⑱ 山本七平「空気の研究」


 小阪氏が「思想としての全共闘世代」で一番言いたかったことは、「その時代につかまってしまった」ということであるように思える。「そこで自分が決まってしまった、あるいはそこからいまのぼくの人生がはじまったというのも、ぼくにとって動かしがたい事実である。全共闘の季節から数年たってみると、全共闘あるいは正確にいうと全共闘ということばで表現される時代のなかで生きたことが、その後の自分の人生を決定してしまったということにぼくは気がついた。」
 本書は「全共闘ということばで表現される時代」をなんとか再現しようとする試みなのである。その時代がどういう時代であったのかということを理解してもらえるならば、現在から見るとばかげて見えるかもしれない全共闘運動にも必然性があったことがわかってもられるだろう、ということである。その時代の空気を知ってもらいたい。それがわからなければ全共闘運動はわからないということである。
 小阪氏は「つかまれる」「つかまってしまう」という表現をする。自分が判断をして参加したのではなく、その時代につかまれ、つかまってしまい、気がついたら運動に参加していた、というのである。自分を超える大きな力があって、その力のために自分は否応なしに運動に吸引されていた。だから「自分には責任がない」というようには書かれてはいないけれども、どうしてもそのように読めてしまう。これは、すぐに丸山真男の「日本の思想」の「である」ことと「すること」を想起させてしまうし、「忠誠と反逆」の「なる」「つぎ」「いきほひ」なども思い出させる(「忠誠と反逆」は丸山真男なりの全共闘運動への回答なのではないだろうか?)。「日本の思想」は日本の無責任体制研究であろう。小阪氏も丸山真男進歩的文化人批判に同調した一人であろうと思うが、そのしていることは丸山理論の中で説明されてしまっているような気もする。
 阿部謹也氏は、「世間」についてはほとんど学問的研究がなされていないというが、たとえば山本七平氏の著作などはそのほとんどすべてが「世間」研究なのではないかと思える(もっとも山本氏の著作を学問的研究とみなす人はあまりいないだろうと思うし、学者の間では山本氏の著作が論じられることはほとんどないのは事実だと思うが)。また小室直樹氏の「危機の構造」もまた「世間」研究であると思う。
 その山本七平による「世間研究」の一つ「空気の研究」(山本七平ライブラリー1 文藝春秋 1997年)では、大和出撃のことが取り上げられている。大和出撃については沖縄以前にもサイパンへの出撃が検討されたことがあり、技術的判断によって退けられている(「いかなる状況にあろうとも、裸の艦隊を敵機動部隊が跳梁する外海に突入させるということは、作戦として形をなさない」)。それが沖縄へ出撃することになったのは、状況が変化したからではない。「空気」なのである。「全般の空気からして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」ということになる。「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答うる以上に弁疏しようと思わない」ということになる。つまり、その当時、その決定にかかわった人たちにとっては、そうせざるをえなかったのだということは自明なのであるが、その場におらず、その場の「空気」を知らない人たちには、絶対にそれは理解してもらえないことなのである。
 小阪氏のいっていることも、これに近いと思う。今の時点から振り返ってみれば全共闘運動というのはばかげて見えるかもしれない。しかし、その当時内部にいた人間にとっては、そうするしかない必然があったのであり、だからまた同じ状況に遭遇したら、やはり同じことをするだろう、というのである。時代がそうさせたのであって、自分がしたことも自分の意思によるのではない、という。
 医学部教授会がTくん誤認処分の撤回をなぜできなかったのかは、その場の教授会の「空気」を知らないものには理解できないことであり、なぜ数十人のわずかな武装勢力で革命をおこせるなどと考えたのかも、その時代の「空気」をしらないひとには理解できないことになる。そして、その場の「空気」を理解するならば、それが止むをえなかったことがわかるだろう、ということになれば、すべては必然であることになる。だから、アメリカとの戦争を誰一人望まないままにアメリカと開戦することになったりもする。
 1968年あたりの「空気」とは、ベトナム反戦であり、文化大革命であり、パリ五月革命であったのだろうか? 当時は、「人民の海」を泳ぎまわるベトコンによってアメリカの最新兵器による攻撃が次々と打ち負かされるということになっていたように思う。実際には南の民衆の自発的蜂起ではなく、北の正規軍を主体にした侵略戦争であったことは、当時の朝日新聞なども当然知っていたらしい。しかし、知っていながら書かなかったわけである。
 文化大革命の実態についても同様であろう。実態を知りながら報道をしなかったわけである。パリ5月革命ではサルトルが人民服を着て、「毛沢東語録」をかざしてご満悦であった。自己批判の強要とつるしあげは中国全土を席捲していたわけであるが、それを素晴らしいことであるように新聞は報道していた。この当時の「空気」をつくった朝日新聞などの罪はとても重いように思える。

 三派全共闘学生に拉致され、長時間にわたってつるし上げにあわれている先生(丸山真男)のお姿を遠くから見つめながら、「糾弾集会」を演じるリーダー格らしい一部学生の発するすさまじい興奮と憎悪、さらにはそれを楽しんでいるかにみえるその他大勢の学生に強い衝撃を受けた。老境に近い人を長時間拘束し、耳元にマイクを突きつけ、がなり立てるといった拷問同然の「自己批判の強要」は、私の当初考えていたような、お祭りとしての学園紛争を超える、なにかまがまがしいものになっていた。(水谷三公丸山真男」 ちくま新書 2004年)

 ここにあるのは自分が正しいと信じる人間のおぞましさである。
 ところが小阪氏は、当時、林健太郎氏が全共闘にカンヅメになりながらも頑強に抵抗したことを賞賛し、「ぼくたちは同情めいたことを言う教官よりも、思想的には異なっていても逃げずに対話しようとする、この林健太郎のような教官のほうを尊敬していた」などと書いて、あっけらかんとしているのである。小阪氏が「自分としても六九年に頭が「正常」であったかどうかは自信がない」というのも当然なのかもしれない。
 

「空気」の研究 (山本七平ライブラリー)

「空気」の研究 (山本七平ライブラリー)

丸山真男 (ちくま新書)

丸山真男 (ちくま新書)