内田樹氏の最近のブログから

 
 内田樹氏が最近のブログで、上野千鶴子氏の「おひとりさまの老後」への異議申し立てを「週刊ポスト」に書いたことについて書いている。http://blog.tatsuru.com/2010/04/27_1045.php 上野氏の「おひとりさまの老後」については以前にとりあげたことがある。id:jmiyaza:20070818 それで、内田氏の論を読んで少し思うところがあったので、以下書いてみたい。内田氏の「ポスト」での論(それ自体は見ていない)の中で「おひとりさまの老後」について論じた部分は以下とのことである。

 『おひとりさまの老後』には強い違和感を持ちました。あの本の核心は「家族が嫌い」ということをカミングアウトした部分でしょう。「家族に何の愛情も感じてないから、世話になる気もないし、世話をする気もない」と考えている人が現に大量に存在している。でも、その心情は抑圧されていた。上野さんがそれを代弁したことがひろく共感を呼んだのだと思います。でも、ぼくはそれは「それを言っちゃあ、おしまいだよ」という言葉だったと思います。
 「ひとりで生きる」ことが可能だというのは、それだけ社会が豊かで安全だということです。その前提条件が満たされた場合にのみ、「そういうこと」が言える。その前提が成立しないところでの「おひとりさま」はきわめてリスクの高い生き方だと思います(・・・)
フェミニズムはある条件内では整合的な社会理論ですけれど、経済の「右肩上がり」が前提になっている。「活発な消費活動を行えるだけの資力がある」ということが「おひとりさま」ライフの暗黙の前提です。
 21世紀に入ってからは、「消費活動をどうやって活性化するか」だけを考えていればいいという状況ではなくなっています。ぼくたちは「貧しい資源をやりくりする」状況に適応しなければならない。
 上野さんの「おひとりさま」コミュニティーはあくまで「強者連合」でしょう。お金があり、社会的地位があり、潤沢な文化資本のある人はそこに参加できて、快適に暮らせるでしょうけれど、その条件を満たす人は今はもうごく少数しかいない。その人たちにしてもお金がなくなったり、失職したり、病気になって自立能力を失ったら、快適な「おひとりさま共同体」からは出て行かなければならない。貧しいとき、病めるときにはその支援をあてにできない共同体にはあまり意味がないとぼくは思います。それより、緊急の問題は大多数の「ひとりでは暮らせない」人たちがどうやって他者と共生するスキルを開発することでしょう。

