F・フュレ「幻想の過去 20世紀の全体主義」(3)第一次世界大戦

 
 第一次世界大戦に出征した兵士たちは、昨日までの戦争と大差のない、短い戦争にでかけるつもりであった。過去に類例のない、恐ろしい、いつまでも続く戦争にむかうとは誰も思っていなかった。それ以前の戦争はまだ敬意の対象であり。勇気と祖国愛の発露の場所でもあった。貴族主義の痕跡をとどめる精神文化の中での戦争だったのである。人命尊重や物質的幸福と富の追及の時代に生きている今日の若者には、それはほとんど理解不能の世界である。
 レーニン帝国主義論で第二次世界大戦を説明することは不可能であるが、第一次世界大戦はそれで説明できるとしたものは多かった。
 この戦争は、ドイツ精神対フランス型文明の対立であった。ドイツが自己の特殊性を称揚する文学的・哲学的熱狂の頂点に達したのは、実は20世紀の初頭であった。ドイツ精神は、深遠で義務の観念にもとづき、共同体が有機的に結合した文化なのであるとされた。一方、個人の自立を説く(フランスに代表される)民主主義世界は、軽薄で放縦であり、人々が分裂した文明なのであった。ゲルマン性とは何よりも、文化であり、魂であり、自由であり、芸術であるのだった
 ナチズムがもたらした惨禍のため、国民国家国民主義がかつては人々に近代を約束するものであったということが忘れられがちである。民主主義とはただそれだけでは個のためのものであり、公民意識を欠落させる方向に働く。国家への崇拝はその欠落を補うものとなった。民主主義は国民主義と一体にならない限りは、不完全な制度なのであるとされた。国民主義は民主主義から生まれたものであるが、民主主義を補完し、場合によっては否定するという複雑な顔をもった。
 ユダヤ人は国家なき国民であった。であるとするとユダヤ人は公共にかかわることができないのであり、国民主義的情熱の正反対にあるとされた。ユダヤ人こそは個のことのみを考える民主主義者であり、純粋なブルジョアなのであった。
 第一次世界大戦から、戦争は軍人のものから民間人のものになった。それがために戦争は長引くことになった。軍人なら利害で戦争をやめられるが、熱狂した国民をとどめることはきわめて難しいからである。
 ロシア革命帝政ロシアの崩壊・自壊により生じたのであるが、それ以上に戦争に対する兵士と国民の反乱によるものであった。そのためロシア革命は同時に反戦の運動であることにもなった。そこでボリシェビキは、ヨーロッパ各国の国民の反戦の叫びが自分たちの後に続くであろうことを期待し、それが革命の大きな原動力になることを期待した。
 第一次世界大戦によって、人間の理性によって歴史を制御できるとする信念が失われていった。
 
 われわれ日本人にとっては明治維新第二次世界大戦が歴史の大きな切れ目である。ヨーロッパにとっては、それがフランス革命第一次世界大戦なのかもしれない。
 レーニンがロシアに戻れたのは、帝政ロシアを混乱させようとい敵側の意図だったことはよく知られているが、第一次世界大戦の長期化によって生じた厭戦反戦の気分がなければボリシェビキ政権はごく短命に終わったのかもしれない。
 ユダヤ人が純粋なブルジョアであったのだとすると、現在の反=グローバニズムというのもかつての反ユダヤ感情とどこかで通底しているのかもしれない。
 現在のブッシュ政権でも、戦争の大義名分はアメリカへの愛国心ではない。「自由を守る対テロ戦争」といったイデオロギー的なものである。
 戦争は第一次世界大戦までと第二次世界大戦後でまったく性格を変えてしまった。そういう時代の変化のなかで「美しい国日本」などといっていた、もうほとんどの人が忘れてしまったように見える安倍元首相のアナクロニズムというのは何なのだったのだろうか?
