたのはいつ頃からなのであろうか?
1954年にコバンというひとがおこなった「フランス革命の神話」という公開講義がフランス革命についての論争の皮切りとなったのだそうである。それはフランス革命がブルジョア革命であったのかという論争である。なぜ論争が錯綜するのか? それは論争が事実をめぐってのものではなく、「近代史の過程」「社会関係」「人間の本性」といった『不確かなことをめぐる仮説』の争いだからである。
コバンが攻撃した「神話」は「マルクス主義的解釈」と呼ばれる。聖職者と貴族という第一身分と第二身分が支配していた社会を、新興階級であるブルジョアジー打ち倒したという図式である。それは、封建制から資本主義への変化の決定的な段階をしめすとされる。もちろん、これはヨーロッパのすべての地域でおこなわれたのだが、マルクスは、フランス革命をその速さ、暴力、完璧さのゆえに、『世界史におけるもっとも偉大な革命』であるとした。
それに対立するひとたちがレヴィジョニストである。彼らはいう。1)ブルジョアは貴族と闘おうなどとはしなかった。かれらの望みは貴族になることであった。2)ブルジョアも貴族も多様であって、一枚岩ではなかった。3)啓蒙思想の多くは自由主義的な貴族が生みだした。
それならなぜ危機がおきたのか? 1)アメリカ独立戦争に荷担したことによる財政の逼迫。2)1788年の不作、が原因である。
貴族とブルジョアの間にあったのは階級闘争ではなく、権力闘争であり、彼らは『名士たちによる名士たちのためのフランス』をつくろうとした。しかし、予期していなかったし望まれてもいなかった人民大衆の介入がおきた。だが結局、テルミドールのクーデタにより名士たちはまた権力の座にもどってきた。そしてそこに居座り続けた。革命によっても経済体制はほとんど変わらなかった。たしかにその後フランスも近代化の過程をたどったが、それは革命の賜ではなく、革命があったにもかかわらず実現したのである。古い体制をこわしたのは革命ではなく、鉄道網の整備であった。
それならば、啓蒙思想はブルジョアの思想なのだろうか? 啓蒙思想とフランス革命の関係はどうなるのだろうか? 啓蒙思想家の相当部分は貴族であった。啓蒙思想家の本を読んだのはエリートたちだった。首都のサロンには貴族とブルジョアの知識人が一堂に会した。フィロゾ−フたちがめざしたものは、『世俗的、合理的、人間的、平和的、開放的で自由な社会的・政治的体制』であった。自由とは恣意的権力からの自由であり、言論の自由、職業の自由、才能を開花させたり審美的判断を下せる自由、もっと一般的にいうならば『道義をわきまえた人間が、この世でわが道を行くための自由』である。このリストには「平等」がない。彼らは平等主義者ではなく、功績主義者であった。彼らは品格に対して肯定的で、宗教に対しては否定的であり、本当に急進的であったのは啓示宗教に対してである。それは『教養あるエリートの、教養あるエリートのための運動』であった。ルソーを除けば、大衆の啓蒙が可能であるとは考えていなかった。ヴォルテールは、一握りのきちんとものを考える人びとだけを啓蒙できるのあり、一般の人びとは狂信的なままであろうと考えていた。
ここでわたくしが偏見で毛嫌いしていて読んでいないハーバーマスのとなえた「公共圏」ということがでてくる。記載だけからは大衆社会論とかマス・メディア論としか思えないが、とにかく、アンシャン・レジーム期において、何が奨励されるべきであるかを決めるのは王立アカデミーであったが、それが次第に消費者である公衆にとって変わられたとされる。当初、王政の対抗者は高等法院であった。しかし次第に高等法院は国民主権という概念と結びついてきた。王と国民という対立ができてきた。ダーントンという歴史家は、高級な啓蒙思想ではなく、低俗な出版物がアンシャン・レジームをむしばんだとしているのだそうである。
本書によれば、革命家たちのイデオロギーは革命の前にあったのではなく、革命の危機の間につくりあげられた。啓蒙思想家は穏和な改革を望んだのであり、フランス革命で実際にみられた急進性を少しものぞんではいなかった。
それなのになぜ革命は急進化したのか? あるいは改革ではなく、革命がおきたのか? それは革命が正当性のシンボルの争奪戦になったからである。革命家はルソー同様、直接民主制を信じた。しかし、一方ではフランスの規模で直接民主制は不可能であることも認めた。その結果生じたのが、自分たちは人民の意志を体現しているという言説の争いであった。言説は何かをめざす手段ではなく、言説自体が目的となった。言説が行動となり、言説自体が政治となった。
フランス革命はフランスの経済をほとんど変えなかった(むしろ停滞させた)。革命は基本的に経済的なものではなく政治的なものであった。それは新しい政治文化を劇的につくりあげた。それは『民主主義的な共和主義のもつ動員可能性』と『革命的変化の圧倒的な強烈さ』をしめした。フランス革命のあと、革命は伝統となった。そこから生まれたものは『権威主義的なカリスマ的指導者が民主主義的なレトリックによって支配する体制』である。それはボナパルティズムを生む基盤となり、ドゴールの第五共和制を生んだ。この形態が「フランスの民主主義にとっての唯一の可能性である」という説もある。
昨日、「友愛」を唱えるかたが民主党の代表になられたようである。「自由・平等・友愛」 フランス革命の威光いまだ衰えずということなのだろうか? 昨今の小沢氏のいっていることは、共産党であれば民主集中制というかもしれない。「権威主義的なカリスマ的指導者が民主主義的なレトリックによって支配する体制」とはよくいったものである。日本もまたフランスなのだろうか? 「民主主義とは最悪の制度である」というのはチャーチルの言葉だったのかもしれないが、「民主主義とは最善の制度である」というあやまった思い込みの起源がフランス革命だったのかもしれない。
穏和な改革という主張はまず実現することはなく、過激で非現実的な主張は何かを破壊するが、その後から想像もしていなかった何かが生まれてくることが多い。穏健な思想の弱点はそこにあり、多くの場合は現状を少しも変えない。一方、過激な思想の問題点は、何かを生むが、生まれるものが予想もつかないことである。前途有望な怪物などというのは少ないのだから、過激な思想は多く悪い結果を生む。しかし、本当にまれに大きな前進をもたらすこともある。
穏健な思想が何かを生まないのは、それが人の情念に火を点けないからである。一方、過激な言葉はひとを酔わす。ヴォルテールが史上有数のアジテーターであり、天才的なジャーナリストであったとしても、思想史上最大のアジテーターはマルクスであったのかもしれない(本当はイエスであり、モハンマドであるのかもしれないが)。アジテーターは言葉で人を殺す。フランス革命までは、政治の議論は知識人たちの間だけでやりとりされるものであった。フランス革命以後はそこに民衆が参加してきた。
マルクスの思想はかつて多くの人びとの心に火をともした。最近はそうでもないようである。それはソヴィエト東欧圏の崩壊によるのだろうか?
