柴田翔「されどわれらが日々―」

 書棚の奥から昔の本がいろいろとでてくる中で、柴田翔「されどわれらが日々―」が出て来た(藝春秋新社 初版1964年 定価340円)。わたくしが持っているのは1965年刊の11版。高校2年位に読んでいるようである。64年上期の芥川賞受賞作。
 当時国語担当の佐藤勝先生(萩原朔太郎の詩の読みなどいろいろ目をひらかされることが多かった恩師)の、この「されどわれらが日々―」について「この小説、蔵書印が狂言回しに使われています。作者はきっと大衆雑誌の小説書きをバイトにしていたと思います。そういう小説では落とした簪などがよく話の進行に使われますので」という指摘だけを覚えている。昔習った?ことで覚えているのはそういう些事ばかりである。
 さてこの「されどわれらが日々―」は六全協(正式には日本共産党 第6回全国協議、1955に年7月27~29日に行われた日本共産党の大会)を背景にしている。それまでの武装闘争方針(中国毛沢東革命をモデルにした「農村から都市を包囲していく」方針)の放棄を決議した大会である。今の日本共産党の公式の党史にこのころのことがどう書かれているのかは知らないが、わたくしの子供のころには、まだ本気で日本での暴力革命を信じ山村に展開しそこでの思想教育や軍事訓練に汗を流していた若者が多くいたわけである。
 この小説はその共産党中央の方針転換によって翻弄され、今までの自分たちの活動が全否定されて戸惑う若者たちの姿を描いていたように思うが、細部は全く覚えていない。いま見てみたら、「駒場の学生党員が地下に潜る」なんて記述があった。60年ほど前の本であるが、今ではまったくリアリティが感じられない。それととんでもない男尊女卑的な描写もたくさんある。半世紀で時代は変わる。
 作者の柴田氏はその後東大のドイツ文学の教授になっているはずであるが、今の若いひとでドイツ文学を専攻したいというようなひとがまだいるのだろうか? ゲーテ、トマス・マン、ヘッセ・・・などという名前が神通力を持っていた時代はもはや終わっている。