橋本治「二十世紀」

    毎日新聞社 2001年1月
 
 森山優「日本はなぜ開戦に踏み切ったか」を読んでいて、なぜだか橋本治氏の日本の政治権力論を思い出して読み返してみたが、それで21世紀初頭に書かれたこの橋本氏による20世紀論のことも思い出した。20世紀の通史をひとりで書いてしまうというのも橋本氏だからこそなのであるが、そういうことをするひとなのである。
 それで第一次世界大戦から太平洋戦争あたりを読み返してみた。ついでにいえば橋本氏は「日本にファシズムはあった」論の方なのだと思う。橋本氏の論は流布している標準的な見解に近い部分と、あっと驚く凄い議論の部分が混じっているのだが、まず最初に「総論 二十世紀とはなんだったのか」というのがある。
 
 冷戦時代は核兵器が抑止力となって大戦争がおきなかったとされている。本当だろうかと橋本氏はいう。「国家同士が戦争をする」ということ自体が19世紀的なもので、20世紀の後半ともなれば、そういう19世紀的な発想はもう通じなくなっていたのではないかというのである。
 日本は宣戦布告なしに真珠湾を攻撃したから卑怯であるとされている。しかし、宣戦布告というのは戦争にはルールがあるとされているからこそのものである。布告なしの行動は侵略で、布告すれば戦争。しかし侵略と戦争はどう違うのか? 同じようなものではないか? それが違うとするのは、戦争というものを当たり前の“外交手段”だと思っていた19世紀の発想なのである。
 戦争というのは大国同士がおこなうもの、侵略は大国が小国におこなうもの。日本は日露戦争に勝って大国の仲間入りができた(と思った)。ヨーロッパの何カ国かを核とする「国としての上流社会」のようなものがあって、それによる大国への認定テストに合格したように思ったのである。
 20世紀の始まった年にイギリスのヴィクトリア女王が死んだが、彼女の孫はイギリスの国王で、もう一人の孫はドイツの皇帝、さらにもう一人の孫はロシア皇帝の后であった。大国同士はそういう関係で結ばれていた。そういう上流階級同士の戦いが「戦争」なのである。上流階級の貴族や金持ちの息子がカッとなって白手袋を相手の頬に投げつけて「決闘だ!」といえば、そこにおきたことは殺人にも傷害にもならないというのと同じである。「決闘という美学」があった時代ではそれでもよかった。しかし、決闘そのものが「時代おくれでバカげたもの」となってしまえば、前時代には英雄であったものが、挑発に負けた愚かな犯罪者にもなってしまう。
 そういう時代の変化のなかでは、「正しいルールを持つ正々堂々とした戦争」というのも“バカげたもの”となってしまう。時代は戦争というものが存在するほうがおかしいという方向にかわっていったのである。
 かっては戦争というのは“外交手段の一つ”だったといわれている。そうであるなら国家間の交渉に“妥協”は必須となる。しかし「正しい戦争」があると思われていた時代には“妥協”は女々しい屈辱的なものとされたのであり、国同士は簡単にキレて、すぐに戦争になったのである。
 20世紀になって「大国同士の戦争=NO」となった。しかし、「大国が小国に対して影響力を発揮する」のほうはまだYESだったのである。
 帝国主義の時代とは、大国による小国支配が世界を覆った時代である。19世紀には大国が自分の力によって領土を拡大していくことを、みなが「当然の美徳」のように信じていた。国の中枢をなすひとばかりでなく、国民もまたそうだったのである。
 これは19世紀にはじまったことではなくほとんど歴史の上での「普遍的な真実」のようなものであるが、20世紀になってそれが疑われるようになったのである。だが20世紀の前半まではそれが当たり前であったから、日本は朝鮮を併合し、イギリスがインドを英国の一部にしてしまうようなことがおきた。日本は明治維新に新しい統一政府を作ることにより内乱を回避し、インドのように植民地化されることを免れたのだが、するとすぐに韓国を併合するような方向にいってしまう。
