「優雅な怠惰」と「晴朗な精神」

 本棚を整理していたら奥から小野寺健氏の「E.M.フォースターの姿勢」(みすず書房 2001年)が出て来た。その「あとがき」に、「優雅な怠惰」と「晴朗な精神」という言葉が出てくる。これこそが「真の教養人」であるフォースターをつかむキーワードとしてふさわしいのではないか、そう小野寺氏は言っている。
 氏の編訳による「フォースター評論集」(岩波文庫 1996)に収められた「私の信条」でフォースターは「寛容、善意、同情、ほんとうはこういうものこそ大事なのであって、人類が滅亡を免れるとすれば、遠からずこういうものが前面に出てくるだろう」といっている。また「私は、「神よ、私は信じません――どうか許したまえ」をモットーとする」とも。「私は、この主義というのが嫌いで、国家を裏切るか友を裏切るかと迫られたときには、国家を裏切る勇気をもちたいと思う」とも。
 「偉大な創造的行為やまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中にうまれるのである。」「この休止期間が大事なのだ。私はこういう休止期間がなるべく頻繁に訪れてしかも長くつづくのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ。」「力はたしかに存在するのであって、大事なのは、それが箱から出てこないようにすることではないだろうか。」
 しかし、今、世界のどこでも、力が箱から出てきていて、「優雅な怠惰」と「晴朗な精神」などというのは寝言にしか聞こえない時代になってきている。そもそも「教養人」などという言葉も使っても笑われるのがおちだろう。
 わたくしは「教養人」というのはいつの時代でも「傍観者」でしかないと思っている。教養人を自認するわけでは決してないが、せめて「優雅な怠惰」をモットーに生きて、「晴朗な精神」だけは失わないようにしたいと思っている。
 このブログの「日々平安録」というタイトルは、黒澤明監督の「椿三十郎」の原作となった山本周五郎の『日日平安』から頂いたもので、世の動きがどんなになってもそれに引きずられず、傍観者として毎日平安にのんびりと過ごしていきたいという気持ちをどこかに含んでいると思う。それはもう半世紀も前の大学紛争(闘争)の時にもう始まっていたのかもしれない。三つ子の魂百まで?
 私も、主義というのが嫌いである。しかし今の時代、フォースターなどは完全に反時代的なのだろうか?
 「戦後の世界にもっとも必要なのは、消極的な美徳だからです。いばらず、怒らず、苛立たず、怨みを抱かないこと。積極的・戦闘的な理想はもはや信じられません。そういう理想を実現しようとすれば、まず何千という人を障害者にしたり投獄したりする結果になります。「この民族は一掃してやる」とか「この都市は掃討してやる」といった言葉には慄然とします。・・文明にはなぜか退行する時期があるもので、今はちょうどその時期にさしかかろうとしており、この事実を認識して対処しなければならないという気がするのです。・・」(「寛容の精神」)
 「ヴォルテールは、欠点だらけではあっても自由人でした。フリードリッヒには魅力も知性もありました。しかし――専制君主だったのです。」(「ヴォルテールとフリードリッヒ大王」)
 まだいくらでも引用したいところはあるが・・。