 
 1)「家族が嫌い」?
 ここの部分を「家族」といってしまっていいのだろうかということを感じた。ここに国家あるいは共同体あるいは家制度を代入したらどうなるだろうか? 「国家には何の愛情も感じてないから、国家の世話になる気もないし、国家のためにつくす気もない」あるいは「○○家といった家名などには何の意味も感じないから、家名を守る気もないし、子孫を残そうとも思わない」 こうすれば、これは戦後の気分そのものかもしれないし、「家制度」からの脱出は明治以降の日本文学のテーマの中心であったかもしれない。そうであれば上野氏がカミングアウトしなくても、それは戦後の正統的な気分であったはずである。
 そもそも「おひとりさまの老後」は、老後も一人で生きるという話ではなく、若い時は一人で暮らせても年をとったらそうはいかなくなるから、なんらかの疑似家族のようなものを形成する方向を探り提示することを企図した本なのではないかと思う。それは内田氏がいうように「強者連合」であるとは思うけれど、「お金がなくなったり、失職したり、病気になって自立能力を失ったら」支援をあてにできなくなるようなものではないと思う。それは上野氏の夢であって、実際には「貧しいとき、病めるときにはその支援をあてにできない共同体」となってしまうのではないかとわたくしも思うけれど、上野氏は強者連合においてはそのようなことはないコミュニティを形成できるのはないかと夢想していると思う。貧しいとき、病めるときには共同体からその支援をあてにできないようなひとはコミュニケーション・スキルが足りないというのが上野氏の信念なのではないかと思う。つまり強者は他者と共生するスキルを持っているというのが上野氏の前提なのである。大多数の「ひとりでは暮らせない」人たちというのは上野氏によればコミュニケーション・スキルを磨く努力を怠ったひとなのであり、努力もせずに他からの救済をまっているようなひとのことは知ったことではないというのが上野氏の本音なのではないかと思う。
 内田氏の初期の著作である「「おじさん」的思考」のかなり長い「あとがき」で、この本は「日本の正しいおじさん」擁護の本であるが、自分は「日本の悪いおじさん」であるといっている。「日本の正しいおじさん」が日本の土台であり、基幹であり、そういう正統が存在しているからこそ、自分のような「悪いおじさん」がそれに寄生して生きていられるのだ、と。
 とすれば問題は、上野氏のような「日本の悪いおばさん」?は、実は《大多数の「ひとりでは暮らせない」人たち》に寄生していきているのだろうかということである。「こつこつと働き、家庭を大事にし、正義を信じ、民主主義を守る」ことに疑念を感じないような「日本の正しいおじさんとおばさん」がいたからこそ、上野氏のような「異端」もまた生きていられるのだろうかということである。
 「「おじさん」的思考」の「あとがき」に、かなり唐突にレヴィナスの著作からの引用がでてくる。レヴィナスは「神がいない」ということを嬉しそうに言挙げする人たちを「幼児」であるとし、「信じるものがなくなったとき、「信じるものがなくなった状況」を「信じる」契機に繰り上げることができる」のが「大人」であるとしている、そう内田氏は断言する。
 わたくしが内田氏の著作をはじめて読んだのがこの本であり、レヴィナスというひとについてもまったく知らなかったので、この論法を典型的なカトリックのものであると感じた。最初にこの手の論法に接したのは福田恆存氏の「人間・この劇的なるもの」とか「芸術とは何か」で、ぞっこんその論法に惚れ込んでしまった。いつしかそれから離れることになったが、それは端的にそれが嘘であると感じるようになったからである。「信じるものがなくなったとき、「信じるものがなくなった状況」を「信じる」契機に繰り上げることができる」というのは何とも悪魔的なささやきであるが、詭弁である。ひとの自尊心をくすぐるものであるが、それは「信じるものを持つもののほうが持たないものよりも優れている」という不当前提の上に成立している。「信じるものがなくなったときには、信じるものがないままでいる」しかないので、「信じるものがないことに耐えられる強さを持つひと」を大人というのではないかとわたくしは思う。
 内田氏によれば「王様は裸だ!」と嬉しそうにいうひとは子供であり、「王様が裸である」ことを知りながら、それでも王様が盛装しているかのごとく振るまえる人間が大人なのである。「「おじさん」的思考」におさめられた「「大人」になること−漱石の場合」という論(これは内田氏が書いたものの中でもっともすぐれたものの一つではないかと思う)で、「虞美人草」での内面を持たない青年である宗近君が内面を持つ青年甲野君を圧倒する場面を引用する。しかし宗近君は「信じるものがなくなったとき、「信じるものがなくなった状況」を「信じる」契機に繰り上げる」などという高級なことをする人ではなく、単に信じるひと、他人の眞を信じることができるひとである。福田恆存氏のいう「スラブの魂をもつひと」、西洋あるいはキリスト教道徳に毒されていない無垢を体現するひとである。しかしそういう無垢な人というのはほとんど小説の中にしか存在しないし、大部分の大人は、「信じるものがなくなったとき、「信じるものがなくなった状況」を「信じる」契機に繰り上げる」どころか、いとも簡単に信じるひとたちである。
 そういう中で知識人というのはなかなか信じることのできない少数派である。もしも知識人というものにいささかでも存在意義があるとすれば、それは容易に信じないという点にあるのであり、そこにしかないだろうと思う。そして上野氏も、内田氏もまさに典型的な知識人である。信じることをできなくさせたのは例の「大きな物語の消滅」であるかもしれないし、村上龍氏のいう「近代化の終わり」なのかもしれない。「今消えてしまっているものは、子どもたちのタフネスでもないし、父親の威厳でも、母親の優しさでもない。貧しい時代だからこそ残っていた日本人固有の豊かな心、などという欺瞞的な嘘でもない。その時代にあったのは、近代化という国家的な大目標、それだけだ。だから、あの時代に絶対戻ることはできない。あの時代にあったものを取り戻すことも不可能だし、あの時代を基準にして今を考えるのは卑怯だ。/ 今の子どもたちが抱いているような寂しさを持って生きて来た日本人はこれまで有史以来存在しない。」(村上龍「寂しい国の殺人」) 寂しい時代は集団の目標がなくなり一人一人がばらばらとなり、“孤独”がくる。「自分の頭でものを考えると、当然のことながら、“孤独”というものがやって来る。そうなると、日本人の多くはすぐに心細くなって・・、“救済”の方へ行ってしまう。「自分の頭でものを考えて、それで孤独になるのなんて当たり前のことじゃないか。“自分の頭でものを考える”ということは、“一人で考える”ということなんだから」という、いたって単純な発想がないからそういうことになるのだが・・」(橋本治「宗教なんかこわくない!」) 「その絶望は一つの態度であつて、我々が望みを絶たなければならない事柄に就ては望みを絶たなければならない。それでは孤独はどうだらうか。これは一人でゐること、そして又、一人であることで・・、これは皆で集つて陽気に騒ぐといふことの反対であつて、さうして騒ぐこと、また騒がなくともいつも多勢のものと一緒にゐることの最も大きな魅力は真面目にならないでゐられることにある。」(吉田健一「文学の楽み」)
 わたくしが「おひとりさまの老後」にかんして感じる不満というのは、なんだか上野氏はいささか虫がいいというか往生際が悪いというか、好きなように遊び暮らすキリギリスの人生を送ってきたひとなのだから、悲惨な老後くらいは甘受すべてきではないかというような方面にある。氏は頭によって理性によって自分の人生を思うように設計できるという強い信念をもっているのであろう。氏はフェミニズムというのが壮年期までの思想であり、それは悲惨な老後とワンペアであることを感じて、自分の蒔いた種をかりとるために介護の世界にむかったのかもしれない。内田氏にしても「日本の悪い青年」から「日本の悪い壮年」として「日本の正しいおじさん」に「ずっと逆らい、噛み付き、罵倒し、いやがらせをし、反抗の限りを尽してきた」のであろう。それを「彼らを頼り、彼らを信じていたがゆえの「わがまま」だった」などというのはいかがなものなのだろう。
 内田氏は「日本の悪いおじさん」から「日本の正しいおじさん」へと回帰しようとしている。上野氏は「日本の悪いおじさんおばさん」連合を作ろうとしている。しかし根っからの「悪いおじさん」である内田氏が「正しいおじさん」に変貌することができるものなのだろうか? また、徒党をくめないからこその「悪いおじさんおばさん」なのではないだろうか? それは連合とか連帯とかいったことになじまないからこそそうなったのではないだろうか? 上野氏は本当にそういうひとたちがコミュニティを形成できると信じているのだろうか? 「望みを絶たなければならない事柄に就ては望みを絶たなければならない」のではないだろうか?
 
