橘玲「(日本人)」(3)

 
 第2章「日本人というというオリエンタリズム
 「日本人」論というはオリエンタリズムであるという話。
 オリエンタリズムとは、欧米の学会における東洋研究(サイードの場合は中東)のことである、と橘氏はする。それは客観的・科学的であると西洋の学者たちはしていたのだが、サイード以来、その東洋人像は西洋人が作り出した幻想であって、西洋人が白人種は優秀であるとしたいためにつくった「人種的に劣った東洋人」という像か、「文明に毒された西洋人」を批判するためにつくった“文明化以前”の「純粋な東洋人」という像であって、実際に日々生きている東洋の人々とは関わりのないものであるとされるようになっている。そして、東洋に住む人々が、西洋の学者のつくったオリエンタリズムがえがく東洋像を輸入して、それによって自己の像を形成するようになっているというサイードの批判も紹介する。
 さて、日本の場合。
 新渡戸稲造は「武士道」をアメリカにいて英語で書いている。新渡戸は7歳で明治維新をむかえており、武士の生活についてはほどんど何もしらなかった。アメリカ人を妻としたキリスト教徒の新渡戸はほとんど日系アメリカ人であるが、これを読んだアメリカの知識人は、欧米ではもう失われてしまった騎士道精神が日本には武士道として残っていると思った。新渡戸の目的は欧米人に、日本にもキリスト教を受け入れるだけの「文化」があることを示すことだった。
 「菊と刀」のルース・ベネディクトは、日本についてはほとんど何もしらないひとで、書物や映画などを参照して、それを書いた。占領政策遂行の資料目的でかかれていてよくできた著作だが、日本人とアメリカ人の違いに焦点をあてていて、オリエンタリズムそのものの本である。しかし、自分たちと西洋人のどこが違っているかを知りたがっていた日本人に広く読まれた。その後、「「甘え」の構造」や「タテ社会の人間関係」などがベストセラーになるがいずれも、「日本の特殊性」を論じるものであった。
 
