山室信一「複合戦争と総力戦の断層」(4)

 
 シベリア出兵は、教科書的には共産主義国家の誕生に対する干渉戦争として記述されることが多い。しかし、当時第一に問題となったのは、ロシア革命によってボリシェヴィキ政権が対独戦線から離脱してしまったということであった。これによってドイツは西部戦線にだけ注力できることになった。フランスとイギリスは何とかして東部戦線を再構築してドイツの軍事力を二方面に分断することを必要とした。それでイギリスとフランスは日本とアメリカに共同出兵を要請した。
 一方、日本から見ると、ドイツがシベリア鉄道を通って北満州や朝鮮さらには日本本土へと侵攻してくることを懸念する必要がでてきた(日本はドイツと戦っていたのだから)。
 日本にとってはシベリア出兵の目的は、東部シベリアとそれに近接する中国領土、満州横断の東清鉄道を自己の勢力下におき、あわせて樺太の石油を手に入れることが目的であることは明白であった。出兵により傀儡政権を立てて支配権を確立しようとしたのである。
 しかし、それは伏せた目的であり、表向きは東漸するドイツ・オーストリア捕虜軍の迫害からチェコスロヴァキア軍を救援するためということになっていた。この名目と実際の齟齬が出兵した兵士の戦意の喪失につながった。
 ロシア革命により、ドイツは講和によってロシアと戦う必要がなくなり、ロシアからの捕虜の帰還により戦士の補充ができ、海上封鎖により欠乏していた食料もウクライナから供給されることになり充足することとなった。
 日露戦争以降、対華二十一箇条要求で内外から批判されて加藤高明外相が退任すると、次の石井外相は対米関係修復を計った。さらにその後の本野外相は日露協約に基軸を移そうとした。満州における権益をロシアと分かち合う路線である。アメリカの満州進出に日露で共同して対抗しようとしたのである。
 ロシアにとってはドイツとの開戦により従来ドイツから供給されていた物資、特に軍事物資が欠乏し、それを日本にもとめようとした。第一次世界大戦により日本は日英同盟から日露同盟に軸足を移そうとしたのである。したがってロシア革命がおきなかったとすれば、第一次世界大戦後、日本は日露軍事同盟をむすんで、米英と対立する構図になっていた可能性が高い。それがロシア革命によって根本的な変更をせまられることとなり、対米英関係の再構築を迫られることともなった。
 しかし、帝政ロシアが消失したということは、満州などにおける権益を日本が独占出来る可能性がでてきたことも意味した。
 それと同時に陸軍にとっては最大の仮想敵を失うことであり、自己の存在意義を問われる事態でもあった。もしもロシアにかわって最大の仮想的がアメリカということになれば、主力は陸軍ではなく海軍となることは必定であった。しかし、海軍にとっても第一世界大戦で戦艦の燃料が石炭から石油に変わったことによって樺太の確保は切実な課題となった。
 シベリア出兵で日本以外が撤兵したあとも日本が駐留にこだわり続けたのは、自己の存在意義の提示と軍事資源の確保という隠された理由があった。
 イギリスなどが日本とアメリカの共同出兵にこだわったのは、日本が単独で行動すると、日本が東部シベリアを植民地化しかねないという懸念をもったためであった。
 日本はイギリスより先に軍艦をウラジオストックに派遣することを目指し、4月5日には在留邦人保護を名目に上陸している。実際の出兵宣言は8月2日であるが、それ以後もロシアと戦闘状態にはいるという宣言はなされていない。この出兵はそもそもロシアの誰を相手とするものかがはっきりしないものであった。
 しかし単独出兵への慎重論も根強くあった。満州の利権への関心は共通していても単独出兵はアメリカなどの猜疑をまねきかねないとしたのである。そもそも日本は日露戦争の軍費はアメリカに依存した。原敬などの政治家はアメリカとの共同出兵という形式にこだわった。それに対して軍部(田中義一参謀次長など)は、シベリアに傀儡政権をつくることを重視した。それができなければ総力戦は闘えないとしたのである。
 このころ出兵が必要と考えられたもう一つの背景として、日露戦争後10年を経過しての国民の対外的緊張感の低下ということがあった。「一たび出兵せば、わが国民は一致軍国主義に変ずべし」とする主張である。ここでいう人心の弛緩とは、頻発する労働争議や小作争議などの社会的動揺のことでもあった。米騒動は日本各地に広がっていた。
 7月にアメリカが共同出兵を提案してきたことは出兵に渡りに舟であったが、日本は派兵地域や兵力を限定するつもりはなかった。これが日米対立を激化させることになった。
 その目的の貫徹のためには傀儡政権の樹立が必須であったが、それは不成功におわった。
 日本がシベリアから撤兵したのでは25年5月であり、シベリア出兵は6年8ヶ月におよんだ。
 シベリア出兵を決めた寺内首相は、加藤高明外相による青島占領や対華二十一ヶ条要求を「全中国人の恨みを買った」だけと評した。その寺内首相によるシベリア出兵に」ついては、加藤高明は「外は列国の不信を招き、露国の怨恨を買い、内は陛下の干城を長く異域の地に曝し、莫大なる国帑(国費)を浪費して、しかして何ひとつ国家に利益をもたらすことのなかった外交上稀に見る失政の歴史である」といった。もしも両者の評が正しいのであれば、日本にとっての第一世界大戦とは外交上稀に見る失政の連続の歴史に他ならなかったとこになる、そう山室氏はいっている。
 