 第一次世界大戦以前の戦争はまだ文明的だった。もちろん「戦争と平和」に描かれているロシアとフランスの戦争の場面が悲惨であることは間違いないとしても、それは第一次世界大戦での塹壕戦と毒ガスと戦車に較べればまだ文明なのである。
 国民国家が争った第一次世界大戦国民国家という近代の思想の産物が生んだのかもしれないが、それはどこかでペロポネソス戦争にもつながるものであったのかもしれない。一方、イデオロギーの戦いであった第二次世界大戦は一種の宗教戦争の再現でもあり、ウエストファリア条約以前への逆戻りなのかもしれない。そして現在でもまだ宗教戦争は続いている。西欧はかつての宗教戦争に心底懲りたのではなかったのだろうか? 人間は少しも賢くなっていない。
 文明と対立するとされるドイツ文化というのは、一体何なのだろう? バッハ、モツアルト、ベートーベン、シューベルトシューマンブラームスワーグナーといったクラシック音楽のビッグネームには、なぜドイツ人に多いのだろう。あるいはカント、ヘーゲルとった西洋哲学上のビッグ・ネームもまた。そしてわれわれの認識ではマルクスもまたドイツ人(プロシャ生まれのユダヤ人であるが・・・)である。マルクス主義もまたドイツ思想の一端である。ゲルマン性とは「文化であり、魂であり、自由であり、芸術であった」と威張られて仕方がない気もしないでもない。
 ドイツというのは滅茶苦茶な分け方をすれば、都会と田舎にわけられるような気がする。都会はオーストリアハンガリーあたりなのだろうか? 山口昌男の「本の神話学」あるいはそこに紹介されているゲイの「ワイマール文化」、あるいはツヴァイクの「昨日の世界」で描かれた世界、そこで紹介されているワイマール文化あるいはワールブルグ研究所。さらには栗本慎一郎氏が「ブダペスト物語」で描くポランンイー兄弟など、である。そしてそのほとんどがドイツにいるユダヤ人であるという構図がある。田舎とは、わたくしの偏見によれば、代表者がハイデガーであって、ドイツの困った問題というのは田舎のほうからでてくるのではないかという気がする。マルクスもまたわたくしの分類では田舎の人である。ヒットラーもまた?
 山口昌男氏は「本の神話学」の中の「ユダヤ人の知的情熱」で、ユダヤ人においては蓄財へのエネルギーが知的エネルギーに転化するというツヴァイクの説を紹介している。ロスチャイルド卿が鳥類学者になる。ワールブルグが芸術史家になる。カッシラーが哲学者になる、といった事例である。唐様でかく三代目。
 とにかく何かしら抽象的なものが、彼らは得意なようなのである。しかし抽象的なものは普遍的なもの通じるはずである。それでありながらゲルマン民族という個別のものの文化としてそれが生じるというのが不思議である。哲学はギリシャ語とドイツ語でしかできないなどとハイデガーはいいだす。普遍的なことが個別の語でしか語られえないというのはおかしな話であるが、普遍を理解できるのはドイツ人だけということになるらしい。
 「ヨオロツパ文明は神とプラトンから逃げられない運命にあり、それは神の思想も、プラトンの哲学も普遍を意味するものだからであって、ヨオロツパ文明のそのものの特徴はこの普遍性ということにある」というは吉田健一の論であるが(「英国の現代文学に認められる信仰の問題」「ロンドンの味」講談社文芸文庫 所収)、それならばゲルマン民族のみに本当のヨーロッパが理解できるとハイデガーはいいたいのであろう。
 なんだか第一次世界大戦とは関係ない話になってきたけれども、それは国民国家間のはじめての大規模な戦争になることで、戦争というものをそれまでのものと一変させてしまった。そしてドイツは国民国家ということとは次元を異にする民族への自負をもっていたために、それが次の大戦という不幸につながっていくことになる。
 本書で第一次世界大戦が考察されるのは、ファシズムコミュニズムという二つの全体主義を生んだ母体としてである。第一次世界大戦はほとんど何の必然性もない戦争、理由のない戦争であったが、それがなければ世界は今とはまったく変わってしまっていただろうということである。歴史にifをいっても仕方がないのであるが、本当にセルビア人の銃弾が世界を変えたのかもしれない。そこで暗殺されたのはオーストリア=ハンガリー帝国の大公であり、それを引き起こした原動力は民族主義であった。まだハプスブルグ王朝国家というものが片方にあり、もう一方には民族国家の問題があった。前者は過去に属するが、民族主義の問題は現在へと続いている。さすがにハプスブルグ王朝復興運動などというものは最早存在しないであろうが(あるのだろうか?)、民族主義の問題は現在でもまだ熱い問題である。
 しかし、本書においては第一世界大戦はなによりもソヴィエト国家を成立させるものとなったという点からあつかわれるので、当然次の議論は十月革命ということになる。