「戦争はどのように語られてきたか」(1)「加藤典洋と原武史の対談」 「戦争を足場に戦後と戦前をつなぐ 原爆、天皇、市井の人々」

 
 本書は戦争について論じた戦前・戦後の論を集めたものだが、その巻頭におかれている対談である。原氏という方はよく存じ上げないが、皇室を中心とした思想史の研究者であるらしい。この対談で今まで知らなかった多くのことを教えられたので、ここに記録しておきたい。
 
加藤:今と違って戦前の論考は戦争を当然のものと考えている。そういう思想は本来は第一次世界大戦までの、あるいは日露戦争までの弱肉強食の帝国主義的世界観なのだが、第一次世界大戦により生じた戦争観の根本的な変化についての情報は一部知識人以外には日本には入ってきていない。一般のひとたちは「戦争のどこが悪い。イケイケドンドン」という感じだった。
原:5・15事件の直前にあるひとが常磐線のなかでの純朴そうな村人どうしの会話を記録している。この1932年ごろは世界恐慌や東北での大飢饉などの直後で彼らの生活は閉塞し逼迫していた。かれらはこんな会話をしていた。「どうせならついでに早く日米戦争でもおつぱじまればいいのに。」「まけたつてアメリカならそんなひどいこともやるまい。かへつてアメリカの属国になりや楽になるかも知れんぞ。」石原莞爾が「最終戦争論」などを著しても、戦争は30年先つまり1970年ごろに想定されていた。戦争の専門家より名もなき庶民のほうが、日米戦争とその敗戦、占領までを言い当てていたのである。
加藤:原爆投下の二ヶ月後に、ジョージ・オーウェルがイギリスの新聞に、原爆をつくることがどれほど難しいかということを、なぜみな論じないかという指摘をしている。フランス革命などが可能であったのは、武器が市民にも手に入るものだったからだ。とすれば原爆は革命を不可能にした。また小さな国が原爆をもてば大国に勝てるようになるので、大国と小国の差もなくなる。原爆を持つ国同士が手をつなげば世界を支配できる。この論でオーウェルは Cold war という語を用いている。おそらく世界初出である。
原:丸山真男も戦後、信越線の中できいた乗客の会話を記録している。「こん畜生、もう頼まれたって社会党にゃ投票しねえぞ」「やつぱり社会党にや人がいねえよ」「やつぱり役者がそろつているなあ民自党だな」
 この戦争について論じている戦前・戦後の論を読む場合に注意が必要なのは、これらの多くが占領期から1960年にかけてのものだということである。読者の多くが戦争を経験している、さらに戦後、社会主義マルクス主義が非常に大きな力を持っていた時期に書かれているということである。
加藤:渡辺京二が「理性的な支配層」と「非合理な基民層」ということをいっている。戦前のイケイケドンドン論と戦後の平和論議にはどこか通じるものがあるのではないか?
 55年に自衛隊ができ、保守合同でできた自民党憲法第九条撤廃をめざして改憲を党是に掲げたころから、世論は改憲反対に大きく傾いていった。
 神戸の酒鬼薔薇事件の後、ある高校生がテレビで「なぜ人を殺してはいけないんのですか」といって、大人をおたおたさせた。おなじように高校生くらいがあるときに「なぜ戦争はいけなのか」と問うようなことがあってもよかったのかもしれない。
加藤:自分が提起した、原爆と無条件降伏との関連の指摘はほとんど無視されてきた。しかし、調べてみると、米国でも自分たちが原爆投下をしたという衝撃が戦争末期におきている。8月6日の原爆投下の直後の8月9日にトルーマンに最初に抗議にいったのは、全米カトリック教会連邦委員長とダレスだった。ダレスは長老派の牧師の息子で、当時アメリカの長老派の平信徒の代表だった。原爆投下への非難があまりに多いので、ハーバード大学総長で科学官僚であるコナントが準備した「原爆によって100万人以上のアメリカ兵が救われた」という発表をさせることにより、政府は批判を鎮静させた。これが以後の公式見解となる。