 われわれはロシア革命後、ソヴィエト政権が20世紀の後半まで続いたことを知っている。しかし、ロシア革命当時、そのようなことを予想したものは多くなかっただろうと思う。そもそもドイツがレーニンを封印列車でロシアに戻したのも帝政ロシア政権の混乱をねらってであり、そのねらいは成功したわけである。とにかくその当時に自国が有利になることがすべてであって、先々のことなど考えてもいないわけである。本書のさまざまなところでボリシェヴィキ政権がドイツの傀儡だとみなされていたことが書かれている。政権としてはドイツに恩誼があるわけで、そのような見方があったことも当然なのかもしれない。そしてもしもボリシェヴィキ政権が淡雪にように消え、帝政ロシアが復活していれば、日本は日露同盟の路線を選んで、米英と対決するようになっていたかもしれないというのである。われわれの歴史の見方はおきてしまったことによって非常に曇らされていることを痛感する。
 日本の歴史の教科書においてもシベリア出兵についての記載はきわめて曖昧である。山室氏は「シベリア戦争(シベリア出兵を氏はそう呼ぶ)は、その本質は政略的出兵であったため、出兵目的も国民に理解しにくいままに変更された「無名の師」にならざるをえなかった。それゆえ勝敗さえ明らかにされることなく、国民の目から隠されるようにして終わり、歴史から全貌が抹殺されていった」という。失敗したことは隠したい、それでいたって曖昧な記載に終始するのであろうか? 
 本書は、総力戦と複合戦争という二つの観点を採用している。片山氏の「未完のファシズム」は主として総力戦の観点からの本であった。本書は外交もまじえた複合戦争という観点を重視している。そして第一世界大戦前後、日本は外交戦において完全な敗北をしているということである。外交戦の舞台はつねに満州であり、シベリアである。そうなるのは将来の総力戦をみすえた資源の確保をまず第一に考えるからである。片山氏の本は日本は第一世界大戦において将来の戦争は総力戦になることを学んだということを述べている。しかし、それを外交的手段で確保することには失敗していくわけである。とするとあとは軍事的手段に訴えるしかなくなってしまう。印象的なのが日本の考える資源の確保のための方策がいつも傀儡政権の樹立ということであることである。それはあらゆる方面からの恨みを買うはずの行動であるということについて、どのように考えていたのだろうかということが、どうしてもわからないところである。そのようなことへの感受性が乏しいとすると外交がいたって不得手になるのも当然なのかもしれない。
 最後に「おわりに」という短い章があるので、そこは別にまたみることとする。
 

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

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