⑳ 水谷三公「丸山真男」・その2
水谷氏の本を読んで、当時(1968年〜69年)の雰囲気をなんとか思い出そうとしてみると、ベトナム戦争というのが大きかったなあ、ということを感じる。そして、その当時のベトナム戦争のイメージというのは、腐敗した南ベトナム政権に対抗する愛国者たちによるゲリラ的な活動を、アメリカが強力な軍事力でねじ伏せようとしているというようなものであったと思う。民族自決の原則から言えば、民意はサイゴン政権から離れているのであり、それはアメリカの支えなしには存続しえない傀儡政権であるのだから、アメリカはさっさと手を引いて、ベトナム国民の民意にまかせればいいのだ、というようなことだったのではないだろうか? ベトコンといわれる組織が北ベトナムの強力な支援を受けているというようなことはほとんど言われていなかったように思う。武器らしい武器をもたない民兵に毛の生えたような人々が、自分たちを支持する人民の海の中を自由に泳ぎまわりながら、密林の中の道なき道を縦横に行き来して、近代兵器で武装したアメリカ軍を翻弄しているというようなものであったと思う。ほとんど楠木正成というか、弱きが強きを挫くというか、道義なき強者に道義ある弱者が勝つというか、そういったものだったように思う。
水谷氏の本によれば、当時の朝日新聞の論説委員は、ベトコンの背後には北ベトナム、ソ連・中国がいることは百も承知だったし、ベトコンというのは本来は蔑称であり正式名の人民解放戦線と呼ぶべきであったが、そんなことを書くとベトコンの本性がみえてしまう心配があり、世論の同情も薄れるので、敢えて書かなかったというようなことを言っているらしい。朝日新聞の罪は大きいと思う。小阪氏の本を読んでも氏およびその周辺が、朝日新聞の論調を鵜呑みにしていたことは明らかであると思うし、連合赤軍が数十人の兵士で革命をおこすなどということを真面目に信じていた一つの背景として、人民の支持さえあれば、少よく大を制しうる、という朝日新聞論調があったかもしれないとも思うからである。
この当時の医学部のクラス会では、日本の帝国主義は現在どの段階にあるかといったことが大真面目に論じられていた。資本主義国家というのは、その内部矛盾をとりつくろうためには常に戦争をせざるをえないという構造を組み込んでいることになっていた。その資本主義の発達段階のある時期が帝国主義的といわれる段階であり、対外侵略を必然とするというようなことだったように思うが、わたくしの理解はいたって粗雑なもので、もちろん、その当時の学生運動で語られていたのはこんなレベルの低い議論ではなかった。
とにかく、ベトナム戦争も、アメリカという資本主義国の内部に孕む矛盾から必然的に必要とされる戦争なのであり、ベトナム人民はその犠牲になっているという構図がすべての議論の自明の前提となっていた。この理屈を認めるならば、資本主義国家がこの地上に存在する限りは戦争は永遠に続くことになるのだから、戦争を廃絶するためには資本主義体制を打倒しつくさねばならないことになる。小阪氏がいう「国家廃絶の日まで続く不定形の千年闘争」というなんともぼんやりした未来イメージの根幹もそこにあるのだろうと思う。
資本主義は戦争を必要とするというのは間違った主張なのだろうか? 現在のアメリカのイラクへの介入もその例ではないのだろうか? しかし、そうはいっても、朝鮮戦争の場合でも、ベトナム戦争の場合でも?、実際に戦争をしかけたのは共産国の側である。しかし、それは未来の戦争をなくすための予防的な戦争なのだから肯定できるという論もなりたつ。実際に原水爆反対運動をしていた人たちの一部は東側の核は平和のための核だから許されると言っていた。
ベトナムでの戦争のもとをたどっていけば、フランスの植民地支配にたどりつく。植民地体制というのもまた、資本主義体制が必然的に必要としたものなのだろうか?(マルクス主義からはそう説明されていたように思う) 第二次世界大戦後、ともかくも多くの植民地が形式的にも独立できたのもマルクス主義の力ということはないだろうか? そして植民地が形式的には独立した後でも宗主国は、既得権を残すために、どんな腐敗した政権であっても自己の傀儡になるならば温存したということもある。そういう国に較べたら、まだ北側のほうがましということはなかったのだろうか? 1968年当時において、北ベトナムのホー・チ・ミン大統領は、ホーおじさんなどといわれて、まるで聖人のようにいわれていた。その実態はどうだったのだろうか? 何しろその当時の北朝鮮を天国であるかのように紹介していたのも朝日新聞である。毛沢東を聖人のようにいっていたのも朝日新聞である。案外、とんでもないひとであったのかもしれない。朝日新聞も、安倍首相の歴史認識などということばかりいっていないで、自らの歴史認識を正すためにも「本当のホーおじさん」でも追及してみたらどうだろうか? いつの時代でも自分はつねに正しかったなどというのでは、日本共産党と同じである。
