山室信一「複合戦争と総力戦の断層」(3)

 
  第一次世界大戦は日本にとっては欧州諸国が自分の足元で手一杯になった隙に、中国権益に独力で介入できる好機と考えられたが、これは中国にとってもヨーロッパ列強の影響力が薄まることにより主権回復の機会の到来と考えられた。
 第一次世界大戦開始すぐに、中国は局外中立を宣言した。これが問題を大きくした。日本の青島攻撃が中国の中立を犯すものではないかとという疑念が生じたためである。ドイツが中立国ベルギーを侵犯したというのがイギリス参戦の名目であった。日本の参戦がイギリスとの同盟によるとすれば、これは大きな問題となる。
 アメリカもまた中立を宣言していた。とすると、日本が中国の中立を犯したとすれば、米国の対日参戦を招く可能性もあった。この問題にかんして時の加藤高明外相は「そのような心配は無用」としたが、国際法上の問題が生じることは明白であった。
 その後の対華二十一ヶ条要求などの強硬路線は中国の反日感情を非常に悪化させた。第一次世界大戦は日本にとって中国問題解決の好機と考えられたが、実際には日中関係の大きな躓きの石となった。
 中国の中立宣言は、ドイツやイギリスなどの交戦国が租借地を中国に持っていたため、自国に戦火をおよぶことを避けるためであったが、なにより日本が参戦してきて、戦争を口実に中国内に軍隊を進駐させることを恐れたためであった。その牽制のために中国が期待したのは米国の圧力であった。ということは、日本にとって対中問題は同時に対米問題ともなるということであった。イギリスが日英同盟があるにもかかわらず、日本への参戦を依頼したり打消したりと揺れ動いたのは、イギリスの米国への配慮という側面もあった。
 日本は中国に中立除外地域を宣言させることができると考えていた。それを宣言しないと日本が中国に上陸したことが自動的に中国の中立義務違反となってしまうからである。しかし、どの範囲を除外地域に指定するかが問題となった。日本は中国の指定よりも広大な除外地域を一方的に通告した。また日本は多くの装備、人員、燃料、食糧などを現地で調達する方針をとっていた。これは日本陸軍伝統の兵站軽視であるとともに、中立国が一方に加担することはできないとしている国際法に中国が違反してしまうということをも意味していた。
 さらに日本軍は上陸すると山東鉄道の接収を開始した。これは国際法違反であるとする意見をみて参謀本部は現地軍に接収中止を指示したが、現地の軍はそれを無視した。のちに大きな問題となる現地軍の独断専行はこのときにすでにはじまっている。しかし、このようなことが可能であったのは、山東鉄道接収は外務省も陸軍も当初から想定していた行動であり、手段や時期は別にすれば、それをおこなうことに暗黙の合意があったからである。しかし、この行動は中国の日本への不信をさらに強めた。
 日本は中国に将来膠州湾を還付することを宣言したが、これは日本が対独参戦することでドイツが自主的にそれを中国に返還した場合にということであり、日本が軍事的にそれを占領した場合にはその限りではないとした。そこに中国の期待とのずれが生じた。
 占領して占拠を続けるなどという強引な行動は、米国と戦うくらいの決意がなければできない途方もない行動であると原敬などは指摘していた。山県有朋などもそう考えていた。これらの声を無視して加藤外相らが強硬に動いたのは、参戦の目的自体が中国における日本の権益確保であると考えていたからである。これが対華二十一ヶ条要求となっていく。そのようにことを急いだ理由は、この大戦が早期に決着することと考えられていたこと、またドイツが勝利することもありえる事態として想定されていたことなどによる。戦争が終わる前に既成事実をつくっておこうとしたのである。大隈首相や加藤外相にとっては山東半島占領は、返還期限がせまっていた遼東半島南満州鉄道経営権、安泰鉄道経営権問題解決のための取引材料なのであった。かれらはそれを利用してこれらの権益の永久化(99年間の期間延長)をねらっていた。かれらにとっては対華二十一ヶ条要求は日露戦争の最終処理なのであった。
