内田樹 平川克美「東京ファイティングキッズ・リターン 悪い兄たちが帰ってきた」

   basilico 2006年11月17日初版
   
 内田樹氏と内田氏の友人で中小企業社長?(でありかつ全共闘運動時代の同志?)である平川克美氏がインターネット上でとりかわした往復メールを収めたものである(一部、直接の対談をふくむ)。
 こういうものが出版されるというのも時代だなあ、ということを感じる。一人の著者の論ではなく、二人の人間の間のやりとり、しかもあらかじめテーマを決めて議論をするというのではなく、かなり即興的に相手の論に応じて話題が動いていく。そういう個人間のメールのやりとりがそのまま本になってしまう。
 たとえば「洛中書問」(吉川幸次郎 大山定一 筑摩叢書 1974年 原著は1946年刊)や「ニ都詩問」(吉川幸次郎 福原麟太郎 新潮社 1971年)のような真剣勝負の書簡のやりとりではなく、悪い兄たちが弟たちを「最近の若い奴らは困ったものだ」といって嘆いているような本なのである。ダイアローグであるなら、悪い兄たちと良い弟たち?の間でかわされるべきであると思うのだが、ほとんどモノローグに近い。
 そういう作られかたをした本であるので、議論はあまり深まらず、個々のテーマは十分に掘り下げられることもなく、ただ提示されるだけで、原石のままに放置されているという感じである。まあ、大事なのは問題をみつけること、それを提示するこであるのかもしれないから、こういう行き方もあるのかもしれないとは思う。しかし、なんとなく安易な本づくりであるなあ、とも感じる。
 そういう本であるので、いくつかの発言をとりだし、それにだらだらと感想を付してみたい。

 人間の個性は「理路整然と言い切られたことば」や「快刀乱麻を断つことば」を介してではなく、「言いよどみ」や「前言撤回」のうちに、ほとんどそこにのみ生き延びるチャンスがある。(内田氏)

 理路整然や快刀乱麻は知識あるいは知能にかかわる部分であり、「言いよどみ」や「逡巡」は感覚あるいは感性にかかわるのかもしれない。ある人をそのひとたらしめているのは、何を知っているかではなく、それをどう感じているかであるということかもしれない。しかし信念の人もいるわけであり、そういう人は「言いよどみ」も「前言撤回」もしないわけであるから、そうすると、自分の正しさを信じない、あるいは信じられない、ということが個性であることになるのだろうか?
 おそらく、あることに対してどれだけ多様な見方をできるかが、ここでいわれていることであり、あることに一つの見方しかできない人が単純な人、さまざまな見方ができる人が複雑な人ということであり、個性がある人とは複雑な人のことであるということが、いいたいことであるのかもしれない。
 しかし、三島由紀夫の「剣」の主人公国分次郎は単純な人であるが個性的な人であると思う。国分次郎は理路整然も快刀乱麻もない、寡黙な行動の人なのであるが。

 ぼくがチョムスキーに感じたのは、「いくらなんでも非常識な・・・」という感覚だったんです。(中略)たぶん彼の言葉には「愛」がないからなんですよ。(内田氏)

 これまた、いわれているのはチョムスキーの言葉は知識からのものであるので感情がない、だから「言いよどみ」がない、躊躇がない、ということである。これは、

 自分を勘定に入れないところでは、人間は何とでも言うことが可能です。(平川氏)

 というこでもある。もちろんチョムスキーだって自分は勘定に入れてはいるのだが、自分を正しいと思える正義の人であるので、勘定しているようでいて勘定に入っていないのである。一言でいえば「人情」を欠く。

 サルトルという人は、レヴィ=ストロースからは、たぶん「科学的思考」の権化に見えたんでしょうね。「科学的思考」というのは、過度に「脳化」した思考法のことです。(中略)レヴィ=ストロースの言う「神話的思考」をぼくは「身体的思考」と言い換えることができるんじゃないかと思うのです。(内田氏)

 というのも同じで、サルトルチョムスキーは同じ穴の狢であるということである。自分を勘定に入れないということは、自分を頭だけだと思うこと、自分に体があることを忘れることでもある。
 ここらは最近の養老さんの「脳化」批判、内田さんの橋本治讃「わたしの身体は頭がいい」に通じるものなのであろう。

 「ウチダの身体」は「ウチダの頭」よりはるかに賢い。/恐ろしいほど賢い。/これは自信をもって断言できる。/頭が理解できないことでも身体が理解できる、というのが私の特技である。(「わたしの身体は頭がいい」新曜社 2003年)

 内田氏も平川氏も全共闘運動を通過して、あとからそれが頭の運動であったことを痛感したのであろう。あるいは、その運動において後に意味をもつものは身体にかかわる部分だけであって、頭がかかわる部分は何も残さない、というがわかったのであろう。平川氏は会社を経営する立場になって、そのことを痛感したのかもしれない。内田氏はレヴィナスという思想家に全身まるごととりこまれるという経験をして、そう感じるようになったのかもしれない。
 それで、想起するのが林達夫の「三木清の思い出」である。

 私が多少とも交渉をもった非合法時代の共産党員は、野呂栄太郎にしろ、島誠にしろ、亡妹にしろ、そしてこのTにしろ、何度もつかまりながら、ついに一度も私に累の及ぶような口供をしたことはなかった。これは逆に言えば、私はこれなら信頼するに足ると確信することのできない人々には、一切どんな因縁があっても心を許そうとしなかったためでもある。三木の寛宏な穏やかさと私の狭量な冷さは、こんなところにもあわられているといえるだろう。(「歴史の暮方」筑摩叢書 1968年)