 19世紀になると「虐殺により原住民を制圧する」という露骨はさすがに避けられるようになる。武力侵略ではなく経済侵略、商売が侵略の手段になっていくのである。武力を背景にして必要もないものを売りつけるとかいったことである。産業革命によって過剰に生産され余ってしまったものを売りつけるのである。
 日本は戦後の一時期、経済侵略をしていると非難された。しかし、日本のように必要なものを売る経済戦略で成功した国はそれまでにはどこにもなかったのである。今までは必要ないものをおしつけていた。だが「貿易戦争」で勝者になるということは「侵略者」になるということでもある。
 さて、ここからが橋本氏の論のユニークは部分になる。じゃあ「侵略者」にならないためにはどうすればいいか? 作りすぎなければいい。大量生産をやめて手工業に戻ればいい。産業革命以前に戻ればいいというのである。
 
 以上が「総論」で、以下1901年から太平洋戦争くらいまでの各論をみていく。
 1901年、二十世紀の最初の年に上述のように大英帝国ヴィクトリア女王が死んだ。在位64年であった。ちなみに日本の昭和天皇の在位も同じ64年。
 第一次世界大戦はまだ“王様のいる戦争”だった。イギリス国王ジョージ五世はヴィクトリア女王の孫、ドイツ皇帝ヴィリアム二世もまたヴィクトリア女王の孫、ロシア皇帝ニコライ二世の后も同様。ニコライ二世と妻は英語で会話していた。デンマークから来た皇太后はフランス語を話していた。第一世界大戦はヴィクトリア女王の孫同士が争った“身内の大喧嘩”でもあった。
 19世紀はイギリスの時代だった。各国はイギリスにならって植民地競争と産業革命に狂奔した。しかし20世紀はイギリスとヨーロッパがゆっくりと没落していく世紀でもある。20世紀の後半はアメリカとソ連の二大国の時代となり、1980年代になると(しばらくは)「日本の時代」となった。
 20世紀で大事なことは、それがまだ19世紀を濃厚にひきづっている時代であるということである。そして日本はいたって19世紀的な国であったのである。
 1902年に日英同盟が締結された。英国が“光栄ある孤立”を捨てた。
 1904年は日露戦争である。日本の明治維新はぼやぼやしていたら日本もインドや中国の二の舞になると考えた人たちが達成したものである。そのとき日本にあった選択肢は、「西洋のようになって他国を侵略するか、他国のように西洋に侵略されるか」のどちらかであった。「侵略されたくなかったら侵略者になれ」というのはとんでもない選択肢であるが、これは「受験戦争の脱落者になりたくなかったら、いい大学に入れ」というのと同じことなのである(というような比喩を用いるのが橋本治流)。
 力がすべてを決める19世紀というのはそういう時代だった。19世紀の後半のアジアは「イナカに都市化の波が押し寄せて、ついこのあいだまでは農村地帯だったところが、都市生活者のための住宅地に変わってしまう」というような状態だった(またまた橋本治流)。進学競争とは無縁だったイナカの子供達が、新設された受験校の吸収合併されてしまったようなものである(わかりやすい!)。
 「地元の大地主の子供」が中国である。その子分になっている分家の小規模地主の子供が、朝鮮である。日本は、貧乏な自営農の子だった。そういうイナカの子供達が、都会から来た子供達と一緒の教室で勉強するようになった。――これが十九世紀後半の東アジアなのである(なんとわかりやすい!)。
 貧乏な自営農の子だった日本は「さっさと都会の子みたいになろう」と思った。都会の子と一緒に受験勉強に精を出しはじめたら、あんまり勉強しない地元の子が、なんだか貧乏ったらしいように見えて、侮る気持ちが出てきた。
 「大地主の子とはちょっとケンカしずらいけど、あの分家の子ならボーッとしてて、オレの子分になるかもしれない」などと、悪いことを考えはじめた。どうしてかというと都会から来た子供達は、みんな“自分の子分”というのを持っていたからである。「お前のこと仲間に入れてやってもいいけど、お前には“子分”ているのかよ?」と、カッコいい都会の子が言っているように思えたのである。都会の子は「ケンカが強くないやつは仲間に入れてやらない」と言っているのである。