 対華二十一ヶ条要求の第5号は中国における警察権の行使など、中国の主権を大幅に侵害する内容のものであったが、それは最終的には撤回するつもりの取引材料であるとされていた。この要求について英国や米国がどう判断しているかについて、日本は双方からの了解が暗黙に得られているとして、強引に動いたがそれがかえって米国などの不信感につながっていった。
 最終的にはウイルソン米大統領が日本が国際連盟加入を拒否することをおそれたため米国は日本支持にまわることになったが、これらの過程で中国のナショナリズムは高揚していった。しかし日本はそういう中国の国民感情にはいたって鈍感なままであった。
 対華二十一ヶ条要求は要求という名前からは外交交渉のようにみえても、実際には最後通牒がだされたことからもわかるように、受諾がなければ交戦という前提でおこなわれたものである。
 戦争の危険をも賭した外交戦の結果えられたものは、軍事力を行使してでも無理難題を押しつける日本外交への不信感であった。加藤外相らは秘密外交こそ外交の秘術であるという旧来の英国流の外交術を信奉していたが、これがすでに時代の要請にあわなくなってきていたのである。
 中国が威嚇に屈して対華二十一ヶ条要求を受けいれたことは、結果として中国とドイツの恨みを買い、米国に不快感をおこさせることになったが、それについて、日本人はほとんど意識さえしていないことを石橋湛山は慨嘆した。湛山は「帝国百年の禍根をのこすものとして、憂慮おく能わざる」事態であるとした。
 アメリカの門戸開放政策は、平等に中国に参入する権利をいっているようにみえるが、実際には中国の権益が先行する植民地国家によりすでにほぼ分割が進み、新たな租借地の獲得は困難であるという事情を背景にしていた。しかし、旧来の植民地主義に反対するという大義名分をもち、また「砲艦外交」から「ドル外交」への転換という軍事力から経済力への歴史の転換を示すものでもあった。
 実際には米国の門戸開放政策の焦点は南満州にあった。門戸開放政策は実際には資本力が背景になければできない政策である。資本力に劣る日本とロシアにとっては不利な政策であったので、日露協約によって満州は地理的特性に基づく特殊権益であることをお互いに認め合うことで、アメリカと対抗しようとした。
 日露戦争に日本が勝利したことによって、アメリカにとっての太平洋における脅威はロシアから日本へと移った。太平洋において、日本領台湾とアメリカ領フィリピンがルソン海峡をへだてて対峙することとなった。
 ウイルソン大統領はフィリピン防衛の準備ができるまでは日本を刺激しないほうがいいと考えていた。一方、日本においては日英同盟にロシア・フランスをくわえた四国同盟をを形成すべきという見解もあった。その方向したアメリカの中国進出に対抗する手段はないと考えられたのである。
 第一次世界大戦でのヨーロッパでの商船護衛参加に当初海軍が反対であったのは、その派遣の隙にアメリカ太平洋艦隊が行動してくることを警戒したためでもあった。
 日本でも当然、対米協調の重要性を説くものもあった。実際、日露戦争の戦費は主としてアメリカから調達したものであったし、第一次世界大戦によりドイツとの交易を絶たれた日本では、アメリカの軍事資源や資本に大きく依存せざるをえなくなっていた。日本にはアメリカの意向を無視することなどはできないことであった。
 問題となったのは中国の参戦であった。中国が参戦すれば戦勝国の一員として講和会議でいろいろな主張ができることになる。したがって日本はそれに反対したが、アメリカは中国参戦の後押しをしていた。そして1917年に中国も参戦することになった。しかし、パリの講和会議では期待した成果はえられず、それが五・四運動などへと結びついていくことになる。
 日本の特殊権益論とアメリカの門戸開放・機会均等論はそもそも両立しえないものであった。日本は中国市場に近くに位置し、安価で能率のより労働力を持っている国であるので、門戸開放政策は日本を一番利するものであるという議論もあった。それによる対中政策の根本的な変更を提案するものもあったが、秘密協約でロシアと特殊権益を認め合っていることへの配慮などもあって反対にあい、実現しなかった。そもそも特殊権益についてはアメリカは経済的なものとして限局的にとらえていたが、日本は政治的な支配権までもふくむととらえていた。