 これは林達夫が全身で人を判断していたのに対して、三木清が頭で判断していたということでもあるように思う。頭での判断は感傷的になり、目を曇らせることになりがちなのである。
 知識と感性、頭と身体という二項対立は、政治思想の問題とそういう点でかかわってくる。

 自分が被害者である、どこかに加害者がいるはずであるという語り口は、ぼくたちは十分に経験してきているわけです。ちょっと大げさに言えば、そこに戦後左翼のもっとも脆弱な論理を見てしまうわけです。(中略)「てめえらなんぞに、俺の苦しみが分かってたまるかよ」という恫喝に対して、学生左翼も文学青年もたじろいでしまうなんてことがあったのだと思います。(平川氏)

 この語り口の前提は、《他人の苦しみを分かるべきであり、分かることできる》ということである。フォースターは「寛容の精神」で「ポルトガルで暮している人が、まったく知らないペルーの人を愛しなさいなどという−これはバカげた話で、非現実的で危険です。こういう精神が行きつく先は、危なかしく怪しげなセンチメンタリズムです」といっている(「フォースター評論集」岩波文庫1996年)。
 「てめえらなんぞに、俺の苦しみが分かってたまるかよ」といわれて、「分かるわけないではないか。分からなくて当然だ」といえないのが左翼のセンチメンタリズムということになる。しかし、世の中には他人の苦しみが本当に自分の苦しみという人もいて、たとえばシモーヌ・ヴェイユなどという人はそういう人だったのではないかと思う。カール・マルクスもどこかにそういうことろがあった人でもあり、それだからこそマルクスの説があれだけの力をもったということもあるのかもしれない。
 しかし大部分の人間はそんなことは感じないのだから、感じていないのに感じていると思うのはセンチメンタリズムであり、他人に感じるべきだと強要することも奇怪な感傷ということになる。
 全共闘運動の時代には、それをさらに一ひねりして、自分は加害者であることを告白することが流行した。それを自己批判して克服し、被害者の側と連帯するのが正しい生きかたであるとされた。これまた感傷であるということになるのだろうか? 被害者こそが正しいというのがフェミニズム運動から環境運動までのすべての出発点となっているわけだから、それがセンチメンタリズムに過ぎないことになると、そういう運動は崩壊してしまう。
 すべての左派の運動の基礎には感傷があるということになるのかもしれない。それで、

 フェミニズムについては「死に水を取る」思想家が名乗り出ないとまずいんじゃないか。(中略)きちんとした「喪の儀礼」を執行しさえすれば、思想の最良の部分は生き残れる。後世の人々がその余沢を受け取ることができるし、いつまでも感謝される。(内田氏)

 ということになる。
 マルクス主義が東欧体制の崩壊によって現実の政治体制としては否定される時代になって、マルクス陣営の思想はフェミニズムや環境運動へと流れていった、あるいはそういう場所で生きのびようとしている。フェミニズムが誰も死に水をとらないまま野垂れ死にしてしまうと、マルクス主義もまた誰も「死に水を取」らないままで野垂れ死にしてしまい、その思想の最良の部分が生き残れないことになってしまうかもしれない。
 それで内田氏は以下のような無茶なことを言いだす。

 支払われる賃金以上の価値を生み出す行為、それが「労働」の定義です。/そして、労働をするのは人間だけなんです。/動物は労働しません。だから剰余価値を生み出しません。
 ライオンはお腹いっぱいになったら、横にトムソンガゼルの群れが来ても、どよんとした昼寝眼で眺めるだけで、「おお、この機会にもう二、三頭殺して、『取り置き』しておこう」なんて殊勝なことは考えません。(中略)そういう「よけいなこと」をするのは人間だけです。「よけいなこと」をして、「よけいなもの」を生み出すもの、それが人間です。(中略)
 動物にないのは愛他精神や博愛主義ではなくて、「時間」という概念なのです。

 これがマルクス主義を擁護するものであるのか、否定するものであるのか、最良の部分で生かすものであるのか、それはわからないが、内田氏のいいたいことは、知性の見方はあるいは脳の見方は時間をふくまないのに対して、感性の見方はあるいは身体の見方は時間をふくむということなのだと思う。

 九鬼周造の凄いところは「粋には本質がない」ってはっきり言っていることなんだよ。「粋」には具体的で特殊で個別的な実相だけがあって抽象層はない。そういうことを『「いき」の構造』で最初から最後まで延々と書いているんだよ。(内田氏)

 というのも、抽象の操作により本質を取りだそうとすると時間が消えてしまう、ということをいいたいのであろう。
 平川氏が「ホリエモンが金で買えないものはないと言った瞬間に、野暮だねって言えばいいんだよ」といっているのは、なんとなく「赤頭巾ちゃん・・・」における薫くんの議論を思い出させる。人間が産出した余剰から生まれた文明は、人間の無理から生まれているのだから、無理するのをやめようと誰かが言いだすだけであっけなく崩壊してしまう可能性のある、きわめて脆い基盤の上に立っているということである。
 以上、いろいろと書いてはきたが、実は本書で一番印象に残ったのは引用されていた二つの詩である。
 
 平川氏が引用していたのが、安東次男の「残雪譜」。

 私は信じられない小鳥の死骸を石のように握りしめたまま、暮れてゆく風景の中に茫然と立ちつくしていた。
 そのころ私は、まだ海というものを知らなかったから投げることを知らなかったのだ。

 
 内田氏が引用しているのが、小池昌代の「りんご」

 ところで
 きょうのあさは
 りんごをひとつ てのひらへのせた
 
 つま先まで きちんと届けられていく
 これはとてもエロティックな重さだ
 
 地球の中心が いまここへ
 じりじりとずらされても不思議はない
 そんな威力のある このあさのかたまりである

 
 どちらの詩にも時間が流れているのだと思う。


東京ファイティングキッズ・リターン

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