E・トッド「「ドイツ帝国」が世界を破滅させる」
文春新書 2015年5月
トッドの本で最初に読んだのは「帝国以後」だった。毎日新聞の年末の今年の3冊といった特集で養老孟司さんが紹介していたので知った。「マックス・ウェーバーの犯罪」もそうで、この毎日の読書欄と養老さんには、いろいろな本を教えてもらった。
「帝国以後」は「アメリカは張子の虎だぜ」という本であったとすれば、本書は「ドイツは怖いぜ」という本である。トッドさんはフランス人で、「帝国以後」を読んたときは、ヨーロッパ人のアメリカ嫌い、あるいはアメリカ的なものへの軽蔑というような印象をまず持ったが、本書ではフランス人のドイツ嫌いというのがまず浮かぶ感想である。何かほとんど生理的嫌悪感とでもいったものさえ感じる。本書でいえば、「ドイツが持つ組織力と経済的規律の途轍もない質の高さ」と「途轍もない政治的非合理性のポテンシャル」である。
フランスは「平等や自由の理念、世界を魅了する生活スタイルを生み出した」国で、「知的、芸術的な面での先進国」であり、フランス人は「人生というものについて、よりバランスがとれていて満足のいくビジョンを持っている」ということになる。あるいは「フランス文化の偉大さは普遍的人間という概念を提示し堅持することにある」のだが、裏返していえば、ドイツはそういったものを欠くのである。考えてみれば、ドイツとフランスはずっと対立していたのであった。
こういうあたりですぐに想起するのがヴァレリーの「方法的制覇」で、個々には無個性な人間が集団を形成すると途轍もない力を発揮してしまうことへの不気味さといったものである。ヴァレリーの頭にあったのはドイツと日本であるが、高度成長期からバブルの時代にかけても日本人は世界からはそのようなイメージでみられていたのだろうな、と思う。
もう一ついわれているのは、「ロシアは怖くないぜ」ということであって、ロシアはソ連崩壊時の混乱と混迷から立ち上がってきているが、それにもかかわらず、姿勢は防衛的であって決して攻撃的・膨張的なものではないということである。
ドイツ的とか日本的あるいはフランス的などというと、人種というものがあって、その人種が持っている先天的性質というような遺伝決定論的を想起して、進化論的見地からは無理の多い議論と感じてしまうが、トッドの論の面白いところはドイツ的とかフランス的といわれるものが、それぞれの地域が採用してきた家族の形態の反映であるとしている点で(つまり文化的なもの)、そうであるなら運命論的あるいは決定論的な議論を回避できるとともに、「優秀なる日本民族」「世界に冠たるアーリア民族」といったそれだけで引いてしまうような概念も回避できている。
ドイツ人の文化的土台には「普遍的人間」という理念はない。直系家族、すなわち「長男を跡継ぎにし、長男の家族を両親と同居させ、他の兄弟姉妹を長男の下位に位置づける家族システム」を日本とともに持っている。その点で日本とドイツは共通している。日本やドイツをふくめ先進国ではどこでもそのような家族形態はもはや消失しつつあるが、それでも、ドイツや日本には、長年の間に培ってきた権威とか不平等とか規律といった何らかのヒエラルキー的な価値が残っており、それは現代の産業社会・ポスト産業社会にまで伝えられてている、と。
しかし、日本とドイツが違うのは、日本の文化が「他人を傷つけないこと」「遠慮すること」への願望が強いのに対し、ドイツの文化はむき出しの率直さに価値を置くことにある、と。(一方、パリ盆地の家族は直系家族と正反対で、結婚適齢期に達した子供は自律的に家族ユニットを築き、遺産は男女関係なく子供全員に平等に分けあたえられる。そこから「自由」と「平等」という価値が生まれた。)
ドイツの家族形態に由来する「規律」と「上下関係」という価値がドイツを規定している。ただドイツと日本をくらべた場合、ドイツの価値はより中央集権的であり、日本は権威がより分散的で、慇懃に機能している。
ここでいわれる日本とドイツの似ているところと違っていることろがともに直系家族という形態に由来しているのかはわたくしにはよくわからない。
自分のことを考えてみる。わたくしは長男で結婚していて両親と同居している。しかし、自分に「家」という意識があるかといえば、まったくないと(自分では)感じている。明治期あるいはもう少し後の小説を読んでいると、その「家」意識、家名を絶やさないといったことへのこだわりを強く感じることが多い。しかし、自分には、代々の墓を守るという意識もないし、跡継ぎをどうこうという意識もまったくない(と思っている)。
