橘玲「(日本人)」(7)

 
 第3部は「ユートピア」と題されていて、「「大いなる停滞」の時代」「ハシズムネオリベ」「電脳空間の評判経済」「自由のユートピアへ」の4章からなる。「ハシムズとネオリベ」の章は本書としては例外的に原理論ではなく、現実政治を論じている部分で、本書の文庫版で「追記」という部分が挿入されているように、2012年5月にかかれた単行本内容を2014年6月の文庫版の時点ですでに「補足」(弁解?)しなければいけなくなっている。この「(日本人)」の面白さは原理論の部分にあるのだと思う。
 「大震災の後で人生を語るということ」という本のなかで、橘氏は「自分の書いて来たことが「絵空事」であったこと、しかしそうであるなら、自分の行き方としては「絵空事」を徹底してつきつめる方向しかないと思った」といったことを書いている。
 橘氏が甚大な敬意を献げているノージックの「アナーキー・国家・ユートピア」は絵空事の典型のような本である。それは一種の思考実験の提示のようなもので、ある前提からどこまで論理を展開していけるかを示したものとなっており、頭の産物である。
 そういったものを読むのは本を読む人間のなかでもさらにそのマイナーな一部に過ぎないわけで、知識人の世界のコップのなかにささやかな嵐を提供することはあっても、世界には爪痕一つたてない。それは何人かの個人を変えることはあるかもしれないが、世界はそのままである。
 啓蒙主義フランス革命とどのような関係になるのかは今一つ判然としないとしても、マルクスという人間が書いたものが世界を変えたことは間違いない。あるいは現在まで残っている宗教の開祖は世界を変えた(一番世界を変えたのはユダヤ教かもしれないが、それの開祖ははっきりとしないとしても)。
 しかしこれから知識人の言葉が世界を変えることはもはやなく、知識人の仕事は事後の解釈にもっぱらなっていくではないかと思う。未来の世界がどうなるのかは誰にもわからない(そういうことにようやく知識人もきづくようになったのだろうか?)。そうではあるが、その世界のなかでで一人の人間がどのような構えで生きていくのかについては、なにがしかの情報を提供することはできる。おそらく橘氏の立ち位置もそのようなところにあるのではないかと思う。
 それで、最終章の「自由のユートピアへ」を見て、しばらく続けてきた「(日本人)」についての論を終わることとしたい。
 
 本書の基本前提は「日本人は世界でもっとも世俗的な国民である」というもので、日本人は世界の誰よりも「他人に迎合するよりも、自分らしくありたい」と思い、「自分の人生の目標は自分で決めたい」と考えているのであり、地縁も血縁も捨てて「一人一所帯」の無縁社会に生きているというものである。橘氏によれば、日本人はこれを当たり前のことと思っているが、実はこのことは世界の最先端に立つものかもしれないのである。
 18世紀の産業革命で、経済(市場)が爆発的に拡大したことにより、人々は身分から開放され、「自由」と「平等」が理想としてかかげられるようになった。第二次世界大戦から後、社会が豊かになると、人々の関心は〈社会〉から〈私〉へとむかっていった。1960年代に、ヒッピームーブメントやフラワーチルドレンを先駆として「ミーイズム」(@トム・ウルフ)の70年代となる。これを「後期近代」を呼ぶ。「前期近代」ではマルクス主義などの「社会を変える」思想が信じられたが、そういう“大きな物語”はもはや流行らなくなり、「〈私〉を変える」という“小さな物語”(自己啓発)が広まっていく。“大きな物語”のなかではひとびとはマス(群衆)であり、革命思想も一人ひとりの内面には関心をもたなかった。
 “小さな物語”では、政治や経済には関心が持たれなくなり、その代わりに自分の内面に目が向けられたが、やがて「自分を変えれば世界が変わる」も信じられなくなり、後には、もっと稼げる、もっともてるだけが残った。「共同体から私へ」と世界は動いた。
 〈私〉を唯一絶対の価値とする「後期近代」は、宗教や階級、中間共同体を破壊し社会を「液状化」させる。貧困も階級の問題から個人史の問題へと見方が変わっていく。
 伝統的な共同体が解体できたのは、近代が福祉国家を提供したからでもあった。共同体の安全保証を捨てて国家に頼るわけであるが、同事に、それはリスクを自分だけで背負うことでもある。
 前期近代では、伝統的共同体から解放された個人は、学校や会社、軍隊などの「近代組織」に組み込まれ、そこでの道徳や秩序にしたがったが、後期近代の消費社会では、そうした共同体の道徳も否定され、「自分らしら」だけが唯一の価値となる。
 橘氏は「後期近代」はポストモダンではなく、純化した近代なのだという。「現代の病理」といわれるものは近代の必然的な帰結なのであって、近代の枠組みのなかではそれを“解決”するこはできないと楠氏はいう。
 「私らしく」を唯一の基準とする行き方は非常に不安定である。神経症や軽うつ症などの激増もその産物である。フーコーが「監獄の誕生」で述べたことが現実となってきている。
 日本では血縁・地縁のしがらみが嫌われるので、安心をもたらす共同体は、たまたま一緒になったひとたちでつくられる。学校、軍隊、会社などである。
 橘氏は「退出不能で閉鎖的なイエ」を「伽藍」と呼び、「いつでも退出可能な開放的な空間」を「バザール」と呼ぶ。
 橘氏によれば、日本が「伽藍」の世界になってしまうのは、「日本人が一人で生きていく術を知らないから」であり、「日本の社会が一人で生きていける場所ではない」からである。日本には、圧倒的な〈他者〉いないので、そこにはグローバル空間はない。
 「社会そのものは変われなくなくても、伽藍を抜け出しバザールに向かうことは、個人としてはじゅうぶん可能だ」というのが橘氏の提言である。個人としてはに傍点がふられている。
 ここでノージックが紹介される。ノージックは決して「共同体」を否定したのではなく、「いかにしたら個人の自由と共同体の掟が共存できるか」を考えたのだという。ノージックによれば国家は共同体としては大きすぎる。それに代わる退出自由な共同体をつくることさえできれれば、〈私〉の不安からも、〈共同体〉からの桎梏からも解放される。
 そして、世界で一番世俗的であるかもしれない日本人は、このノージックの描いたユートピアに一番近いところにいるのだというのが橘氏の結論となる。
 
