内田樹「昭和のエートス」

  バジリコ 2008年12月
  
 例によって雑文集である。しかしブログに掲載された時論集ではなく、さまざまな媒体からの注文により書いた原稿をおさめた、もう少し腰のすわった論を集めたものということである。
 いくつかの文をとりあげてみる。
 
 「私的昭和人論」
 「明治人」というものがあるという。明治生まれということではない。明治維新の前から生きて、江戸という旧時代を知りながら、それでもなお敢えて明治以降の近代化の時代を生きていこうとしたひとをいう、と。
 それでは「昭和人」とは? それは、昭和20年の敗戦という断絶の前の時代を生き、それを自分の内の中に抱え込んだまま、「断絶以後」の戦後を生きた人をいうのだ、と。丸山真男埴谷雄高小林秀雄加藤周一は、敗戦前から大日本帝国を批判的に観察していたひとであるから、そこには断絶はなく、したがって「昭和人」ではないという。昭和人とは吉本隆明江藤淳のような、かって軍国日本を信じ、その傷を負って戦後を生きたひとをいう、と。あるいは敗戦時には8歳であったけれどの、断絶がその後の生き方を規定した養老孟司のようなひともまた「昭和人」であるという。
 それでは、林達夫はどうなるのだろうと思った。例として、「新しき幕明き」。
 「私はあの八月十五日全面降伏の報をきいたとき、文字通り滂沱として涙をとどめ得なかった。わが身のどこにそんなにもたくさんの涙がひそんでいるのかと思われるほど、あとからあとから涙がこぼれ落ちた。恐らくそれまでの半生に私の流した涙の全量にも匹敵する量であったであろう。複雑な、しかも単純な遣り場のない無念さであった。私の心眼は日本の全過去と全未来をありありと見てとってしまったのである。「日本よ、さらば」、それが私の感慨であり、心の心棒がそのとき音もなく真二つに折れてしまった。」
 あるいは山田風太郎は? 「戦中派不戦日記」。
 「日本が負けた。/ 嘘だ!/ いや、嘘ではない。・・・台湾、朝鮮、樺太はもう日本のものではない。日清戦争日露戦争満州事変、支邦事変、これらの戦役に流されたわが幾十万の将兵の鮮血はすべて空しいものであったのか。旅順包囲戦、日本海海戦、いや維新の志士たちはなんのために生まれたのか?/ 過去はすべて空しい。眼が涸れはてて、涙も出なかった。」
 林達夫が古い日本を嫌悪していたことはいうまでもない。氏は自分を昔気質の「明治の子」「洋学派」であると規定する。江戸の学問の伝統の存在が、明治以降の軽薄な洋学に対抗する何がしかの免疫力となったように、明治以降すでにある程度の歴史的時間を経てそれなりの伝統となった「洋学」は、敗戦以降の軽薄な「アメリカ学」の流行を予見して、それに抵抗しようとするのである。
 わたくしは、「昭和人」というのであれば、吉本隆明江藤淳よりも林達夫を代表例とするべきであると思う。しかし、そうするとここでの内田氏の立論が苦しくなる。というのは、丸山真男反戦に断絶を感じなかったということのつけを、1960年代末の全共闘運動の標的になるという形で払ったというのが内田氏の見取りだからである。
 丸山真男門下の庄司薫が「赤頭巾ちゃん気をつけて」で描いた「神」は林達夫だったのではないかと思う。「進歩的文化人」の中での林達夫の位置というのはどうなるのだろうか? 林達夫もまた進歩的文化人であったのか? たぶん氏は、全共闘運動の標的となってつけをはらわされることもなかった。
 「昭和人」の特徴として「非科学的なものへの倦厭」と「科学志向」、「神懸かり的なもの」「オカルト的なもの」「総じて宗教的なもの」に対する忌避があると、内田氏はいう。それは戦争末期の最終段階で見られたほとんど古代的な霊的熱狂への耽溺への自己嫌悪に由来するという。わたしは戦前を知らない人間だが、ここで列挙された「昭和人」の特徴をほとんど備えていると思う。しかし、それは吉行淳之介のような、戦前を知っているが、つねに熱狂とは距離をおき、あらゆる没入からも距離をおくような感性に近いもので、古代的な霊的熱狂といったものには一切共感できないのであるから、「昭和人」ではないことになる。
 さて、内田氏はとんでもないことをいう。全共闘運動は皇道派テロリズムや「八紘一宇」と同じカテゴリーに、政治史的区分の上からは入るというのである。訳知り顔の「上昇型インテリゲンチャ」の「モダニスムス」を一蹴するために「歴史」に要請されて登場した「日本的封建制の優性遺伝子」の何度目かの変身だったという。わたくしは全共闘運動は(俗流?)実存主義の運動だったと思っているので(自己否定!)、日本の土着とは関係ないものと思っている(この運動は世界同時多発したのである)。この論には納得できない。納得できないけれども、こういう説をはじめて聞いて虚をつかれたのも事実である。反=進歩の運動であったという見方をすれば、内田氏の論に理があることになるのだろうか?
 内田氏はベトナム戦争文化大革命は「西洋の物質文明」に「東洋の精神文明」が勝利したと、ある意味でいえる、みたいなことをいう。わたくしはベトナム戦争は「西洋の物質文明」同士の争いだったと思っているし、文化大革命は冷徹な権力闘争だったと思っているので、このあたりどうも納得できない。総じて、氏の憲法9条論というのも納得できない。林達夫がいう「政治くらい、人の善意を翻弄し、実践的勇気を悪用するものはない」ということへの配慮がいささか不足しているように思える。
 おそらくこの「昭和人」論に伏流するものは、内田氏は戦後生まれであるから定義からして、当然「昭和人」ではないが、氏にとって「昭和人」の敗戦体験に相当するものとして全共闘運動体験というのがある、ということなのであると思う。それとパラレルになるように論を構成しなくてはいけないので、「昭和人」の人選にあるかたよりがでてきてしまうのではないかと思う。それは団塊の世代論につながる。
 