これには戦後の民法の改定による「家」制度の解体ということがとても大きいだろうと感じる。戦前は直系家族の制度自体が法律に書き込まれていた。戦後の日本を変えたのは憲法よりも民法だったのではないだろうか? 今はほとんど使われなくなったがかって頻繁に使われた言葉に「封建的」というのがあって、ようするに家父長的な意識のすべてが「古い」のであり「封建的」なのだった。
その「反=封建的」「民主的」世界の伝道師であったのが、かつてのベストセラー作家であり今はまったく読まれることのない石坂洋二郎である。なにしろその世界では、女が男をひっぱたくのであった。男女平等! 石坂洋二郎が読まれなくなったということは、われわれの(少なくとも表面的な)意識では、また私的生活の部分では「家父長」的意識は大幅に払拭されてきているということなのであろう。
しかし、その封建の遺風は家からは消えても社会(会社)には強く受け継がれている可能性が高い。トッドのいうのはその点なのであろう。日本の会社での女性登用は遅々として進んでいない。会社という形態はそもそも過去の藩の意識を色濃く残しているのかもしれない(なにしろ「お家騒動」)。しかし家といっても、日本は純粋な血統(血筋)主義ではなく、平気で養子を取る(「主君押し込め」がある世界で、大事なのは藩の存続であり、殿様の血統の維持ではない)社会であった。こういう点はドイツはどうなっているのだろう? 首相が女性である。
さて、本書に戻ると、西洋は世界で圧倒的な支配的地位にいるにもかかわらず、不安にかられ、煩悶し、病んでいる。自信を喪失している。財政危機、所得の低迷、格差の増大、将来展望の不在、少子化・・・。未来に展望がない。
EUはロシアに対抗して生まれたものだった。そのロシアは西欧とは違い今や国家というものに自信を持ちはじめている。それに引き換え、西洋は国家などは信じられず、本気で認めているのは株価だけである!
現在、紛争がおきているのはドイツとロシアが昔から衝突してきた地域である。
1945年の勝利が遺産として残したものは、アメリカによるヨーロッパ(すなわちドイツ)の制御だった。現在はアメリカとドイツが対立しつつある。ドイツはアメリカから離れつつある。もしもロシアが崩壊するようなことがあれば、それは即ドイツのロシア支配を意味するのであり、アメリカシステムの崩壊につながる。
近年のドイツのパワーはかって共産主義だった国家の住民を資本主義の労働力とすることで形成された(共産国家は教育レベルが高かったので、質のよい労働力を提供できた)。ソ連の崩壊で、東ヨーロッパの支配がソ連からドイツに移った。ドイツ圏(ドイツに経済的に完全に依存している地域)はドイツという国自体よりもずっと広い。ロシア嫌いのポーランドやスウェーデンやバルト3国はロシアを倒すという夢を抱いてドイツと同盟している。ウクライナがロシアを離れドイツにつけば、その膨大な教育水準の高い人達がドイツの労働力となる。
イギリス人は(フランス人と異なり)ドイツ人に従う習慣を持っていない。それはヨーロッパではなく、英語圏、アメリカやカナダや旧イギリス植民地のほうを志向している。トッド自身がいう。もし、ドイツの覇権かアメリカの覇権か、どちらかを選べと言われたら、躊躇なくアメリカを選ぶ。
ヨーロッパには今なお、低賃金で産業が未発達なゾーンが存在する。これは逆にいえば発展の余地ということであり、ドイツに有利な条件である。ドイツはヨーロッパで独り勝ちしている(一部の労働者は低賃金で苦しんでいるとしても)。
われわれは今や、ポスト民主主義で、不平等な社会にいる。給与水準の低いゾーンは常に膨張運動の対象となる。
1928年にアメリカは世界の工業生産高の45%をしめていた。1945年にも同様。しかし今では18%。現代の対立はアメリカとロシアの間にではなく、アメリカとドイツの間にある。東西の紛争とは別のものがおきようとしているのである。アメリカとドイツは同じ価値を共有していない。
アメリカで経済格差が拡大し、黒人への差別が続いていることも確かである。しかし、それにもかかわらず、オバマを大統領に選らんだ国である。ドイツ一国内でみれば経済格差はアメリカよりずっと少ない。しかし、ドイツ圏でみれば、それよりもずっと大きい不平等が存在している。ギリシャ人はドイツ連邦議会で投票ができない。
ドイツの権威主義的文化はドイツが支配的地位にたつと非合理な方向に走った歴史を有している。ドイツ人は自分が強いと感じると、より弱い者に不寛容になる。弱いものの服従の拒否を不自然と感じるのである。しかし、フランスでは服従の拒否はポジティブな価値を持っている。