 「ぼくも一人前の都会の子になろう!」 それが日本の朝鮮侵略である。しかし分家の子にちょっかいを出したら、分家の子を子分にしている本家の子とケンカをしなくてはいけなくなった。それが1894年の日清戦争である。そしてイナカの子に勝って「ぼくも都会の子になれた」と思ったら、今度は都会の子がケンカをを売ってきた。「お前、あんまりでかい顔すんなよ」 それが日露戦争である。「都会の子になりたかったら、都会の子とのケンカに勝たなければならない」というのが、イナカの子・日本に課された、新たなハードルだったのである。(超、わかりやすい)
 日露戦争が1905年に終わった。「世界最強の陸軍国」であると思われていたロシアが負けた。それで日本は世界史的には何をしたことになるのか? 「大国というものの定義をひっくり返した」でのある。戦争に負けるはずがないと思われていた中国とロシアが日本に負けた。
 中国もロシアも“大きな国”ではあったかもしれないが、実は近代化が遅れた“後進国”だったということを日本が証明してしまったのである。“大国”というのは、領土の大きさでも、皇帝の権力の大きさでもなく、侵略を可能にする近代のノウハウを持っているかどうかなのだと証明してしまったのである。
 皇帝という名の最高権力者が「私がすべてを決めるんだから議会とか憲法などはいらない」といっていたロシアや中国には“近代化”が訪れていなかったのである。しかしヨーロッパの人たちは「歴史のある大国」だとか「あそこの皇帝は親戚」だからといった理由で中国やロシアの強さを信じていてしまっていたのである。
 ヨーロッパ大陸の国々はみな領土的には“小国”である。ヨーロッパの国々は“大国”にコンプレックスを持っていた。だから近代化したヨーロッパは国外に領土を広げた。しかし、国の大きさは結果である。大事なのは「大国になれるだけのノウハウを持っているか」である。
 近代化を達成した日本にはそれがあった。エジプトにもトルコにもインドにも中国にもロシアにもそれがなかった。日本以外の他の非ヨーロッパ諸国はヨーロッパ化することを拒んだ。日本だけが自らヨーロッパ化する道を選んだ。それによって“被害者”になることをまぬがれた。そして“加害者”への道をたどるようになる。
 アヘン貿易は、(形式的には)イギリスの“民間人”がやっていた。だから、アヘン戦争は「自国の国民が自由に貿易する権利を剥奪されたことに対する報復の戦争」なのである。貿易というものも商売というものも恐ろしいものなのである。
 19世紀から20世紀にかけてのゴタゴタの大半は“商売”に由来する。19世紀の中ごろのイギリスでの産業革命以来、ものを多く作りすぎてそれを外国に売りつける(いらないものを売りつける)無理が多くの惨禍を生んだ。そのイギリスの無理を日本をふくむ多くの国が真似していったのである。
 1915年、ドイツに勝った日本は、中国に「対華二十一ヶ条」要求をつきつける。明治の元勲たちが認めうる唯一の中国は“日本の属国となった中国”だけだったからである。第一次世界大戦バルカン半島に対するオーストリアとロシアの領土争いからはじまったのだから、この日本の態度は当時としては不自然ではないのかもしれない。
 しかし第一次世界大戦は同時に“市場(マーケット)”をめぐるものでもあった。暴力は最終手段で、重要なのは“商取引”だった。20世紀の戦争は「自分のマーケットをまもる。お前なんかにはうまい商売はさせない」という陰湿な部分を背景にもっているのである。
 ドイツの工業力が強くなってきたので、それにあわてたイギリスとフランスがドイツ封じ込めようとしたという性格もまた第一次世界大戦にはあった。皇帝たちの頭のなかには領土しかなかったのだが、政治家の頭には“商売”があったのである。