 「団塊の世代からの発言」
 団塊の世代全共闘世代などというけれど、団塊の世代で本当に全共闘運動に参加したものなど5%もいないのではないかと、内田氏はいう。「革命」を呼号し、日帝打倒をがなっていた人たちが、「日帝」企業や官庁に次々と就職していったという。「疚しさ」は感じなかったのだろうか、と。
 わたくしの周囲だけに限れば、「疚しさ」を感じたひとはたくさんいたと思う。卒業後、通常の臨床の研鑽のコース(つまりは出世コース)には入らず、いきなり街にでて臨床をはじめたひとはすくなからずあった。それは手に職があって、とりあえず食うに困らないという条件があったからではあるのかもしれないのだが。
 少なくとも、思想の世界についていえば、全共闘運動に参加して「疚しさ」を感じて、一度は日本のメイン・ストリートからドロップし、回り道をしたひとの中から、ひとがでていることは間違いがないと思う。しかし、思想界は、いつの時代にあっても、実業の世界には参加できないひとが棲む世界であるとすれば、それを特別なこととすることもないようにも思う。
 
 「アルジェリアの影」
 カミュ論。「ためらいの倫理学」だったかにあったカミュ論があまりにも意表をついた論だったので驚いた記憶があるが、その延長の論である。
 カミュは「あいつは男だ」「あいつは男ではない」という論理(倫理?)だけで生きた人間だというのである。カミュはある意味でレヴィ=ストロースのいう「野生の人」だったのだという。以前、別のところで、カミュが今のフェミニズムからみればとんでもないひと、女ははるかに男に劣る存在とみていたというようなことを読んだ記憶がある。その倫理が「男かどうか?」にあるのであれば、当然なのかもしれない。
 全共闘運動は、「あいつは男だ」「あいつは男ではない」という論理だけで動いていたということはないだろうか? なにしろ東映やくざ映画に心酔するひとが多かった。
 内田氏は日本にはカミュのような思想家?はいないというが、吉本隆明氏などは随分とそれに近いのでないかと思う。吉本氏もまた、「あいつは男か」「あいつは男ではない」の論理で敵をなぎ倒してきたように思う。「もしも 大事のまえに/ ちいさな事がまちぶせていたら その/ ひとつひとつに花燭をともし/ あたりの悪かつたものに/ 微笑を 耐えられずに死んだものに/ 花飾りを/ ほどこせ」 あるいは、「おれが死んだら世界は和解してくれ」 こういうのが男というのではないだろうか?

昭和のエートス

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