ドイツとアメリカの対立が表面化しないのは、ロシアがあるからである。もしもロシアが潰されるようなことがあると、それは一気に表面化するであろう。
ロシア・中国・インドがブロックを作るというもう一つの可能性もある。しかしこのブロックは日本が参加しないかぎり欧米・西欧に対抗できる力は持てないだろう。今のところ日本は、ドイツよりアメリカに忠誠的であるが。現在、日本とロシアは対立的である。しかしエネルギーや軍事の観点からは、日本とロシアの接近は合理的なのである。
それでロシアを見る。トッドは乳児死亡率の増加からソ連の崩壊を予言した人として有名であるが。しかし、プーチン支配下のロシアでまた乳児死亡率が低下してきているのだという。平均余命、自殺と殺人も低下し、出生率も上昇している。人口も増加に転じている。これはロシア社会がソ連の崩壊の後、再生に成功しつつあることを示す。西欧の多くの国より良好なのである。経済や会計は捏造できるが、人口統計はそうはいかない。
しかし、CIAもEUも早晩ロシアは消滅するだろうと思っていた。プーチンは社会民主主義的でもなく、自由主義的なところも皆無である。これからもロシアがアングロサクソン的なデモクラシーの国になることはないだろう。ロシアの家族構造と国家の構造がそうさせないのである。
しかしロシアがダイナミックの蘇生してきていることはみとめなければならない。トッドはロシアの体制を「権威主義的デモクラシー」と呼ぶ。強力で粗暴ではあるが国民から暗黙の支持をうけている。ロシアの成長率は1.4%で失業率5.5%である。ロシアは地下資源が豊富で、農業に依存しているのではあるが・・。広い国土とハイレベルの科学技術者も財産である。とにかく人口学的に見て、ロシアにいま、ヨーロッパからみてうらやましく見える健全な何かがおきてきることはみとめなくてはならない。
ロシアとベラルーシは共同体的家族構造(家長と息子たちが同じ屋根で暮らす)を共有している。ウクライナはイギリス・フランス的な核家族的構造をもつ。
西洋社会は、個人主義や自由の肯定・拡大に適した核家族構造と、その個々人の願望を実現させる強い国家の組み合わせを特徴とする。しかし、ウクライナは(ポーランドやルーマニアも)強い国家というものを経験したことがない。これら「中間ヨーロッパ」では18世紀以来、国家が機能していない。しかも不幸なことにプロシャとロシアという二つの強い国家に挟まれていた。
ロシアが再生できたのは、過去に強い国家という伝統を持っていたからである。一方、ウクライナは教育ある人間が国外に出てしまった(人口の十分の一が流出した)。これはウクライナという国の解体が進行しているということである。南ヨーロッパでの非常に低い出生率と高学歴青年層の流失と同じことがそこで遅れておきてきている。
2003年、イラクへのアメリカの介入に、仏(シラク大統領)、露(プーチン大統領)、独(シュレーダー首相)が一致して反対した。
そこにオバマが登場しアメリカの姿勢が一変した。長期的な脅威と判断されたアジアに外交基軸をうつし、イランとロシアとの緊張を緩和する方向に転じた。このときにフランス+ドイツ+ロシアというバランスのとれたヨーロッパができていた可能性もあった。しかし、なんということかEUはまさにロシアに対抗するものとして作られた。そのEUのリーダーがドイツである。ドイツのエリートは対ロシアにおいて好意と敵意の二極でふれてきた歴史を持つ(ビスマルクからウイルヘルム2世へ、独ソ不可侵条約のヒトラーによる破棄・・)。未来の歴史家はそれにシュレーダーからメルケルへを付け加えるかもしれない。
「ル・モンド」の対ロ嫌悪も錯乱している。西側はロシアの男性優位主義を批判するがロシアの大学進学率は男性より女性が多い(100対130)ことを知らない。(フランス115、アメリカ110、ドイツ83) スウェーデン(140)にはおよばないが、それに次ぐもので、ロシアでは女性の地位は高いのだ。
ロシアの指導者はウクライナにNATOの基地ができるのは困るといっているだけで、かれらの望みは安全と平和なのだ。
世界全体を見れば、父系制文化のほうが支配的であって、西洋人は少数派であること、その少数の道徳観を世界におしつけようとするのは問題であることを知らなくてはならない。それは千年戦争をはじめることであり、しかも勝ち目のない戦いである。
戦後のアメリカは日本とドイツをコントロールすることで成立してきた。今や、アメリカはドイツをコントロールできなくなりつつある。