原:8月15日が強調されることによって、戦前と戦後がきれいにわけられてしまい、その連続性の面が隠蔽されてしまった。
加藤:これは大政奉還でがらっと変わったという明治維新の認識とパラレルである。
原:丸山真男はがらっと変わった派の代表である。しかし昭和天皇が46年から全国巡幸を始めると、各地で君が代が歌われ万歳が三唱された。とても国民が自由なる主体になったとは思えない。この戦前戦後の連続性への論が乏しい。
加藤:45年2月に近衛上奏文が天皇に降伏をすすめた。しかし天皇はもう一花咲かせてからと考え、敗戦までの6ヶ月間動かなかった。この逡巡の底にあったものはなになのか? 後から調べると、45年6月から8月までの2ヶ月半が決定的である。6月に降伏していれば原爆投下やソ連の参戦もなかった。それは天皇の母の貞明皇后の徹底抗戦への執念に昭和天皇がおびえたからではないかという指摘をしたのが原氏の「皇后考」である。しかし、その皇太后節子は8・15の前後でもっとも変わった人物でもある。現代の天皇制のなかでの男性性と女性性の力学というのは見直されなければいけない視点である。明治に天皇制のなかに近代的な男性原理を導入しようとしたための無理がそこで露呈されているはずである。
原:明治政府は天皇を軍事指導者にし、皇后を銃後の守りのシンボルとした。
加藤:日本は天皇制をもつことによってしか近代化できなかった。しかし天皇制自体が近代化に抵抗する要素をもっている。欧米でルーズベルトチャーチルが合理的に戦争目的の追求をおこなっていたときに、日本では天皇家内部の母子の争いがおこなわれていた。
原:「昭和天皇実録」が刊行されて一番驚いたのが、1945年7月30日と8月2日に天皇が勅使を九州の宇佐神宮香椎宮に送り、「敵国撃破」を祈らせていたという事実が明らかになったことである。それまでの天皇の行動からは到底理解できない。これは皇太后節子の意向なのではないか? この土壇場になっても、天皇は皇太后の意向に逆らえなかったのではないか? それを最終的に潰したのはやはり原爆なのではないか?
加藤:今あきらかになっていることでは、当初ポツダム宣言には天皇の地位の保全が明記されることになっていた。しかし原爆を手にいれて強気になったトルーマンたちがほぼ独断でそれをはずした。天皇の地位を保全すると明記すれば原爆投下は不要だったのではないかという議論は、今入手できる多くの資料に残されている。
原:天皇の本心がどこにあったかについては議論が分かれる。本土決戦を考えていたとの説さえある。はっきりしているのは原爆が最終的に決定的な影響をあたえたということである。
加藤:プラス、ソ連の参戦もあったかもしれない。「敵国撃破」の祈りは貞明皇后にやることはみなやったというポーズをつくるためかもしれない。教育ママの子供がお母さんのいう通りにやったよというように。
 明治天皇日清戦争のときもやる気がなく、日露戦争の時にも泣いたという記録がある(「明治天皇紀」)。明治天皇は16歳まで、お歯黒をつけて京都で女の子みたいに育てられたひとである。明治天皇大正天皇も弱虫で、昭和天皇だけが頑張ったのかもしれない。
 明治天皇崩御が1912年、この年に清朝が滅びている。5年後にニコライ二世が処刑されている。第一次大戦後、ドイツの皇帝が退位し、ハプスブルク家も崩壊している。この動向を山県有朋などは危機感をもってみていたであろう。明治期にはドイツやイギリスやロシアというモデルがあり、立憲君主制は時代に順応したものであった。しかし、それから50年も経つと時代遅れになろうとしていた。
原:明治天皇も自分が祈れば戦争に勝てるなどとは思っていなかったであろう。しかし昭和天皇は母親から祈れないものはだめといわれ続けてきた。
加藤:占領期に昭和天皇カトリックに接近したという話がある。
