⑲ 水谷三公「丸山真男」・その1

 
 この本は二年前に読んだときはあまり面白いとは思わなかった。今度、丸山真男全共闘にいじめられた過程を調べるのに読み返して、面白くて再度通読してしまった。面白かったのは丸山真男社会主義のかかわりとして述べられるその当時に流通していた社会主義のイメージである。
 最初に読んだときも「はしがき」の部分は面白かった。水谷氏によれば丸山真男は《遅れゆがんだ日本の「世間」を批判・克服し、近代的「社会」の実現を目指した人である》ということになる。
 丸山真男が目指した「社会」は、

 世間体の苦しみやしがらみを雲散霧消させるはずの、つまりはムラ八分もいじめもない、欧米近代になるという自由な個人の自発的な協調と連帯を約束するのである。しかし、それはおおかたうそである。うそだから実現しないし、そんなふりを無理に通してみても、定着しない。日本に定着しないのは、市民意識や個人の尊厳の観念が稀薄で、いまだに未成熟だからではない。たんに、そんなことはこの世にないからである。

 これは阿部謹也氏の「世間」とは鋭く対立する見方である。阿部氏によれば、「西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳をもっているとされており、その個人が集まって社会をつくるとみなされている」。つまり、「社会」とは個人が人為によって作り上げるものである。しかし、日本では「世間」は所与のもとのされており人為的産物とは考えられていないから、欧米の「社会」と日本の「世間」はまったく違うというのが阿部氏の議論の出発点になっている。
 小室直樹氏も「危機の構造」で、「近代デモクラシーがその基礎をおくところの行動様式の特徴は、制度を天然現象のごとき所与とはみずに、人間によってつくられた人為の所産である、とみることにある。これがすべての前提である。人間の作為の所産であるからして、これを人間の行動によって変えることは可能である、と考えられる。制度も法律も慣行も、社会の機能的要請にもとづいて変更し、あるいは新解釈を与えることが可能なのである」といっている。
 水谷氏によれば、「ムラ八分」のない共同体などありえない。それなのに世間を壊すだけ壊しておいてから、あわてて「コミュニティ」などといいだすとはと慨嘆する。共同体のない世界などないのだから、「ムラ八分」をなくそうなどといえば、人間のいないところにいくしかない。そういう不毛な目標を目指したのが昭和の森有礼である丸山真男であったのだという。「世間」というものは、世界中どこにでもあるものなのか、それとも、日本固有のものであるのかということが問題となる。
 ここらは山本七平氏の独壇場である「機能集団」と「共同体」の問題である。日本では「機能集団」と「共同体」が重なってしまっている。軍隊が共同体になることによってどれだけひどいことがおきたかということが、丸山真男の場合においても山本七平の場合においても、それぞれの論の前提となっている。会社が共同体になることの分析は山本七平が条理を尽くして分析している。だれも会社を株主のものだとはおもっていない、従業員のためのものと思っている、という話である。
 小阪氏は、全共闘が上下関係のない、命令系統のない組織であったということを強調する。それに対して連合赤軍は上下関係のある軍隊的な組織であった。それが故に連合赤軍事件がおきた、という。小阪氏は命令指揮系統のある組織が嫌いらしい。しかし、ある大きさの組織が何かをしようとすれば、機能集団をつくらねばならず、そこには命令指揮系統がなければならない。もしも、その組織にそういうものがないならば、それは本気でなにかをしようとしていないということである。
 全共闘運動は個別具体的な問題を解決するためにつくられるという小阪氏の説はどうも疑わしい。連合赤軍が軍隊的な組織をつくったのは彼らが真面目に何かをしようとしたからである。彼らの問題は組織をつくったことではない。彼らの目的が到底常人には理解できない荒唐無稽なものであったからである。しかし、戦艦大和の出撃もまた到底常人には理解できない荒唐無稽なものであった。
 小阪氏は、本能的に日本の旧来の組織も持つ問題点を嗅ぎあてていて、かっちりとした組織というものへの強い不信の念があるらしい。もっといえば何か具体的なことをすることへの不信もあるらしい。だから、理想は何もしないルーズな集団ということになる。なにもしないために集まること、それは遊びである。橋本治氏が、全共闘運動は原っぱでの遊びの再現であったというのは、けだし名言であり、全共闘運動の本質をついているのかもしれない。
 

丸山真男 (ちくま新書)

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