それはさておき、よくわからないのが、北による南ベトナム解放後、大量のボート・ピープルと呼ばれる難民が南から出たことである。それほど腐敗した南の体制であっても、そのあとの北の体制よりはましということであったのだろうか? あるいはボート・ピープルとなるような人たちは旧体制下での特権階級であり、着の身着のままのボート・ピープルとなったのも自業自得ということなのだろうか? ベ平連といわれる人たちがそういう人たちを積極的に救援援護したという話もきかない。
そもそも、ベ平連というのが何だったのだろうか? 正式には「ベトナムに平和を!市民連合」というのではなかっただろうか? わたくしは市民という言葉が大嫌いで(というかまだ日本語として定着していないと思う)、そういう言葉を平気で使う人間が信用できない。だから市川房江も管直人も嫌いで、市民を連発した土井たか子もバカではないかと思う。しかし、そういうベ平連に、言葉に敏感であったはずの開高健がなぜ参加したのか、それがわからない。鶴見俊輔という人は書いたもの、語ったことは大変面白いひとだが、それがベ平連というようなものになぜ深くかかわったのか、それもわからない。
ベ平連はその当時の学生運動組織とは一線を画していた。全共闘は、その組織原理からいってもベ平連の流れにつながるものなのではないだろうか? 小阪氏が全共闘と三派全学連はまったく別のものというのは、その辺りのことをいっているのではないだろうか? 組織のルーズさ、いい加減さ、というようなものから、ある種の無責任さから不真面目さまで、ベ平連と全共闘運動には多くの類似点があるように思う。その無責任さに居直ると小田実のような人間ができてくるのかもしれない。わたくしは小田実のような人間がとにかく嫌いで、当時においても、ベ平連のような組織が不潔にみえて仕方がなかった。それに比べれば全共闘運動のほうがずっと清潔に見えたのだが、それはベ平連が大人たちがやっていた運動であるのに対して、全共闘のほうは子供たちがやっている運動にみえたからであるからかもしれない。全共闘運動というものに当時の日本人の多くがある種の共感を抱いたのは、それが子供の運動に見えたからだと思う。ああいうことを大人がやっていたのであれば、ただただ不潔なだけである。
なんだか、話がずれてしまったが、当時、ソ連はまだ生きた国であったわけだし、かりに共産主義はもう先進国には適合しない体制であるとしても、途上国においてはそうではない、というような議論もあったと思う。まだ社会主義が現実の一つの政治体制の選択肢の中には残っていたわけである。小阪氏の本を読んでも、社会主義にはまだわずかにでも後光が射してしたのであり、それなしには全共闘運動はなりたたなかっただろうということを強く感じる。とすれば、高度成長により急激に変貌しつつあった日本と、まだ残光がわずかに輝いていた社会主義という二つがうまく交差したあの時代にしか全共闘運動は生じなかったことになる。とすれば全共闘運動の今日的意味というようなことを論じることに何か意味があるだろうか? 一回限りしかおきないことに意味はあるだろうか? そこから何か普遍的なものをひきだせないことに、意味はあるだろうか?
水谷氏の「丸山真男」は、丸山真男が終生、社会主義への恋情を断ち切ることができなかったことを検証した本である。そして小阪氏もまた社会主義への恋情をもっていたのであるから、二人は同じ穴の狢であるかもしれない。それなのに、なぜ小阪氏らは丸山真男的なものを憎悪するのであろうか? それはおそらく、口舌の徒への軽蔑であり、丸山らが誠実という点において欠けるところがあるように見えたからである。しかし、誠実ごっこの不毛ということならば、日本の自然主義文学の歴史をちらっとでもふりかえってみればいいのであり、「思想としての全共闘世代」などという本を書く小阪氏も口舌の徒ではないと、誰がいえるだろうかということもある。小阪氏はおそらく自分の生きかたを見てくれというのであろう。しかし、それは未練たらたらというか、何か男らしくないのである。それよりも何も弁解をせず、黙々と物理学の本を書く山本義隆氏のほうがわたくしくは好きである。我、事において後悔せず、などというのはわれながら古いと思うけれども。