原:かりに改宗したとしてもそれを公表することはなかったであろうが。昭和天皇は母のいっていた「神ながらの道」はにせの宗教であって、もっと本物の宗教に近づきたいという気持ちは持っていた。正田美智子がカトリックの信者かどうかということを昭和天皇はまったく気にしなかった。
 日本で絶対平和主義が受け入れられるようになるのは55年のラッセル=アインシュタイン宣言からである。核兵器の廃絶と戦争の停止を呼びかけたもので、このままでは人類は滅びるという危機感が背景にある。
 
 日本の現在の天皇制を見る多くのひとが描くイメージは、おそらくイギリスの皇室などをモデルとしたものであろう。しかし、明治期に創設された天皇制はロシア帝国とかプロシャなどをモデルとしたもので、およそイギリス王室など念頭になかったであろう。だが、ロシア・プロシャ型の皇帝的君主モデルは第一次世界大戦で崩壊した。にもかかわらず日本ではそのモデルのままで昭和に入り、敗戦によってはじめてモデルの転換がはかられた。その転換は昭和天皇という一人の生身の人間がそのまま引き受けたわけである。
 わたくしにわからないのは、終戦にさいしてあれだけ問題になった「国体」というは何なのだろうということである。もちろん「天皇制」であるということはわかる。しかし、戦前と戦後で「天皇制」の内容があれだけ違ったのに、それでも天皇制は護持されたのだろうか? わたくしの理解では「国体」というのは、天皇を利用してその周辺にいるエリートたちが自分の思うように国を運営していく制度のことであり、そこにあるのは大衆への強烈な不信、今風な言い方をすれば民主主義への根源的な不信であったのだと思う。無知蒙昧な民に政治を委ねたらとんでもないことになる。自分たち選ばれた少数が断固として国を良導しなければならないという立場である。とすれば議会などたとえ開設されたとしても鹿鳴館と同じ対外的な飾り物であって、実質的な運営は自分たちがおこなっていけばいいということになる。元老というなんら法的な規定のない存在が実質的に政治をとりしきった所以である。チャーチルが民主主義は最悪の制度だが、それでも民主主義を超える制度はないといったのは民主主義への絶望を述べたものであって、民主主義の賛美ではない。大戦後、それでも民主主義への疑問が表にでることがほとんどなくなったがのは、ナチスドイツやファシズムの悪がほとんど絶対悪のように見えたということが大きいのであろう。最近になって中国やロシアで民主主義なしの国家発展ということが現実のものとしてみえてきているのをみて、われわれは当惑しているわけである。習近平というひとはよくわからない(というか中国という国はよくわからない)が、プーチンという人はおそらく熱烈な愛国者なのだろうと思う。
 明治の元老たちにとっても困ったことであったであろうのは、いざ戦争となればその無知蒙昧な侮蔑すべき民に銃をとってたたかってもらわなければならないことである。民には好戦的であってもらわなければならない。そしておそらくもっと根源的な矛盾は、政治は国の民の安寧のためにあるはずのものであるのに、政治の当事者が民を軽蔑しているということのうちにあるはずである。あるいは、政治の目的はもっと抽象的で実体のない「国」というようなものが長く(永遠に?)絶えずに続いていくことにあったのだろうか?
 片山杜秀氏の「未完のファシズム」で論じられていた[第一次世界大戦が各国の戦争観にあたえた影響]という問題がここで効いてくるはずである。まともな軍人はこれからの戦争は大変なことになる、国力が勝負の総力戦となって国力に劣る日本は厳しいということを自覚していた。しかし、民のほうはあいかわらず「イケイケドンドン」である。軍人のほうも冷静に考えたら勝てるわけがない戦争で頼れるものは「イケイケドンドン」パワーだけということになったのかもしれない。このパワーだけはどのようにも高くみつもることもできるからである。
 また、5・15のころの世界恐慌や東北での大飢饉などによる生活苦も戦争志向に大きな影響を持ったはずである。座して死を待つよりは! 乾坤一擲!
