広岡裕児「EU騒乱」(4)

 
 第3章「「共同体」の選択」
 この章ではEUの成立過程を論じる。そしてそれが一部知識人と政治家の夢から発して次第に現実のものとなっていく姿が示される。
 スタートはフランスのロベール・シューマン外相。1950年5月に外務省の広間での記者会見でのちにシューマン・プランと呼ばれるようになるものを発表した。欧州の統一は一気にできるものではなく、連帯の事実という実績を積み重ねていくことが大事であるとし、まずフランスとドイツの積年の敵対関係の除去が必要であるとした。その手始めとしてフランスとドイツの石炭と鉄鋼のすべてを他の欧州諸国にも開かれた組織の管理下におくことを提案した。この会見がおこなわれた5月9日は現在「欧州の日」とされている。
 欧州統合のアイディアは第二次大戦前のクーデンホフ=カレルギー伯爵の汎欧州運動などがあった。これは第一次世界大戦でショックを受けた欧州の反応としておきてきた。この運動にはアインシュタイン、トマス・マン、ピカソなどの文化人も参加していたが、このシューマンも、また後の西ドイツの首相(当時ケルン市長)となるアデナウアーも参加していた。しかし、ヒトラーのライン侵攻などによって、この動きは消えていった。
 第二次世界大戦後、ふたたび欧州一体化の動きがでてきた。1946年チャーチルは「欧州ファミリー再興の第一歩はフランスとドイツのパートナーシップの形成である」と述べ、欧州合衆国の建設を呼び掛けた。
 1948年、チャーチルを議長とした会議が開かれ、アデナウアー、マクミラン(後の英国首相)、ミッテラン(後のフランス大統領)も参加した。翌年には欧州評議会が設立された。これはEUとは別の組織として現在でも続いている。当初はベルギー、デンマーク、フランス、アイルランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、英国、スエーデンが参加し、現在ではロシアをふくむ全ヨーロッパとトルコが参加している。その欧州人権裁判所は、現在も人権問題の上級審として大きな影響力を持っている。
 しかし第二次世界大戦の終わりは東西冷戦のはじまりでもあり、「欧州合衆国」のプランは、その影響をつよく受けることになった。東側のブロック化に対する西側のブロック化の動きという側面を強くもってきたのである。1949年にはNATOができている。
 こういう動きのなかでシャーマン・プランが発表された。このプランは極秘のうちに準備されたもので、ジャン・モネが経済部分、哲学的理念的部分はシューマンが担当した。モネが経済人で現実主義者、物質主義者であったのに対して、シューマンは敬虔なカトリック信者だった。シャーマン・プランは欧州統合の主導権をイギリスから奪うものであったとともに、アメリカの戦略をもくじくものであった。
 1951年、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。この時、西ドイツ首相のアデナウアーはシューマンに深甚な敬意を表明している。アデナウアーもまた敬虔なカトリック信者だった。しかし、シューマンもアデナウアーも政教分離の原則は尊重した。広岡氏はカトリックプロテスタントはまったく別の宗教と思ったほうがいいという。
 このECSCが発展して1958年にEEC(欧州経済共同体)ができた。この過程では、フランスのドゴールと西ドイツのアデナウアーの間に生じた信頼関係が大きな力となった。1963年仏独協力条約(エリゼ条約)が締結された。
 しかし一方では東西対立が続いていた。1950年朝鮮戦争、1956年ハンガリー動乱、一方で1956年のフルシチョフによるスターリン批判などもあり、1968年プラハの春
 アメリカでもベトナム戦争反対運動、黒人の公民権運動がおき、パリでは五月革命がおきた(1968年)。当時のフランスではソ連軍のプラハ侵入で共産党は信頼を失っていた。
 そういうなかで、米ソ対立という二極のなかから、ヒッピー、ロック、フークソング、サブカルチャー新宗教といった第三の動きが台頭してきた。
 1980年、経験なカトリック信者であるワレサが率いる連帯の動きがポーランドでおきた。
 1982年、ブレジネフ死去。1985年ゴルバチョフが大統領に。1989年ベルリンの影崩壊。1991年ソ連が消滅。
 こういう東欧の変化を、もともと農業中心の低開発地域に社会主義による工業化で中産階級が生まれたことによるプロレタリア独裁に対するブルジョア革命として説明するものもいる。
 冷戦下の欧州統一の動きをまとめると、1967年ECができたが単一市場設立はすすまなかった。しかしアメリカを嫌い、アメリカに通じるものとしての英国のEC加盟を拒否していたドゴールの死により、1973年の英国、アイルランドデンマークの加盟、81年にギリシャ、86年にはスペイン、ポルトガルも加盟した。
 1991年ソ連消滅の直前、オランダの南端マーストリヒトでの首脳会談でマーストリヒト条約が締結された。これはのちのユーロのもとになる共通通貨の創設が有名であるが、他にも労働や厚生保険などについての共同化の幅も広がっている。この条約自体は多くの国で歓迎されたが、共通通貨にかんしては独自通貨の発行という国家の基本的な権利を共同体に移譲することには多くの反対がでた。デンマークでは49.3対50.7の僅差で否決され、フランスでも可決はされたが、51.04対48.96の僅差であった。
 1999年から、ユーロが使われるようになったが(デンマークと英国は除外)、モノやヒトの移動の自由化も英国の反対で実現せず、あらためてシュンゲン協定が結ばれた。
 ユーロを使用するためには財政赤字をGDP比3%以下、債務残高をGDP比60%以下とすることなどが必要で、多くの国が緊縮を強いられた。イタリアは60%以下は実現できなかったが、他をクリアしたため特別に参加をみとめられた。ギリシャはすべての点で条件をみたせず、参加が見送られた。
 共通通貨の次は政治統合が次の目標となり、欧州憲法が次に追及されることになったが、スペインでは可決されたものの、フランスでは否定され、オランダでも否決されるなどして、欧州憲法は葬られることになってしまった。なぜそうなったのかが次の章で検討される。
 