 問題は日本である。まだ近代工業が十分に発達していなかった日本では、あまり売るものがなかった。だから“市場”よりも“領土”を求めた。日本人には“市場の拡大”よりも“領土の拡大”のほうがずっとわかりやすかった。それは第一次世界大戦で古臭くなっていたものであるのに、それに気がつかなかった。日本は古臭い国のまま第二次世界大戦に突入していった。
 第一次世界大戦は「利益を求めた国家間の戦争」であったが、第二次世界大戦は“思想戦”となった。これは18世紀末のナポレオン戦争の時代への逆もどりなのであり、ドイツのヒットラー、イタリアのムッソリーニソ連スターリンは“一世紀ほど遅れて来たナポレオン”なのである。革命後ロシアの独裁者スターリンの矛盾は“共和国の皇帝になったナポレオン”と同じなのである。
 第一次世界大戦第二次世界大戦の違いは何か? 前者にあって後者にないもの“賠償金”。前者になく後者にあるもの“平和に対する罪”。
 第一次世界大戦は“王様の戦争”でもあった。賠償金というのはその名残である。しかし違ったのは、それまでの賠償金は王家の財政に課せられたのに対して、今回はそれを負担するのが国民となったという点である。ドイツは賠償金を払えなくなる。それでアメリカがドイツに金を貸す。それでドイツはイギリスやフランスに金をしはらう。イギリスはその金で借金をアメリカに返す。このシステムは1929年のアメリカの大恐慌で破綻する。
 1922年にはワシントン会議による軍縮があり、また陸軍の創設者である山県有朋が死んでいる。これは関係がある。山県有朋は軍事予算の減額など絶対に認めないひとだったからである。日本の税金は軍事予算のため高かった。しかし軍事予算のカットはなかなかできなかった。基本的に不景気な日本で唯一晴れがましいものが「戦争に勝った」という記憶だけだったからである。
 そのプライドの維持のために軍事費は増額され続けた。しかしヨーロッパでも財政はきびしく、「軍縮」が必要になった。だから軍縮を必要としたのは日本とヨーロッパの財政事情なのだが、しかし当時、日本の政治を動かしていたのは、天皇でもなく、総理大臣でもなく、政治家でもなく、国民でもなく、元老と呼ばれる老人たち(1922年の時点で3人が存命)であったし、その中での最有力者が山県有朋であったのだから、軍縮を日本が受け入れたことと山県の死は決して無関係ではないはずと橋本氏はしている。
 山県にとって陸軍は日本帝国の栄光でもあり、自分自身の栄光でもあった。山県にとって「陸軍の絶対」は揺るがせないものであった。軍隊だけでなく、政府の官僚や警察もまた山県の影響下にあった。軍縮によって陸軍はゆれた。それで「学校で軍事教練を実施させる」ことで陸軍の影響力を保持させようとした。
 大正という時代は「憲政擁護」が叫ばれる時代であった。それは「憲法を守れ!」ではなく、政治を私物化する政治ボスである元老たちへの抗議であった。国の政治とは国民の納得がなければ機能しない。しかし元老たちにはそれがわかっていなかった。それなのに大正デモクラシーは「自分たちも参加させろ!」ではあっても、「元老というガンを排除摘出すべき」という発想を持てなかった。山県有朋政党政治などは大嫌いで陸軍を超法規的に掌握し、官僚と枢密院も支配していた。そういう人間を排除しなければならないとはしなかったのである。
 1931年から満州事変がはじまる。そこには「満蒙は日本の生命線」という言葉がある。だが、それが意味したものは何なのか。この“日本”が韓国を指すのだということがわからないと、これは理解できない。
 これは「満州やモンゴルを“敵=ロシア”に侵されたら、日本の韓国での権益が危うくなる」という日露戦争前の状況を指す言葉なのである。日露戦争は「ロシアの脅威から韓国での日本の権益を守り、日本の国土をも守る」というものであった。だから「満州やモンゴルにおけるロシアの権益を認め、それと引き換えに韓国における日本の権益をロシアに認めさせる」という考えも存在していたのである。