 2)経済の「右肩上がり」を前提
 フェミニズムだけでなく、日本のあらゆる制度が《経済の「右肩上がり」を前提》にしていたのではないだろうか? 現在日本の混乱のほとんどは、今後、もう二度と「右肩あがり」などという時代はこないことを認めるのを躊躇していることに起因するのではないだろうか?
 わたくしの仕事にも関係する社会福祉制度にしても、制度のはじめからそれが数年ももたないすぐに軌道修正が必要なものであることは当事者には自明のことであったらしい。それにもかかわらずバブルの10年によって、もたないはずの制度がもってしまったために、それがずっと継続可能なものであるように多くのひとに思われ、当然の制度、恒久的に維持可能な制度であるように思われてしまったため、いまさらひっこめるわけにもいかなくなってしまいずるずると今日にいたっているということらしい。
 「貧しい資源をやりくり」し、「大多数の「ひとりでは暮らせない」人たちが他者と共生するスキルを開発する」という内田氏の主張に反して、今おこなわれているのは「子ども手当」である。
 そもそも内田氏や上野氏が所属する大学の文学部というのも《経済の「右肩上がり」を前提》としたものなのではないだろうか? 内田氏は多くの文学部が語学教育とかIT技術とかの実用の学に走っていることを批判し、無用の用、実用でない学問こそが「他者との共生」のスキルを結果として提供することになるのだというようなことを主張している。しかし、そこは「お金があり、社会的地位があり、潤沢な文化資本のある人」の子女しか参加できないような場所なのではないだろうか? これは別に内田氏を批判しているのではなくて、文明というのは余剰や余裕の産物なのであるから、もしもこれからの世界が、食べていくだけで一杯、生きていくだけがやっとという時代にむかって「右肩下がり」に落ちていくのであれば、知識人などというひとたちの居場所はどんどんと少なくなっていくことは避けられないのではないかということである。
 象牙の塔というのは生きるのが下手なひと、人との交わりが苦手なひと、総じて大人になれないひとでも生きていける「絶滅危機種」を保護するための施設というような色彩もいろ濃くもった場所であろうと思う。フェミニズムというのも観念論に門構えとしんにゅうをつけたようなものであるし、レヴィナスの説というのも(読んだことはないが)難解であることで有名であるらしい。そういう地に足がつかずほとんどのひとにはちんぷんかんぷんであるような学であっても、そのうちのほんのいくつかは将来芽をだし花をさかせることもあるかもしれない(大部分は根も生やさず枯れてしまうとしても)、そういう無駄を前提としたシステムが学問というものであり、なかでも人文学とりわけ文学部なのだと思う。そういうものは経済の「右肩上がり」を前提にできなくなるこれからの日本でどのようになっていくのだろう。「事業仕分け」などにかけられてしまえば、ほとんどは廃止と決定されてしまうのだろうか?
 

おひとりさまの老後

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「おじさん」的思考

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村上龍文学的エッセイ集

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宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

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吉田健一集成〈2〉批評(2)

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