 このような中国についてのさまざまな議論が「中国を抜きにして」いろいろなところで協議され決定されているということ自体、中国からみれば許容できない事態であった。
 
 本書の論旨によれば、日本は第一次世界大戦当時、決して軍だけが独走したわけではなく、外交にも十分に意を用いた(国力の弱さの自覚からも用いざるをえず、米国との対立は何よりも忌避すべきものとされた)。それにもかかわらず、外交の姿勢が時代遅れのものとなっており、旧来のイギリス流の力を背景とした秘密外交を金科玉条としたことがあだとなったということである。時代の変化の要因は、一つは各国でのナショナリズムの勃興であり、もう一つがアメリカの大国化である。ある意味では文明的であったイギリスの外交とはことなり、アメリカは歴史の浅い国として野暮とも思える原理原則主義を掲げる側面があった。アメリカの門戸開放政策は、中国の権益への参加という自国の利益から発したものではあったが、反植民地主義という大義名分をもち、軍事力から経済力へという転換という動向をも示すものでもあった。その変化を日本は理解できなったということである。もしも経済が重点であれば、軍事的に制圧するのではなく貿易の相手としての関係を築ければいいことになる。
 しかし日本はその道を選ばなかった。そこに感じるのは、日本が中国を自分の意のままになるどうにもでできる国として理解していたのではないかということである。
 これはナショナリズムの軽視ということにもつながると思うけれども、そもそも中国という国への抜きがたい侮蔑感というものがその根底に存在するように思う。これが何によるのだろうかというのが、どうしてもわからないところである。自分の国は日露戦争に勝利したが、中国は欧州列国にいいように扱われているということが原因なのだろうか? そもそも第二次世界大戦における南方進出にしても、無人の荒野に落ちている資源を勝手に拾いにいくわけではないのだから、そこに住んでいるひとがおり、資源の開発には時間も費用も手間もかかるということをどう考えていたのだろう。日本軍の根源的な問題としての兵站の軽視ということがよくいわれるが、それを現地で簡単に調達できるという発想の根源に、そこに人々が生活しているという事実の軽視ないしは忘却があるように思う。南京大虐殺であるとか千人斬り競争といったものが事実であるのか虚報であるのかということが今でも問題となっているが、このようなことが当時少なくともまったくないことではないと思われた背景としては、中国の人々へのいわれのない蔑視という問題が間違いなく存在してるように思う。
 日本軍の(あるいは日本全体の?)このころの発想の根源には中国に(あるいはアジアのさまざまな地域において)傀儡政権など簡単に樹立することができ、それを意のままにあやつれるという思いがあったように思う。傀儡政権をつくろうというのであるから、何がしかは国の主権については意を用いていたのであろう。しかしそれがそこに住む人々から支持されるものであるかどうかということについてはいたって鈍感(あるいはほとんど考えてもいない)であったとしか思えない。
 傀儡政権をつくるときの問題は米英などがそれについてどう考えるかということがほとんどの問題であり、現地ということが頭のなかにほとんどないように思える。そして米英の意向さえ読み違え、外来の手法の変化ということも理解できなかったと著者はいうのである。
 「中国を抜きにして」というのは、必ずしも日本だけものではなかったのではあろうが(植民地主義というのが、そもそもそういうものであろうから)、現地への鈍感ということについては、日本はどこかたががはずれているような気がする。
 中国とアメリカが参戦したことにより、日本と中国とアメリカは友軍ということになった。そこにでてきた問題がロシア革命の勃発である。ロシア革命軍とドイツ軍が手をくんでシベリアから北満州へと進出してくる懸念さえでてきた。
 シベリア出兵(山室氏によるシベリア戦争)は従来いわれていたロシア革命への干渉のためのものではなく、宣戦布告がされてこそいないが、日本にとっての第一次世界大戦そのものであったというのが山室氏の主張である。つぎはそれをみていく。