 さて、日本人論はオリエンタリズムなのだろうか? ベネディクトや新渡戸は外国人ないしは半外国人なのかもしれないが、多くの日本人論は日本人が書いている。それがベネディクトや新渡戸のものを踏襲しているというのであれば、そういってもいいのであろうが、必ずしもそうであるようにはみえない。橘氏が書いているように、「明治人も私たちも同じように、「なにか得体の知れないものに侵されている」という不安を感じている」ということがあって、藤原正彦氏の「国家の品格」などもまさにその不安の表明であったのではないだろうか?
 ブルマ&マルガリートの「反西洋思想」で「オクシデンタリズム」ということがいわれている。「オクシデンタリズム」とは著者らによれば「(西洋を敵とするひとによって描かれる)非人間的な西洋像」のことで、「もともとはヨーロッパのなかで生まれ、その後非西洋世界へと移動していった」ものである。ヨーロッパの中にもヨーロッパを敵視しるひはたくさんいるわけである。ちょうどそれは、フランスからタヒチに輸出された色彩豊かな布地のようなものであり、これをゴーギャンは「熱帯のエキゾチズムの典型」としたが、もともと西洋の産物なのである、とブルマらはいう。ゴーギャンは間違いなく「オクシデンタリスト」の一人である。
 オクシデンタリストの標的にされるのは「機械文明」であるとか「アメリカニズム」といったものであることが多い。「グローバリズム」もその一つである。アメリカは「魂のない機械化された社会」なのである。
 オリエンタリズムオクシデンタリズムは通底しているとブルマらはいう。「なにか得体の知れないものに侵されている」という不安はオクシデンタリズムの根にあるものであろう。西欧化ということ自体「魂のない社会」へむかうように感じるひとは多い。オクシデント(西洋)はなぜ脅威なのか? 物理的な快適さやつまらない個人の自由などを保障し、凡庸な人生を肯定することによって、英雄的なものや理想主義的なものを骨抜きにしてしまうからである。「反西洋思想」という本では著者らはオクシデンタリズムの根にロマン主義をみている。ロマン主義は知性や理性よりも直感に重きをおく。知性とか理性とかは「人間としてほんとうに重要なこと」については無力なのであり、この世における高邁で崇高なものは理解することができないとするのである。
 以前、確か司馬遼太郎の本だったと思うが、ある人が、今の若者の目には光がなくなった、顔つきから緊張が失われたと慨嘆したのに対し、それこそがわれわれ人類が目指してきたことなのであり、われわれがようやく飢えから解放されたということは祝賀すべきことなのであるというようなことをいっていた。しかしその司馬氏にしても、ただ飢えなくなればいいと思っているひとであったとは思えない。変な理想をもつことにより現実が見えなくなってファナティックになっているひとには、地に足がつくようになってもらわなければならない。「聖戦」などと叫ぶひとは困る。しかし司馬氏の小説の主人公たちは、みな目に光をもつものばかりであったのではないかと思う。
 小説とは西洋近代の発明であって(読んでいなくてこんなことをいうのはいけないけれど、「源氏物語」は神話であり物語であり英雄譚であって、凡人である個人を描く小説とは異なるものではないかと思う)、どんなつまらないように見える人間のなかにもドラマがあり、その生には意味があるとしたのが西洋近代なのだと思う。そのことには特に根拠はない。ないけれども、この発明あるいは発見がもった意味は非常に大きく、現在のどのような政治体制も、これには正面からは異を唱えることができない。国家は国民のためにあるので、国民が国家のためにあるのではないということである。民主主義とは結局そのことで、これは共同体と背馳する。
 現在のところ最大の共同体は国家である。戦前の日本人にとっての国家の重さ(そして家の重さ)というのはもう今のわれわれにはまったく想像もできないものであったのだろう。その重さに心底懲りたひとが、敗戦によって、できるだけ国家を軽いものにしたいと思った。その結果が現在で、国家はひたすら個人に奉仕するだけのものと想定されている。
 だが世界を見れば、国民国家の体制は世界中で依然として健在である。もともと国民国家の存在理由が戦争に強いということである。新たな世界大戦こそその後おきていないとしても、地域の紛争は絶え間なく続いている。あるいは国家内で複数の集団が争っている。かつては国家を超えるイデオロギーがあり、それが国家同士を結びつけたり、あるいは国家統合の原理となったりしていたが、それは消滅してしまった。日本は国家間の争いからは降りることを宣言しており、単一民族国家の幻想のもとに生きているので、グローバルスタンダードからはひどくずれている。
 その日本のやりかたはオリエンタリズムであるだろうか? 日本人は戦争という事態になると極度の残忍に陥る性向をもっているので、その点で他民族よりも劣っているという見方であるのならば、そうなのかもしれない。あるいは、オクシデンタリズムなのであろうか? 西欧民族は好戦的で残忍な人種であり、日本は平和的で友好な人種であるのだが、その平和な民族がたまたま戦争という事態に巻き込まれ、狂ってしまった結果が太平洋戦争でありその敗戦であるとするおならば、そうなのかもしれない。どちらにしても、日本人は特殊であるという論にいきつかざるをえない。
 武士道などは日本の何百年かの歴史の産物としての文化といいはることは可能であるが、現在の日本には、被爆国であること、敗戦の結果として世界でも特異な憲法をもつにいたったという数十年前の事実を日本のアイデンティティにしているひとが多くいる。その双方の根底にあるものは、自分たち日本人は特別である、もっといえば聖別されていると思いたい心情ではないかと思う。被爆によりわれわれは聖別された。世界のほかのどの国も経験したことのない犠牲を、世界の他でもないわれわれが受苦することにより、われわれは聖痕を持つことになった。侵略戦争とその無残な敗戦は弁護のしようのない蛮行とその当然の帰結であるが、その結果としての平和憲法をわれわれは持っている。われわれは償いようもない愚行をかつてしたが、その結果として世界に類をみない聖別された憲法を持つことになり、それにより世界を平和に導く道の先頭にたっていくこと使命として世界から付託され、それによ聖別された国民になった・・・。