イスラム国の出現はアメリカのパワーの後退の象徴である。中国はおそらく経済成長の瓦解と大きな危機の寸前にいる(この論は2014年6月に発表されている)。ロシアも現状維持で手いっぱい。そうするとロシアとアメリカの協調ということが世界秩序の安定の要であるはずである。もはや世界のプレーヤーはアメリカ・ロシア・ドイツだけなのだから。
西洋人は自分がわからなくなってきている。ドイツは平和主義と経済的膨張主義の間で、アメリカは帝国路線とネイション路線の間で、揺れている。フランス人はどうしていいか途方にくれている。
それなのに「プーチンのねらいは何なのか?」などと見当違いの議論をしている。もはやヨーロッパをまとめるものはロシア嫌いということだけになってしまているのかもしれない。しかし、ロシアはソ連の崩壊という苦境から立ち上がって一息ついているのだ。好戦的な妄想に駆られることなどありえない。
ヨーロッパにはもう何も期待することはできない。
1970年と今をくらべると、人々がどれほど様々な差異に寛容になったかに自分は感嘆している。大規模な暴力(つまり戦争)が容易にはおきない世界となった。もしもヨーロッパを救えるものがあれば、それはフランスなのだが、それを可能にする有能な政治家がフランスには残念だが今まったく存在していない。
政府債務とはマルクスが見通したとおり、富裕層の持つ金の安全化である。緊縮・財政再建とは、本当にしなければいけないこと、すなわちデフォルトを回避することなのである。ユーロの維持は経済界の保護、富裕層の保護なのである。ユーロの維持のために失業が増え、賃金が下がってきているのに。
ドイツは部品製造を国外に出すことで安い労働力を利用した。ドイツ国内でも10年で4%平均給与が低下している。社会文化的に賃金を抑制できない他のヨーロッパの国に対し、それによっても有利になった。
ドイツとは大きな病人であるから決して乱暴にあつかってはいけない、かえって粗暴になると考える連中が「ドイツ嫌い」の反対側にいる。要するにその連中もドイツが怖いのだ。しかしドイツはフランス人が犯した共通通貨の創出という過失のおかげで、はからずも強くなってしまったのだ。
ドイツは近隣国と一切協議することなく脱原発を選んだ。これはロシアとの戦略的合意によるのではないか?
フランスとドイツは一つではなくて二つなのだ。
世界の先進国に共通の現象として人口の1%の富裕層が銀行システムと金融活動と結びついたグループとして形成されていることがある。最富裕層が世界のどこでも政治権力を奪取してきている。市場とは国家をおもちゃにする最富裕層のことなのだ。その中で、ピケティの分析をみても、フランスは先進国の中で例外的に格差が拡大していない。フランスでの平等への希求という伝統がまだ生きているのだ。
ドゴールのころまでの国家は、まだ一般意志の実現のために動いていた。今日の国家はすでに階級国家である。自分はピケティ学派に敬意を払う。市場自体が問題なのではない。寡頭富裕層こそ問題で、寡頭支配層が国家ともつ関係こそが問題なのである。この寡頭制は貴族支配(アリストクラシー)とはまったく異なる。
寡頭支配者間にも力関係が存在する。フランスの寡頭支配層は中央官庁上層部の近くにいるが、アメリカの寡頭支配者に騙され続けている。大手格付け会社への服従はアメリカへの服従なのだから。
一方、中国の寡頭支配層は共産党と緊密に結びついている。
現在のケインズ主義は金持ちたちのケインズ主義である。それは金持ちのお金の安全を確保するシステムになってしまっている。
主権国家の債務が返済されることは絶対にない。輪転機を廻し続けるか、債務のデフォルトを宣言するか、われわれには二つの方向しかない。自分はデフォルトを選びたい。先進国は一時期困難な時期を経験するとしても、それを乗りこえられる。
自分は統治にはエリートが必要だと信じている人間である。
本書はインタヴュー集であるが、日本のインタヴュアーとちがって聞き手も結構辛辣なことを言っている。あなたは単なるドイツ嫌いなのではないですかとか、それって陰謀論ではないですかとか。
確かに陰謀論めいているなあという部分がある。陰謀論というのは世界はロスチャイルド家が支配しているとかにいきつくのであるが、それに近い感じはある。わたくしが陰謀論というのに疑問を持つのは、不確定性に充ちた未来を誰かが操作するなどということがそもそも可能なのだろうかという疑問を持つからである。本書でもトッドは、フランス人が善意で作り上げたユーロという共通通貨が結果としてドイツを現在の支配的地位にしてしまったといっている。もっともフランス人の善意につけ込んで自己の利益を計ってそれを吹き込んだ1%あるいは0.1%の富裕層という陰謀論もなりたつのであろうが。