 最近、ほとんど偶然に「宮台教授の就活原論」という本を読んで、橘氏とほとんど現状認識については一致しながら、「地縁も血縁も捨てて「一人一所帯」の無縁社会に生きている」ということについてどう見るのかについて、まったく正反対の見解を宮台氏が示していることに驚いた。楠氏によれば、いずれ世界はその方向にいくしかないので、世界の未来図が日本で真っ先に実現してくる、日本はそのモデルになるといったことになるのだが、宮台氏は日本以外の国は共同体を失うことの恐ろしさを身にしみて知っているから、共同体を壊さないように真面目に考えているので、個人主義の風潮の中にも何とか共同体が生き残っているが、日本人は嬉々として共同体を破壊してきている、「無縁社会」の孤独の恐ろしさの地獄に世界で真っ先に到達するのが日本である。もう遅いかもしれないが、共同体のこれ以上の崩壊を防ぎ、共同体の立て直しに挺身しなければいけないといったことを述べている。
 そして宮台氏がいう共同体は、もちろん楠のいうような「出入り自由な共同体」といったものではなく、氏の用語では「ホームベース」とされるのだが、それは家庭であり、地縁なのである。「就活原論」を読むかぎり、宮台氏は結婚して子供ができて宗旨を変えたような気がしないでもないが(何となく「風と共に去りぬ」のレット・バトラーを想起させる)、その地域社会参加が祭りで神輿をかつぐというようなことなのだから、わたくしとしてはついていけない感じである。
 宮台氏は上野千鶴子氏の『おひとりさまの老後』を論じて、上野氏世代(つまり団塊の世代)以上の人間と、自分たちでは課題が違うのだと感じたと言っている。上野世代以上では「絆コスト」が高すぎたので、それをご破算にして自己決定的に生きることが課題になったので「おひとりさま」はポジティブな生き方であったが、労働市場が流動的になり、仕事の場が感情的安定を提供する場でなくなってきている現状では、あえて自由の一部を断念して一定程度の自己拘束を受け入れることが課題になってきているとする。
 わたくしは上野氏の見解は相当虫がいいものと思うけれども(経済学の原則が「いいとこ取りはできない」というものであるとすると、それに反しているように思う。自分中心に生きてきたら、それは「孤独」とワンセットであって、老後になったら「ゆるい共同体」をつくってそれを緩和しようというのは甘いように思える)、それでも宮台氏の論よりも上野の論のほうが近しく感じる。
 柴田博氏の「中高年健康常識を疑う」に、「孤独死する高齢者は英雄である」という章がある。そこで柴田氏はいう、「経済的に自立し、手段的にも情緒的にも自立している高齢者しか、一人暮らしはできない。」 「「ピンピンコロリ」に憧れている高齢者が、一人暮らし老人の死を恐れるのはきわめて矛盾した心情というべきである。」 ここでいう情緒的自立というのが鍵なのであろう。宮台氏は、それを肯定しないのだと思う。
 吉田健一の「文学の楽しみ」(以下、講談社文芸文庫の現代仮名遣いによる)の最終章は「孤独」と題されていて、以下のような文がある。「(孤独は)一人でいること、そして又、一人であることで、・・・皆で集まって陽気に騒ぐということの反対であって、そうして騒ぐこと、又騒がなくてもいつも大勢のものと一緒にいることの最も大きな魅力は真面目にならないでいられることにある。それが苦痛にならないのも不思議であるが、自分一人でいる時、あるいは大勢のものの中にいても一人になる時に自分をごまかすことは我々に出来なくて、その自分をごまかせるのは他人の助けを借りてであり、隣にいるものに注意を向ければ自分との対話を免れて、その際に隣に誰もいないことが今日の日本で行われている孤独ということの意味になる。」 わたくしには健一さんの毒がまわっているようで、どうも孤独を否定的にみる見方に違和を感じてしまう。
 また橋本治さんは「宗教なんかこわくない!」で「自分の頭でものを考えるということは、とんでもなく大変で、悠長で、効率の悪いことである」といっている。それに耐えられないひとが宗教に走るのだと。この宗教に共同体を代置したらどうなるのだろうか?
 また中島梓氏は「コミュニケ―ション不全症候群」でいう。「私が一番恐いのはマトモな人です。私が一番キライなのは偉い人です。私が何より苦手なのは立派な主婦のかたと自信たっぷりなおっさんです。」 「立派な主婦のかたと自身たっぷりなおっさん」がキライであれば地域社会は地獄である。わたくしもまた、そういうところから逃げたいと思う人間である。
