24 小野寺健 「イギリス的人生」

 小野寺氏の「イギリス的人生」(ちくま文庫 2006年9月)は、もちろん全共闘運動とはなんの関係もない。フォースター、オーウェル、ロレンス、ウォーといった作家を論じた本である。もっとも、文学論ではあるが、イギリス的な生きかたというものがあるのだということを主張したものでもある。
 このイギリス的生きかたというのは、その対照をさぐればドイツ的生きかたということになるのかもしれない。われわれの西洋受容はあきらかにドイツに偏していて、たとえばそれは、カント、マルクス、ベートーベンという三題噺になるのだろうか? 要するに真面目、あるいは生真面目、糞真面目。
 それに対してイギリスは、ヒューム、スミスときて作曲家は空席であろう。絶対音楽の作曲家にビッグネームがいないというのがイギリスであって、絶対音楽は様式あるいは形式そのものであるから、ほとんど思考のエッセンスのようなものである。観念の極北である。ということになれば、観念論の本場ドイツに勝てるはずがないことになる。
 それではイギリスは不真面目ということのなるのだろうかということであるが、むしろイギリスは複雑であるというのが小野寺氏のいいたいことなのである。真面目は同時に単純あるいは単線的であって、それではわからないことがたくさんあるのだ、ということである。イギリス的とは複雑、複線的ということになる。
 そういう観点からみると、小阪氏はつくづくとドイツに偏した人だなあと思う。氏はいう。《その意味でぼくはいま全共闘運動を「生をめぐる観念の闘争」だったというふうに定義している。「観念」をつけたのは、問いは日常的な生のありようには届いていなかったと思えるからだ》 この「日常的な生のありよう」というのが小野寺氏のいう「イギリス的人生」の根幹なのであり、「日常的な生のありよう」に届かない思考はイギリスでは根づかないと小野寺氏はいう。
 カント、マルクス、ベートーベン路線、あるいは真面目、糞真面目と対決すると全共闘はなかなかの破壊力を発揮する。丸山真男などもその真面目路線の典型であろうから、そういうのをいじめると、なかなか強いのである。丸山真男旧制高校教養主義の延長線上にある。そうすると全共闘運動というのもまた旧制高校教養主義の延長線上になるのだろうか、ということが問題になる。通常、全共闘運動は戦後民主主義的あるいは進歩的文化人な口舌の徒を批判し、「ヴ・ナロード!」と叫んだということになっているように思う。しかし、「ヴ・ナロード」といわれても、ナロードのほうでは「一体なんのことですか?」であって、結局、「ヴ・ナロード」も知識人の間だけの議論の変形に過ぎなかったということである。「観念の闘争」なのである。
 小野寺氏は「観察者の精神」というフォースターを論じた文章で、フォースターが若いときにヴィクトリア朝的道徳主義への激しい反撥から出発したということを強調している。そういう反撥を共有した知識人グループである「ブルームズベリー・グループ」あるいは「使途会」の周辺にフォースターはいた。この辺りを読んでいて、なんとなく、ヴィクトリア朝的道徳主義を戦後民主義の進歩的文化人に、全共闘運動を「ブルームズベリー・グループ」に対比させてしまった。しかし、小野寺氏のいうように《大切なのは、反逆のあとにくるもの》なのであろう。《彼らはけっして世の中を見かぎったりしない》と氏はいう。しかし、小阪氏は全共闘運動のあと、世の中を見かぎってしまっているように見えるのである。
 《個人を抹殺してしまう怠惰で専横な暴力をふうる点で、政治と宗教の体制はよく似ている。これに反撥するのは文学者の本能である》と小野寺氏はいう。しかし、小阪氏は個人を抹殺しない、個人の尊厳を体現する政治体制がありうるという夢を捨てきれないように見える。だから《政治は必要悪以上のものではない》という見方をとれない。この《政治は必要悪以上のものではない》というのはヒューム以来のイギリスでの伝統であり、政治革命によって聖なる共同体を作るというマルクス主義ユートピア思想と対立する。