 しかし、実際には日本はロシアと戦争して勝ってしまった。だが、賠償金を得ることができなかった。得たものは、樺太の南半分と韓国の保護権と遼東半島の租借権とロシアが南満州に建設した鉄道(満鉄)であった。しかし、当時の日本人にはそれを使いこなす能力もなく、それが持つ意味も理解できなった。たとえば満鉄を維持運営する金がなく、それをアメリカの鉄道王に売ろうとした。現金のほうがいいと思ったのである。
 日露戦争直後は満州を運営しようという発想自体がなかった。満州に価値を見出していたのはイギリスとアメリカで、日本が満州からロシアを追い出してくれることを期待していた。日露戦争は日本がイギリスとアメリカのために戦った戦争でもあるのであり、それだからこそ、講和にアメリカ大統領ルーズベルトも協力したし、その後の日本が韓国で何をやっても文句をいわなかったのである。
 日本にはまだ帝国主義侵略の大原則である「原材料の調達と商品販売のためのマーケットとして、他国を自国の植民地化する」ことができなかった。日本の近代産業は未発達で、当時の韓国にも商品経済そのものがほとんど存在していなかった。だから獲得した韓国での鉄道建設の権利を行使さえしていなかった。満鉄は日本には猫に小判であった。
 それならなんで日本は韓国を手にいれたかったのか? 「意味がないが侵略だけはしたい」である。秀吉の朝鮮征伐と同じである。日本が日露戦争で勝って得たものは、ただ「勝ったという栄光の記憶」だけなのである。勝って得た満州は軍人たちにとっての栄光の記念碑となった。それが軍部の「満州幻想」となっていく。
 満州事変の一ヵ月後には国連は「日本軍の満州からの撤兵」を決議してしまった。軍部が作った既成事実を追認すれば日本政府は困った立場になってしまう。しかしその政府の態度を軍部は弱腰となじる、それで1932年にテロである五・一五事件がおきる。犬養毅以下が殺され、政府はおとなしくなる。
 このテロリズムを橋本氏はファシズムと呼ぶのだが、氏が問題にするのは、それが言うに言われない欲求不満によって動いていたのであり明確な方針などは持っていなかったということである。それをすればどうなるかと考えないで突っ走っていくのである。だから「問答無用」なのである。野蛮状態である。
 日露戦争まで軍部と政府は一つだった。あるいは政府が先に立って侵略戦争を引き起こそうとした。だからイギリスやアメリカとの根回しも十分にこなっている。しかし日本は「初めはいい」のであるが、それで調子に乗ると、だめになる。何も知らずに手探りでやっているうちはいいが、うまくいったあとにダメになる。
 陸軍を掌握する山県有朋が死ぬと、陸軍に派閥争いがおきる。皇道派と統制派である。皇道派は自分たちは「天皇に直結している」と位置づけた。事実、陸軍は元老山県有朋を通じて天皇に直結していたのである。一方、統制派は絶対であるべき陸軍が政治を支配することで絶対性をゆるぎなくすることを目指した。両者とも陸軍は絶対であると思っていて、それを脅かすものがいると考えた点では同じなのである。
 ところで軍備拡張にはお金がいる。国家予算を握っているのは政府である。軍事予算を削ろうとする政府を陸軍は憎悪する。皇道派と統制派の違いは憎悪をどう処理するかの違いである。皇道派天皇に訴えようとする。統制派は自力で政府を放逐しようとした。二・二六事件以後、政府の方針は「軍を刺激しないように」というものになる。日本を破綻に導いた“真犯人”は政治家たちの臆病なのである、と橋本氏はいう。
 自分の絶対を信じる日本軍にとって不快なのは、中国での反日・抗日の動きである。だから何かあれば華北全体を制圧してしまえという動きがでてくる。軍部のなかにもそれに反対するものもいたが、その理由は中国にいる軍隊はソ連と戦うためのものだから、中国で戦線を拡大してしまったら、戦力が殺がれるというものであった。
 政府はどういう態度にでるか? 「騒ぎは現場で解決するように!」である。「戦闘をこれ以上拡大させないように、揉め事は現地で解決するように!」