 ここで広岡氏が示している欧州統合への動きについては、わたくしはほとんど知るところがなかった。わたくしの関心があきらかに米ソ対立といった方向に向いていたためであると思われる。
 わたくしは1947年生まれであるので、朝鮮戦争のことはリアルタイムでの記憶はなく、政治的な動向についての記憶は中学初年度の60年安保が最初のものである。これは明らかに左右の対立で、高校時代はベトナム戦争の時代であり、大学に入れば学生運動全盛期であったのだから、共産国家、共産主義といいうのが現実的な力を持っており、世界というのを米ソ対立、資本主義対共産主義という視点から見ていたと思うので、ヨーロッパで目につくものといえば、パリ五月革命とか、それに関連した?フランスのポストモダン思想といった一種の反体制運動の動きがほとんどであった。ここでいわれている「ヒッピー、ロック、フークソング、サブカルチャー新宗教」などというのも広い意味での反体制の思潮の中のものとしていいのだと思うが、わたくしが高校から大学にかけてはフォークソングというのが今とは格段に違う輝きを持っていたように思う。わたくしはハイカルチャーの側の人間でロックというようなのは全然駄目で、このあたりとして面白がっていたのは「ニュー・サイエンス」あるいは「ニュー・エイジ・サイエンス」といわれたようなものであった。これは反=デカルトといったものであったから反=西欧合理主義といった動きであったからここでのくくりではサブカルチャーに近いのかもしれない。
 大学のころ、吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」に決定的な影響をうけたが、これは19世紀以降のヨーロッパは駄目なヨーロッパで18世紀がヨーロッパが本当のヨーロッパというようなものであったから、同時進行しているヨーロッパでおきていることは19世紀以降のだめなヨーロッパでの空騒ぎというように見て、気にもしていなかったのかもしれない。
 本書を読んでいると、ヨーロッパにおけるカトリック思想の大きさということを感じる。ヨーロッパで地域的なものを超える何かということを追求するとカトリックという普遍につながるものが出てくるということなのだろうか? 物質的なヨーロッパではなく、精神的なヨーロッパということを考えるとヨーロッパをつくってきたカトリック思想がどうしても出てくるのであろう。吉田健一というひとは反=カトリックのひとであったと思うのだが、にもかかわらず反=物質主義(物質主義の王国がアメリカで、アメリカでの宗教など宗教でさえない物質主義の変形とみていたのではないだろうか?)でもあったわけで、そうするとソ連アメリカもともに駄目の烙印を押されて無視されてしまうことになり、ソ連の消滅で世界は少しは正気に戻ったということになるのかもしれないが、現実政治を見ていくうえでは吉田氏のヨーロッパ論が特に役に立つわけでもない。
 健一の父の吉田茂は「支邦趣味のアングロマニア」(三島由紀夫)で羽織袴と白足袋と葉巻で歴史を持たない国アメリカに対抗したわけだが、ヨーロッパというよりイギリスのひとだったと思う(氏におけるヨーロッパとはドイツであったと思う)。ヨーロッパというものの典型を英国に見るか、フランスに見るか、ドイツに見るかで、ヨーロッパ像は全然違ってくるわけだが、日本は明治のはじめにプロシャに範をとったのだから、ドイツ路線で来たわけで、それに対抗するイギリス派として戦前の吉田茂はマイナーな存在だったわけである。
 インテリの世界においてもまたドイツ派が主流だったのかもしれないが、「私は良かれ悪しかれ昔気質の明治の子である。西洋に追いつき、追い越すということが、志あるわれわれ「洋学派」の気概であった。「洋服乞食」に成り下がることは、私の矜持が許さない。「黙秘」も文筆家の一つの語り方というものであろう。事アメリカに関する限り、私は頑強に黙秘戦術をとろうと思った」(「新しき幕明き」)と語る林達夫氏にとって、その西洋がアメリカでないことは明らかであるが、ドイツとかフランスとかイギリスといったことを超えた普遍的なヨーロッパ像が見えていたのだろうか?
 そして知識人の夢としてのヨーロッパ、文明のヨーロッパとしてのEUの試みに対峙するものとして出てくるのが、知識人の思想の外にいた食べて寝てただ生きることをしている人たちなのである。

EU騒乱: テロと右傾化の次に来るもの (新潮選書)

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ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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