 宮台氏のこの本はまた別の機会に論じることがあるかもしれないが、「就活原論」を読んだ限りでは(座談会などでの発言は読んだことがあるが、本になったものを読んだのははじめて)、氏のことをもっと斜に構えたひとかと思っていたので、氏がきわめてストレートなひとであるのに驚いた。氏はどう考えても「強い個人」で(楠氏よりずっと自己主張が強い)、「就活原論」のなかでも延々と自分のことを語っている。ほとんど俺を見習えである。そういう人が地縁のなかでうまくやっていけるのだろうか、他人ごとながら心配である。
 それで楠氏の本に戻ると、氏は近代前期と近代後期を「ヒッピームーブメントやフラワーチルドレン」といった辺りに区分点を置いているが、わたくしなどは1968年というのが何となくその区分点であるような気がしてしまう。それは自分がその時期を生身で経験したということによる過大評価であるかもしれないが、1968年の運動というのは政治的なものと自分へのこだわりを強引に結びつけたもの(大きな物語と小さな物語を一体にしようとしたもの)であったが、それが終焉することで政治的なもの(大きな物語)が前景から消え、私的なもの(小さな物語)だけが残っていったということがあるように感じるからである。
 1968年にあったのは何か一時的に形成された祝祭的な共同空間のようなもので、その世代は社会人になった後も、会社を生きがいをあたえる共同体にしていったのかもしれない。「ヒッピームーブメントやフラワーチルドレン」といったものはサブカルチャーであって、決して社会のメインストリートにあるものではない。「ミーイズム」が社会の大きな潮流になってきたのは、もう少し後であるような気がする。
 「大震災の後で・・・」の中に、日本航空の1986年と2010の入社式の写真が紹介されている。1968年のものは色とりどりで服装もまったくばらばらであるが、2010年のものは、全員、見事なくらい、黒のスーツに白いシャツで、靴や髪型までほとんど同じである。これは誰に強制されたわけではなく、自発的にそうしているのである。まさにフーコーの「監獄の誕生」の実例である。「ミーイズム」どころではない。しかし、そういう若者が入社してくると仕事を通じての自己実現を目指すのである。
 おそらく、橘氏がここで述べていることは、ごく一部の強い個人にだけ通用するものなのではないかと思う。氏の見るところ、日本の将来は絶望的で、それにもかかわらず安穏と毎日を送っている危機意識のないひとが大部分である。そのひとたちはもう仕方がない。せめて本を読むだけの知的能力をもった人たちの一部だけでも、何とか逃げて生き延びてほしい、それが本書の根底にあるメッセージなのではないかと思う。
 日本はまだなんとかなると思うひとは、日本の再建の方向をさぐり、もうどうにもならないと思うひとはグローバルに逃げ道をさがすのかもしれない。
 

(日本人)

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大震災の後で人生について語るということ

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アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界

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監獄の誕生 ― 監視と処罰

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おひとりさまの老後

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中高年健康常識を疑う (講談社選書メチエ)

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文学の楽しみ (講談社文芸文庫)

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宗教なんかこわくない!

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コミュニケーション不全症候群

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