 そういって現地の日本軍が話し合いで解決しようとするだろうか? 彼らにとって「現地での解決」とは「戦って勝つ」である。すなわち「戦線の拡大」である。政府がなぜ戦線を拡大するなというか? 金がないからである。日本にはすでに余裕がなくなってきていた。だから1939年には国家総動員法を成立させる。中国との戦争を戦争と呼ばず事変と称していたが、「事変」の翌年にはもう余力がなくなり、「総動員」しなければならなくなっていたのである。そういう国が3年先に太平洋戦争を始めるのである。無謀である。なぜ戦争ではなく、事変といい続けたのか? 日本が中国に戦争を仕掛けたということになると、外国から非難される可能性がある。そうすると輸入に頼る軍需物質がはいってこなくなるかもしれないからである。それを恐れた。
 「な〜に、中国のことなんかそのうち簡単にかたずくさ」と思っていた。だから宣戦布告なんかする必要がないという発想になる。近衛文麿が「国民政府を対手にせず」などといいだす。国民政府ではない政府を日本の手で中国に作ってしまえばいいと思ったのである。傀儡政権を樹立してしまえというのである。日本は中国を蔑視していた。
 第二次世界大戦は1939年にはじまったとされている。それはその年に宣戦布告がなされたからである。しかし、それ以前、中国での日本の行動をふくめ、イタリアのエチオピア侵略、ドイツのライン非武装地帯への駐留、ドイツのオーストリアへの侵略など、さまざまな“不法行為”がおこなわれている。
 後に大戦に立ち上がる正義の国たちは、悪いファシズム国家のすることを長い間、黙認していたのである。第二次世界大戦は1939年から1945年までの7年とされているが、1931年の日本の満州侵略から1939年までは9年なのである。はたして1940年の日本人は「戦争中」と思っていただろうか? 1939年には大学でも軍事教練がはじまっている。日本人は米軍機が日本本土を襲うようになってはじめて自分たちは戦争しているということを実感したのだろうか?
 1940年に最後の元老、西園寺公望が死んだ。日本の問題は、元老という存在が絶滅してしまうと、それが近代日本を歪めていたということさえもきれいに忘れてしまうところにある。
 日本のファシズムには明確なポリシーがない。あるのは「一歩踏み出した以上もう後戻りは出来ない」だけである。アメリカとの戦争も中国との戦争を完遂するためである。蒋介石の国民政府がなぜ抵抗をやめないのか、彼を支援する欧米勢力がいるからと考えた。国民政府への支援物資が中国と地続きの東南アジアからどんどんと入ってくる。このルートを絶たねば国民政府の息は止められないと考えたのである。
 東南アジアはイギリスやフランスやオランダの植民地地帯である。第二次世界大戦がはじまり、イギリスやフランスがヨーロッパにかかりきりになっているうちにここを押さえてしまえば蒋介石の息はとまるし、東南アジアも手に入る、そう考えた。
 ところで東南アジアにいくためにはアメリカの軍事基地があるフィリピンを通過しなくてはいけない。これがアメリカとの戦争の必要性なのである。
 アメリカとの戦争を考える人間はナチスドイツとの接近を考える。しかしアメリカは日本とナチスとの接近を好まなかった。だから、こじれた中国問題の解決の斡旋をしてもいいよとまでいってきた。日本は中国から軍隊を撤退させ、その代わり、国民政府は満州国を承認する。国民政府と日本が中国に作った傀儡政権は合流して一つになる、というものである。アメリカの大幅な譲歩である。そうしてでも日本とナチスドイツとの接近を阻止したいと思ったのである。どうするのが得か? 考えるまでもない。しかし日本は(日本の陸軍は?)それを考える能力を持たなかったのである。
 アメリカとの戦争をはじめたものの、1942年のミッドウェイ海戦の敗北で、冷静に考えれば敗戦である。そもそも海軍ははじめから長期戦は無理だが短期戦ならといっていた。
