J・イスラエル「精神の革命 急進派啓蒙と近代民主主義の知的起源」  佐藤優「学生を戦地に送るには 田辺元「悪魔の京大講義」を読む」

 

精神の革命――急進的啓蒙と近代民主主義の知的起源

精神の革命――急進的啓蒙と近代民主主義の知的起源

 若いころ、啓蒙思想というのはもうすでに知識を得た人間がまだ知識を持っていない人間の蒙を啓いて教え導くというなんとも嫌味な行き方のことをいうのだと思っていた(進歩的文化人などというのが啓蒙家の亜流だど思っていたのである)。それでポパーの「寛容と知的責任」という講演の記録(「よりよき世界を求めて」所収)を読んで「寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては終始誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に許し合おうではないか。これが自然法の基礎である」というヴォルテールの言葉が引用されているのをみて、びっくりして唖然として、啓蒙という言葉についてもう一度考えなおすとになった。ヴォルテールというひとがこの言葉を実践したひとであったかというのとどうもそうではないらしいし(「ヴォルテールとフリードリッヒ大王」(フォースター「フォースター評論集」所収)、それを引用しているポパーが寛容のひとであったかというとこれまたそうではないようだけれども(タレブ「まぐれ」)、問題は彼らがどいういう人であったかではなく、どういうことをいったかである。
 それで、啓蒙ということについて時々考えていて、わたくしが敬愛する吉田健一もまた啓蒙の流派に属するのではないかということを考えるようになった。しかし、一方ではフランス革命というのも間違いなく啓蒙思想の産物であるし、マルクス主義フランス革命の申し子である。とすると世界に大惨禍をもたらしたものもまた啓蒙思想であることになる。どうも、啓蒙思想というのは一種類ではないのはないかというようなことを漠然と考えていたのだが、本書はまさにそのようなことを述べている本らしく、啓蒙派を「急進派啓蒙」と「穏健派啓蒙」にわける見方を示しているらしい。まだほとんど読んでいないが、自分の知識の整理をこの際してみたいと思う。
 そして「お互いに許し合うという方向の啓蒙思想」に類似した思想が西欧以外から生まれたのだろうかということを考える。
よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

フォースター評論集 (岩波文庫)

フォースター評論集 (岩波文庫)

 
   この本で佐藤氏がとりあげている田辺元というひとがわたくしが昔考えていた啓蒙家というものの典型である。言葉によって他人を自分の考える方向に導くことをなによりの喜びとするというひとであって、まあアジテーターである。ヴォルテールもまたきわめて優秀なアジテーターであった。わたくしの考える進歩的文化人というのもみなアジテートするのが大好きなようであった。
 ところで佐藤優というかたは、何だか異様な体形の方で(首がないというか)、わたくしの印象ではクマさんである。とにかく動物系である。どうもわたくしは動物系が苦手で敬して遠ざけたい。お付き合いするのなら植物系がいい。「人間は動物である」というのがとても大事というのがわたくしのかねがねの主張であるが、これは人間は人間以外の動物とは根源的に異なる、精神だか魂だか知性だかとかを持つ他の動物とは根源的に異なる聖なる生き物であるみたいな考えが困るということであって、人間は動物であるのは当然で特別な生き物ではないよというだけのことである。佐藤氏はどうもヴァイタリティーあふれるというか、何かぎらぎらした感じがする。その氏がクリスチャンであるというのがまたわからない。
 ところで本書に箱根とか軽井沢が現在のように別荘地になったのは、戦時中に各国の大使館がそこに疎開していて、そのためそこには国際法上空襲がないから、富裕な人々が自分の子女をこぞってそこの別荘に避難させたことによるのだそうである。それを知っただけでも本書を買ったもとはとれたとおもう。そして田辺元というひとは、戦時中、軽井沢に閉じこもってほとんどそこを出なかったのだそうである。