 《人生というのは、最高のばあいでもやはり不完全でしかない。それでも、生きないわけにはいかない》ということである。小野寺氏はそれを表からみれば《寛容》であり、裏から見れば《「耐える」エネルギーの強さ》であるという。小阪氏には《生きないわけにはいかない》という生命力のようなものがいささか稀薄であるような気がする。動物的でなく、植物的なのである。だからいい人なのであろうと思うのだが。
 フォースターはブルームズベリー・グループの英雄であったムアよりもディッキンソンに親近感をもったということが書かれている。吉田健一が「交遊録」(新潮社 1974年)でとりあげている「G・ロウェス・ディツキンソン」である。吉田健一ブルームズベリー・グループが大きな影響をあたえているということは前から感じているが(たとえばストレイチー)、ディッキンソンというひとがどういうひとなのかほとんど手がかりがなかった。本書でいささかその手がかりが得られた。吉田健一が19世紀ヨーロッパといって嫌悪するものは、本書でいうヴィクトリア朝的道徳主義と重なるところがあるのであろう。
 フォースターがディッキンソンから学んだことは「中庸」あるいは「一つのことに淫しないこと」であったという。「中庸」とか「一つのことに淫しないこと」という態度は小阪氏にはまったく見られない。「過激」であり「全共闘運動に淫して生きる」ことを選択しているように見える。《人はやがて時代を超えることはあっても、まず時代から生まれるのだ。そして最初から激越な感情の契機をもたない思想など、ありはしないのだ》と小野寺氏はいう。小阪氏は《時代から生まれた》ことに徹底的にこだわる。そして《当初の激越な感情の契機》にも徹底してこだわる。こだわるが故に、《時代を超える》とか《激越な感情》を相対化、客体化することができない。
 「ブルームズベリー・グループ」あるいは「使途会」は、正統派の宗教と正統派の科学の双方を軽視したと小野寺氏はいう。ヴィクトリア朝的道徳主義に対しては、それを根底から理性により疑ったが、しかし人間の問題は理知的な解釈だけでは解決できないこともまた確かであるとしたという。知的なものが人間のすべてではない、ということである。おそらく全共闘運動は戦後派知識人を頭だけの人、理性だけの人と見たわけである。それに対して自分たちは、理性だけからは見えない感性の面をも重視したとして、自分の立場を優位としたわけである。しかし、《個人を抹殺してしまう怠惰で専横な暴力をふうる点で、政治と宗教の体制はよく似ている。これに反撥するのは文学者の本能である》のだとしたら、これは全然新しいものではなく、ほとんど陳腐でさえある古くからの問題であることになる。
 フォースターは「中庸」をあるいは「二流性」を容認するが、それは「理想的」なもの、「究極的」なもの、「過激にして徹底的」なものの存在を前提にしなければ存在理由を失うと小野寺氏はいう。この辺り、ポパーの《科学は真理に至ることは決して出来ないが、それでも真理が存在することを前提としなければ、その営為はたんなる現実生活のための道具と化し、相対主義に陥ってしまう》という見方を想起させる。
 小野寺氏は、フォースターは国家より個人を選ぶという大胆な選択をできた人である、という。それなら小阪氏も国家より個人を選ぶのだろうか? 国家廃絶の日までの千年運動というのであるから、国家を否定する人ではある。しかしそれは遠い将来の話であって、現在ある国家に対してどう対峙するのか、それは鮮明でない。それは現実に存在するのであるから、国家廃絶の方向になんらかの運動をすべきであるとするのであろうか? それならば、国家廃絶などということには一切関心のない、自分のことにかまけている人を許容できるであろうか? 
 小野寺氏はフォースターも一見正反対に見えるD・H・ロレンスなどと共通する反知性主義への傾きをもった人なのであったという。全共闘運動はどこかで反知性主義の色彩をもっていた。小阪氏が感性ということを強調するのもそことつながる。しかし動物的な生命力を欠く人間の感性というのは危ういように思う。真面目な感性は危うい。真面目というのが、そもそも生命力の稀薄から生じるのではないかという気もする。とにかく《生きないわけにはいかない》ということが根底にない思想は危ういのである。


イギリス的人生 (ちくま文庫)

イギリス的人生 (ちくま文庫)