 しかし中国侵略に乗り出した段階で、日本は「限界」という言葉を捨てていた。日本帝国陸軍にとって、戦争とは「勝って終わるもの」であり「勝つまでやめないもの」なのであった。日本人は「出来ないこと」を「出来ない」とはいわない。「出来るか?」といわれることは「出来るように無茶な努力をする気があるか?」と問われるのと同じなのである。だからアメリカとの戦争の見通しに「自信がない」と答えた海軍は「腰抜け」といわれた。
 日米開戦前にイギリスの首相チャーチルは「日本人の戦意を喪失させる最上の方法は「焼夷弾による本土の焼き払いである」とルーズベルトに伝えていた。日本の都市は紙と木でできているのだから。そうまでしないと日本人は現実を見ないということをもまたチャーチルは知っていたのかもしれない。
 
 非常にすっきりと頭にはいる筋書きである。要するに日本は常にワンテンポ遅れて世界史の流れの後を追い、その結果、その時々で採用する行き方が、いつも時流に遅れていてその当時もはやとるべきではなくなっていたやり方をいつも選んで、失敗していくというものである。
 植民地主義がすでに時代遅れになりつつあるときに、その経営を志向する。その前提となる生産力の過剰はないにもかかわらず。そうすると日本にとっての朝鮮や満州はなんであったのかということになる。日本もついに大国となれたという自己満足の象徴というのが大きかったのだろうか?
 おそらく一番の問題は日本が大国になった(なれた)と思い込んでしまったということなのでろう。司馬遼太郎史観の一番の根っこは、日本が日露戦争のころはまだ自分の国を大国とは思ってもいなかったということである。「まことに小さな国が開化期をむかえようとしている」というのが「坂の上の雲」の書き出しである。
 西欧という文明国は坂のはるか上の雲となって見えているだけである。「日本は「初めはいい」のであるが、それで調子に乗ると、だめになる。何も知らずに手探りでやっているうちはいいが、うまくいったあとにダメになる」というのは明らかに司馬史観の変奏である。わたしは書き出しを知っているだけで、「坂の上の雲」を読んでいないが、そこでは山県有朋などはどのようにあつかわれているのだろうか? ああいう権力主義者・勲章好きを司馬氏は大嫌いであろうとは思うのだが・・。
 当たり前であるが、明治にも明の部分と暗の部分がある。昭和前半の暗の部分というのをわたくしは主として山本七平氏の著作などから学んだのだが、本当にその時代に生まれなくてよかったと思った。軍隊のイジメとか員数合わせとか本当にぞっとする。ああいう組織というのが本当にイヤなのである。
 これは日本にかなり特有な現象と思っていたので、後年、ロアルド・ダールの本を読んでいて、イギリスのパブリックスクールにもまたとんでもないイジメの伝統があると知って心底驚いたものだった。
 「出来るか?」といわれることは「出来るように無茶な努力をする気があるか?」と問われるのと同じなのである、というのはわたくしには軍隊の生活そのものと思っていた。そういう根性論のようなものが大嫌いで、東京オリンピックのころ、某バレーボール・チームの監督が“根性”などという言葉を流行らせたのを見て、前途が暗くなった。日本のサラリーマン社会には、軍隊的なものが色濃く残っているのではないかと思い、そこにいってはヤバイと思い、医者になった。
 要するに体育会系の何かのようなものに生理的嫌悪感があるのだが、わたくしには昭和の前半というのは日本全体をそういうなんともいいようのない常軌を逸した精神論のようなものが覆っているように感じられる。確か、山本七平は砲兵で司馬遼太郎は戦車部隊だったと思う。軍隊の中での例外的な理系である。いやでもどこかに合理的なところがなければいけない部署である。そういうところにいるといやでも日本の軍隊のおかしなところがみえてくるはずである。それがその後の山本氏や司馬氏の著書の原点になっていったのだと思う。