トッドは「移行期の危機」ということをいう(「帝国以後」藤原書店 2003年)。ある社会が一定の識字率をこえると社会は不安定化し、移行期のヒステリーが生じるのだ、と。
進歩というものは、啓蒙思想家たちが想定したように、あらゆる面において容易で幸せな一本線の上昇であるわけではない。伝統的な生活、つまり読み書きを知らず、出産率と死亡率の高い、均衡の取れた慣習通りの日常生活からの離脱は、当初は逆説的に、希望と豊かさの実現だけでなく、ほとんどそれと同じぐらいの当惑と苦悩を産み出すのである。しばしば、おそらくは大抵の場合、文化的・精神的テイクオフは移行期の危機を伴う。不安定化した住民は暴力的な社会的・政治的行動様式を示すことになる。精神的近代性への上昇には、しばしばイデオロギーの暴力の爆発が伴うのである。
ブラニングの本書によれば、1788年のパリでは、100年前に比べて10倍もの人が読書をしたという。これはおそらく「公共圏」ということとかかわるのであろう。トックヴィルがいう《人間がもつ平等への性行》というのは、教育への性行、識字への性行ということなのかもしれない。人間は生得的に話すことができるが、読み書き算盤は生得的なものではない。それは教育によってしか身につけることができない。そして読むことが「個人」をうみだす。17世紀のイングランドでは、神の名において殺し合いが(節度をもって)おこなわれた。それはわれわれにはもはや理解できないことである。しかし、フランス革命やロシア革命あるいはドイツ・ナチズムについては、それに同意するにせよしないにせよ、理解できないとは思わない。ではあっても、それらはともに移行期の危機であることには変わりがない、とトッドはいう。
「近代化のある程度の局面が過ぎると、各国社会は沈静化し、住民の多数に受け入れられる非権威主義的統治形態を見つけ出す」とするトッドの仮説が正しいとすれば、われわれがマルクスの説にもはや血が騒ぐことがないのは「近代化のある程度の局面」をわれわれが通り過ぎたためということになる。マルクスはもともと革命を煽ったのであるが、まったくそうではなかった啓蒙思想家の言説も、たまたまそれが近代化のある局面と一致したため、移行期ヒステリーに火をつけてしまったのかもしれない(理性への狂信)。プラトンの哲人国家論をポパーは批判する(「開かれた世界とその敵」)。しかし知識人の言葉が力を持つのは「近代化のある程度の局面」においてだけなのかもしれない。
近代以降は、哲人が勝手に国家を運営することなど許されず、多数の信任という手続きが必要とされるようになり、フランス革命以降、平等ということを無視して政治はできなくなった。しかしながら一方ではあらゆることが専門化していっている。それなのに政治という分野だけは、国民という素人が決める、そんなことが可能なのであろうか? だから「権威主義的なカリスマ的指導者が民主主義的なレトリックによって支配する体制」ということになるであろうし、さらに日本では「非権威主義的でちっともカリスマにはみえず、少しも指導者のようにもみえないひとが民主主義的なレトリックによって支配する体制」ができあがっているのかもしれない。議員は選挙で選ばれても、官僚は選挙の洗礼をうけない。官僚たちは、議員たちを馬鹿にしながらも、「議員先生」と奉ったふりをして、自分たちがいいと思うことを黙々と実行している。フランスも日本に勝るとも劣らない官僚国家なのだそうである。
本書を読んでいると、橋本治の「江戸にフランス革命を!」というのは少しナイーブなのかなと思えてくる。江戸の町人は遊んでいただけなのかもしれないが、フランスの町人は「俺もお侍さんのような身分になりたい」と思っていただけらしいのである。フランスの貴族の身分は金で買えた。江戸では町人はお侍さんのようになりたいとは思わなかったのは、そうなれる仕組みがなかったからばかりでなく、侍が貧乏であったからでもある。権威には金がなく、支配される側のほうに金があるというのは、なかなかうまい仕組みである。日本人が官僚の天下りにえらく敏感なのは、官僚は力をもっているのだから、貧乏くらい我慢しろを思っているためかもしれない。「武士は食わねど高楊枝」というのは大事なことなのである。これを翻訳すると「ノブレス・オブリージ」になる、というのは嘘であるが。
「武士は食わねど高楊枝。/全く僕はこの諺がすきだつた。」と原口統三は書いている(「二十歳のエチュード」)。また「僕は馴れ合ひが嫌ひだ。僕の手は乾いてゐる。」とも、「日本では年中黴が生える、この国の人々の手は汗ばんでゐる。」とも。
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