 オーウェルが、原爆投下の二ヶ月後に、[原爆をつくることの難しさのゆえに今後革命が困難になった]と指摘しているのが面白かった。それをいえば第一次対戦ので戦車などというのはマスケット銃などというのにくらべればとんでもなく作るのが大変なものだと思うが、オーウェルはスペイン内線にみずから銃をとって参加したひとなのでそう思うのかもしれない(カタロニア讃歌)。原爆をつくることは難しい。だから毒ガスなどが貧者の核爆弾といわれることになるらしい。
 そしてわずか30〜40年前の全共闘運動ではマスケット銃どころか、棍棒と石が武器となった。養老孟司が戦中の竹槍に戻ったと嘆いていた。浅間山荘事件は銃をとっただけ本気だったのかもしれない。
 渡辺京二のいう「理性的な支配層」と「非合理な基民層」という意識については戦後も続いているのではないかと思う。いくら選挙というのがおこなわれているとしても、実際に日本を動かしているのは官僚である。
 戦前のイケイケドンドン論と戦後の平和論議にはどこか通じるというのも、第一次世界大戦のよる世界の変化に無知であったために「イケイケドンドン」が続いたのと同じで、社会主義圏の崩壊と冷戦の終結ということがあったにもかかわらず、そういうものが全然存在しないかのような論調がそのまま続いていることからくるのであろう。
 原武史氏がいっているのはおそるべきことで、昭和天皇終戦を半年も延ばしたのはただ母親が怖かったからというのである。そのために多くの人が死に、原爆が投下され、ソ連の参戦を許したのだ、と。加藤氏も最終的に天皇が敗戦うけいれに踏み切らせたものは原爆の投下だったであろうとしている。
 加藤氏が述べている「米国でも自分たちが原爆投下をしたということが一部のひとには大きな衝撃であった」という指摘は、はじめてきいたような気がする。キリスト教の方面からの動きというのも新鮮だった。ある意味、アメリカのキリスト教は健全であったのかもしれない。それを鎮静するためにハーバード大学総長のコナントが「原爆によって100万人以上のアメリカ兵が救われた」見解を出したということなのだが、コナントの名前は、フラーの「我らの時代のための哲学史」でみた。それによればクーンはコナントの弟子で、「科学革命の構造」は「パラダイムシフト」ということよりも「ノーマル・サイエンス」という概念を提示することに力点があり、「通常科学」における「パズル解き」の面白さの強調は、科学者に批判精神を持たなくてもいいということを教えたのであり、端的にいえば原爆開発というパズル解きの面白さに科学者は専念すればいいのであり、原爆というものが可能にする大量殺戮ということは考えなくてもいいという安心感を科学者にもたらしたのだ、ということであったのだと思う。
 8月15日に戦前と戦後がきれいにわけられてしまったのは、大政奉還で世の中ががらっと変わったという明治維新の認識とパラレルであることがいわれる。おそらく司馬遼太郎の視点と山田風太郎の視点の対立である。
 加藤氏が、「日本は天皇制をもつことによってしか近代化できなかった。しかし天皇制自体が近代化に抵抗する要素をもっている。欧米がルーズベルトチャーチルが合理的に戦争目的の追求をおこなっていたときに、日本では天皇家内部の母子の争いがおこなわれていた」というのは本当に考えさせられる言葉である。近代化のために導入された反=近代的原理ということである。密教顕教といったのは丸山真男だっただろうか。
 明治天皇が戦争のときもやる気にない女々しいひとだったという指摘にもびっくりした。明治天皇は無理矢理担ぎ出されたので、もともとお公家さんだったわけだから、そういわれればそうなのかとも思う。大仏次郎の「天皇の世紀」の最初のほうにもそんな描写があったような気がする(この本は最初しか読んでいない)。そういうお公家さんが凛々しい武張った天皇へと成長していったのかのか思っていたのだが。子供のころに見た「明治天皇と日露大戦争」とかいう映画は大嘘だったわけである。
 占領期に昭和天皇カトリックに接近したという話もただびっくりである。いくら何でもそれはないだろうと思うのだが。以前、中井久夫氏の本を読んでいて、晩年の歌に「ほとけのおしえ」とあるのをみて、違和感を感じたのを思い出した(「夏たけて堀のはちすの花みつつほとけのをしへおもふ朝かな」)。同じ中井氏の論に「天皇が終生、執務室にリンカーンダーウィンの像を置いていた」とあったのも信じられない思いだった。アメリカと戦ってリンカーンであろうか? ダーウインの傍らカトリックであろうか? 分裂している。「神ながらの道」はにせの宗教であって、もっと本物の宗教に近づきたいという気持ちを昭和天皇は持っていた、ということなのかもしれないが、どうもインテリの弱さのようなものと無縁ではないひとであったように思われる。一方に生物学研究でもう一方にカトリック!。西欧への憧憬を心底のどこかに持っていたのかもしれない。それが「神ながらの道」を奉じる母を持ったらたまらないだろうと思う。
 吉田茂牧野伸顕の長女と結婚しており、吉田健一牧野伸顕の孫である。牧野は天皇の周囲にいたエリートの一人である。牧野伸顕天皇制あるいは国体を、あるいは吉田茂天皇制あるいは民主主義をどうみていたのか(臣茂と書いたひとではあるが)? あるいは吉田健一がそれをどうみていたのか? それがどうもよくわからないのである。
 

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