 一方に武士道派があって、もう一方にはヒロシマ憲法第九条派がいる。日本も世界の中のワンノヴゼムであって、あまたあるいろいろな国の一つにすぎないという見方は少数派である。橘氏が本書で目指している『「国家」や「国民」という既成の枠組みから離れることで、世の中で起きているさまざまな出来事をシンプルに理解できるようになること』ができているひとはきわめて少ない。
 それだからこそ橘氏は本書を書いたのだろうが、もしも自分たちが特別であると思う性向が進化の過程に由来するわたくしたちの身体に組み込まれたものであるのならば、言論による説得でそれを覆していこうというのはきわめて困難な試みのはずである。
 p112で、橘氏は貨幣は単なる紙切れ(現在ではコンピュータサーバー内のデータ)にすぎないが、集団の全員が信じることで実体化するとしている。それと同じで、「神」や「悪魔」といった超越的な存在はかつては集団の多くが信じていたので世界に実在するものであったといっている。その先の論がよくわからないのだが、このような超越的な存在がヒトの生存や繁殖に有利に働いた可能性はないので、偶然の脳の配線の変化から生まれた“おまけ”にすぎないが、それが集団の絆を強めて人間を支配することになった、と氏はいっている。しかし集団の絆を強めることはヒトの生き残りに有利に働いたのではないだろうか? 脳の配線に偶然の変化を起こすものは突然変異で、その変異の結果が生存に有利であれば保存され広まっていくというのは進化の過程そのもので、“おまけ”とはいえなのではないだろうか?
 現在の正統的な遺伝学では、進化は“個”におきるので、“種”におきるのではないとされているようである。したがって淘汰圧が種にかかるとしていろいろなことを説明したローレンツの論の多くは間違いということになるらしい。“個”といっても完全な“個”ではなく“血縁”であってもいいことがあるというのが「血縁淘汰」説で、遺伝子は利己的であっても“個体”は利他的でありうるということを世に啓蒙したのがドーキンスの「利己的な遺伝子」であったのだと思う。
 わたくしがよく理解できていないのが、社会的動物、社会をいとなむ動物において、集団には有利だが個体には不利な性向というのが進化の過程でどうなっていくのかということである。現代の生物学は高等数学の世界になっているらしく、わたくしのような数学音痴にはもはや理解不能の世界になっているようで、こういうあたりの問題の理解にも数学が必須らしい。親が子のため犠牲になることは進化論的に肯定しうる行動らしい。しかしラスコーブドリのような行動は進化論的には肯定されえないのだろうと思う。
 進化の過程は“個”に働くものであって、“集団”に働くものではないのだろうが、日本の明治期に非常に大きな影響をあたえたといわれるスペンサーの思想は進化という考えを基礎にしている。適者生存、弱肉強食・・。生き残ったものが適者である。その当時の世界で生き残りに成功したように見えていたのが西欧世界である。そうであるなら、西欧が適者なのである。
 西欧という競争社会から脱落して敗者となったラフカディオ・ハーンは西欧世界の外に競争原理とは別の原理でいきている桃源郷をもとめ、ついに日本にそれを発見したように思った。その日本が“美しい日本”を捨てて、“弱肉強食”の競争原理の世界に参入していこうとしているのをみて嘆いた。しかしその当時の世界はまさに“弱肉強食”の世界であったのである、富国強兵こそがそこでの生き残りのための必須で唯一の方策であると思われていた。
 わたくしには現代のおけるドーキンスとS・J・グールドの対立などにもそれは尾をひいているように思える。進化論は学としてどのようなものであるのか(ドーキンス)対、進化論は社会に存在する悪を正当化するためにも容易に利用しうる劇薬の要素ももちうるので細心の注意をもって扱わなければならない(S・J・グールド)の対立である。もっといえば、「世界はどのようであるか」対「世界はどのようであるべきか」である。
 橘氏は明らかに「世界はこのようなものである」ということをいっている。しかし「そんな世界はいやだ! こういう世界にしたい!」ということを主張するひとがいる。かつてはその代表がマルクス主義であった。
 1991年のソ連崩壊はわたくしにとって非常な衝撃であった。1989年のベルリンの壁崩壊も衝撃であったが、まさかあのような軍事大国があっけなく崩壊するとは、わたくしは夢想だにしていなかった。いくらでも強圧的な対応をとることは可能なはずで、軍部や秘密警察が表にでてきて国家を維持していくことができないはずはないと思っていた。自分の目の黒いうちに東側がなくなるなどということはわたくしの考えもしていところだったし、多くのひともまたそうであったのではないだろうかと思う。小室直樹氏やエマニュエル・トッドのような大碩学ならいざしらず、わたくしなどはソ連ゴルバチョフのような人がでてきたのさえ不思議で、これがこければ今度は軍事独裁の方向にいくのだろうなどと思っていた。
 極度の弱虫で拷問などを示唆されただけですぐに言います言います全部しゃべります、やりますやります何でもやります、と絶対いうに違いない意気地なしのわたしくとしては、「ショスタコーヴィッチの証言」を読んでも、やだなやだな怖いな怖いなと感じ、一度こういう警察国家ができたら、そう簡単に崩れるわけがないよねと思いこんでいた。
 芸術というのは「個」のためのものであるはずだが(といえるかどうかは本当は非常な議論があるところであるとしても)、それが社会主義社会建設に奉仕するためのものとなっているというのはいくらなんでも変で野蛮な話だと思ってはいたが、軍隊という野蛮は芸術をいう文明を簡単に蹴ちらす力を持っていると信じていたので、ソ連・東欧圏の崩壊をただ呆然とみていた。