トッド自身も、ここで述べていることが人口学者としての自分の研究からの一つの仮説であることは認めている。おそらくドイツを嫌いフランスを愛する人間として、そうなってはもらいたくないという未来が自分の研究からは可能性として見えるということを警告として述べているということなのであろう。
ここでトッドが述べていることを見ると、日本という国はまあなんと能天気な国なのだろうとつくづくと思う。国際関係や国際情勢などとはまったく無関係に生きている、生きていられると思っているようで、あらゆる可能性を考えて八方に手を打っておくとかの発想はまったくないようである。トッドによればアメリカは没落しつつある。もしそれが可能性の高い未来であるとして、それが望ましいことであるのかそうでないのか、それにどのように対応すればいいのかといった議論はほとんど聞こえてこない。
誰がいっていたのか(佐伯啓思さん?)、最近の日本の論壇の議論を見ていると日本人は特殊な人種で武器を持つと狂ってしまうと思っているとしか思えないというのがあった。トッドさんはドイツ人は支配的地位に立つと狂うと言っているように見える。日本人も兵器を持つと狂ってしまうのだろうか? 高校の時、西洋史の先生がドイツ人は独裁者が上にいるときに元気がでるのだと言っていたのが妙に記憶に残っている。天谷直弘氏は日本人は自信を持つとおかしくなり、自信がないときのほうがまともなるといっていた。そういう点で日本人とドイツ人はやはり似ているのだろうか?
それにしても国家の赤字は返せるはずはないのだからデフォルトせよというのは凄い議論である。日本の戦前の体制は敗戦(無条件降伏)ということがなければ、改変は絶対に不可能であったのではないかと思う。そこから何とか生き延びることができたように、一時は大きな混乱は必至だとしても何とかなるだろうということらしい。日本の敗戦によって軍部が一掃されたように、デフォルトで1%層が一掃される、そうでなければ世界は救われないということのようだが・・。
今のフォルクワーゲンの事例を見ても、一つの会社の経営者の判断が国家の運営に影響することさえあるらしい。確かに資本の力が途轍もなく大きくなっている。
ドイツというとわたくしがすぐに想起してしまうのがバッハとかモツアルトとかベートーベンとかブラームスとかの名前である。どうして音楽上のビッグネームはドイツの方からたくさんでてきたのだろうか? あるいはカント。音楽と哲学の分野がないとドイツの印象は随分と変わってしまうのではないだろうか。そしてドイツというと都会のイメージがない。一方、フランスは都会のイメージなのである。ウィーンというのもドイツとは別のものと感じてしまう。どうしてだろう。
ドイツは野暮、フランスは粋、まったくのステロタイプの論であるが、トッドさんは粋を愛し、野暮を嫌う人なのだろうか?
わたくしのヨーロッパのイメージは吉田健一由来であるが、いま氏の「ヨオロツパの人間」をみてみたら、個人として章だてされているのは、エリザベス一世、ホレス・ワルポオル、ヴォルテエル、ランボウ、ヴァレリイである。あとは「フランス革命」が章立てされている。美事にイギリス人とフランス人ばかりで、ドイツ人はいない。健一さんがドイツ語はあまり得意でなかったということもあるのかもしれないが、健一さんのは文明論なのであって、ヨーロッパの文明はイギリスとフランスにあるということなのかもしれない。バッハがいてもモツアルトがいてもベートーベンがいてもカントがいても、それでドイツが文明化したわけではないのである。健一さんに出て来るドイツ文学者はゲーテだけのような気がする。バッハもベートーベンもカントも大したものを食べていなかったのではないかと感じる。おいしいものを食べないのは野蛮とまではいえないかもしれないが、文明であれば、美食とも繋がるように思う。
それにしても今回のフォルクスワーゲンの事件は、ユーロの行方とかEUの行方にも影響をあたえるのだろうか? 天変地異だけでなくいろいろなものが歴史を変える。誰がいっていたのか忘れたが、子どもが男になるか女になるか確率はほぼ二分の一である。もしもヒットラーが女だったら歴史はどうなっていたかというのがあった。少しのことで歴史は変わってしまう。
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