 橋本治氏もまた、体育会系の乗りが嫌いで、非合理なものが嫌いなひとなのだと思う。同時に氏はインテリが嫌いなひとでもあるのだが、なぜそうなのかといえば、インテリの言っていることが氏にはさっぱりと理解できないからである。つまりちっとも合理的にはみえないのである。氏は「とめてくれるなおっかさん、背中の銀杏が泣いている、男東大どこへ行く」で有名になったひとであるが、これまた明白な東大を頂点とする学生運動批判である。ここには自己陶酔はあるが、知性などはかけらもない。
 「中国侵略に乗り出した段階で、日本は「限界」という言葉を捨てていた。日本帝国陸軍にとって、戦争とは「勝って終わるもの」であり「勝つまでやめないもの」なのであった。日本人は「出来ないこと」を「出来ない」とはいわない。「出来るか?」といわれることは「出来るように無茶な努力をする気があるか?」と問われるのと同じなのである。だからアメリカとの戦争の見通しに「自信がない」と答えた海軍は「腰抜け」といわれた。」というのを少し修正すればこうなる。「闘争に乗り出した段階で、運動家は「限界」という言葉を捨てていた。彼らにとって、闘争とは「勝って終わるもの」であり「勝つまでやめないもの」なのであった。彼らは「出来ないこと」を「出来ない」とはいわない。「出来るか?」といわれることは「出来るように無茶な努力をする気があるか?」と問われるのと同じなのである。だから権力との闘争の見通しに「自信がない」と答えた勢力は「腰抜け」といわれた。」
 どこかで養老孟司氏が、大学闘争の過程で運動家たちが竹槍で訓練をしているのをみて、戦時中と同じであると暗然としたというようなことを書いていたが、そのころの学生運動というのは彼我の力の差を精神力という無形なもので補えるとした戦前の日本の発想をそのまま引き継いでいたように、わたくしには思える。
 そういう合理的な橋本氏からみると、戦前の日本は(あるいは戦後の日本も)、そして戦前の世界までも、おかしなところばかりに見えるのである。
 橋本氏が主張するもう一つの論点は、明治から昭和の前半までの歴史は、明治の元勲や元老による寡頭支配の体制なのであって、そこに形式的に存在している議会や憲法にだまされてはいけないということである。
 橋本氏が特に重視するのが山県有朋の存在で、その存在の下で山県の軍隊のようでもあった帝国陸軍が、特権的に扱われていたことが後の陸軍の暴走につながるという見方である。
 日本には形式的なトップがいて、そのトップの威をかりて下が実質的な政治をおこなうという長い長い伝統があって、明治から昭和にかけてもまたそれで動いたという主張である。ただ、一人の権力者による独裁ではなく、元老という複数の人間による寡頭支配、集団指導体制であったためにその実態が見づらいが、憲法や議会が支配していたのでは決してないということである。
 だから憲法の条文の欠陥などということをいっても意味がないので、実態を見よ!ということになる。片山氏は元老支配によってなんとか回っていた日本が元老がいなくなることによって誰も何も決められないようになっていったということを指摘して、そのどこにファシズムがあるのだと主張する。一方、橋本氏は元老のなかでももっとも大きな力を持っていた山県有朋が支配していた陸軍が、山県に庇護されていたときに身に着けた特権意識をそのまま持ち続けたことが日本を決めたとするわけである。
 人としての元老は消えていったが、元老が決める、議会や憲法でないものが決めるという行き方は残り、いわば陸軍が元老のような立場になっていったという主張である。つまり、山県有朋がしていたことがファッショ的であるとするならば、その後の陸軍のしたこともまたファッショ的ということになる。
 それならば、実際にはアメリカとの会戦は、どのようにして決まっていったのだろうかということで、ふたたび森山優氏の「日本はなぜ開戦に踏み切ったか」に戻ることとする。
 

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