 しかし、それがおきてしまえば、それは事実となって、すぐにみなそうなるのが当然と思ってしまったように見えた。いつからか知らないうちに、覇権をきめるものが軍事力から経済力へと移行していたのかもしれない。しかしそれならベトナム戦争でのアメリカの敗北というのは何だったのだろう? そもそもマルクス主義というのは経済理論の上に立つもので、経済の営為が高度になっていくと、その生産力の向上が必然的不可避的に共産主義社会を作っていくというものではなかったのだろうか? 東大の経済学講座の教授のほとんどはわたくしの大学入学当時にはマルクス主義経済学を講じていたはずである。
 今の世界はたしかにこのようになっている。そして橘氏は世界は落ち着くところに落ち着いたので、大きな枠組みとしては今の形以外にはありえないとしているようである。しかし複雑系である世界は、ほんのわずかな初期条件の違いによって決定的に違った世界になってしまうこともあるのではないかと思う。
 今の日本だって、東日本大震災がなければおそらく安倍首相ではない可能性が高いのではないだろうか? プーチン大統領がでてきた時も、秘密警察出身か?、変なのがでてきたな、いつまで持つか?、という感じではなかっただろうか。ゴルバチョフのあとにエリツィンというひとが大統領になったが、何をしたのだっただろうか? 大変な酒飲みであったことは確かなようだが・・。
 そしてソ連崩壊前後のロシアはとんでもなく混乱した社会となっていたはずで、みな酒浸りになってしまったらしい。そのため、そのころのロシアの男の平均寿命は60歳くらいまで後退したはずで、まだ現在でもそれほどは回復していないはずである。
 いくら歴史の必然であろうと、その当時に生きたひとにとっては、そのような混乱はひたすら災難であったはずで、ソ連のままでいてくれたほうがどれだけよかったかというひとは多かったはずである。
 現在の中国がいくら強圧的であるといっても、そこに生きる人からすると、民主化の要求によって体制が崩壊し、大きな混乱がおきるよりかは、まだ今のほうが増しと思っているひとも多いかもしれない。
 これからも世界はどんどんと平坦化していくのであろうし、英雄的なものや理想主義的なものは滑稽でありドンキホーテ的時代錯誤とされていくのであろう。
 わたくしはクラシック音楽というのが、過去のものとなり無形文化財的なものになっていくのかということに大きな関心がある。クラシック音楽はバッハからハイドン、モツアルトの路線の上にいっていたならば、もうとっくに無形文化財になっていただろうと思う。ベートーベンとその弟子たちがいたことで、クラシック音楽というのはしばらくは生き延びることができたのだろうと思う。ベートーベンがロマン主義であるかというと大問題かもしれないが、だがロマン主義に道を拓いたことは確かで、「個人」が「世界」と拮抗する図式がそこにできた。ベートーベンはナポレオンと同時代人であったが、それ以降、国家は大きく、個人は小さくなる一方で、ショスタコーヴィッチの時代にもなると、もう国家の大きさは圧倒的である。だが、ショスタコーヴィッチは国家から相手にしてもらえた。しかし、現在の西欧国家では、作曲家など誰も相手にしない。シュニトケとかペルトとか孤独である。
 ロマン主義的心情というのが進化論的に説明できるのかは大変に難しい問題である。なによりもロマン主義自体が、反=進化論的である。ロマン主義を“死にたい気持ち”などといったら顰蹙を買うであろうことはわかっているが、それは何か自分を超える、自分に安住しない精神の表現であって、自分が生き残るという進化のαでありΩでもあるものと対立するのは明かである。
 ロマン主義というのは大変に危険なものであるのだから、それを現実の場に持ち出さず芸術という非日常の場で消費してしまうほうが安全である。だからロマン主義的な心情が生きている限りはクラシック音楽は存在意義があるのだろうと思う。しかし世界から超越的なものへの欲求がなくなってしまうならばクラシック音楽というのは亡びていくことになるのだろうと思う。
 どうも橘氏には超越的なものへの希求が乏しいように感じられる。ヒトもまた一個の動物として生きればいい。その通りである。しかし自分が自分自身の主人公であるとして生きるというのは、おそらく“西洋の発明”で、これが西洋が世界にもたらした最大の賜物なのではないかと思う。そして自分が自分の主人公であるという感覚とロマン主義というのはどこかで通じるのである。
 「反西洋思想」では、ロマン主義が反=西欧思想の根にあるものとされていた。ロマン主義が物質的なもの現実的なもの敵対し、精神的なもの天上的なものに憧れるからである。しかし、同事にロマン主義は天才といった理念とも深く結びついているように思う。そして、天才というのは著しく西欧的なものなのではないだろうか。東洋は天才ではなく名人のほうにいくように思う。ベートーベンの「運命」のような曲は西洋以外では絶対に生まれなかったもので、そのベートーベンが晩年には、著しく「個人的」「自閉的」な弦楽四重奏曲ピアノソナタの世界と、「メッセージソング」のような第九や荘厳ミサの世界の二つに分裂していったということ、それが西洋ではずっと尾を引いているように思う。ベートーベンは「自分が自分の主人公である」と確信してたであろう、まぎれもない西洋の人である。その西洋の「個」は、「私」と「公」に分裂するのである。
 

(日本人)

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反西洋思想 (新潮新書)

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攻撃―悪の自然誌

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利己的な遺伝子 <増補新装版>

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ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫)

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進化論の何が問題か―ドーキンスとグールドの論争

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