岡田暁生「クラシック音楽とは何か」(3)

 
 最近、刊行された「世界の未来」という「朝日地球会議2017」に参加した数名の講演記録とE・トッドへのインタビューを収めた新書で、トッドがわれわれが、自分は「帝国以後」を書いたときとは、かなり違う見地にたってきているということを言っている。「欧州については、私は今すっかり絶望しています。もう何も起きなくなっています。解体していくのを見るばかりです。民主主義はすでに存在しません。私は欧州会議なんて壮大なコメディーだと思っています」という(英国だけは例外的な扱いのようであるが)。「帝国以後」はアメリカは張り子の虎だというようなことをいっていた本で、文明国フランスの知識人が野蛮国アメリカの凋落を予見して留飲を下げているような趣もあると感じたが、どうやら氏は大分立場を変えたらしい。ちょっと気になったのが、氏が近著「私たちはいったいどこにいるのか」(近々、邦訳が刊行予定らしい)でホモ・サピエンスの家族システムはまず核家族システムであったのであり、デモクラシーとはその核家族という形態を反映したシステムであるというような主張をしているらしいことである。これがが学術的な研究によって明らかになったということではないらしく、氏は「もし中国の過去をずっとさかのぼっていけば、帝国の建設だとか、封建君主同士の抗争などの歴史の前に、民主的か寡頭制的かいずれかの形での代表制があったと思います」という。「思います」であって「ありました」ではないわけである。何だか、原始共産制という言葉を思い出してしまった。トッドは乳幼児死亡率の急増という冷徹な人口統計学の数字からソ連の崩壊を予言したことで有名になった人だったと思う。「思います」などというのはちょっと困ると感じた。それとやはり氏も人文系の学者であるなあということも感じるのであり、もしもホモ・サピエンスを遡って考えるとすれば、進化から考えるしかないわけだから、そうすると狩猟採集時代の数十名程度からなるバンドのような形態がわれわれの一番の根底にある集団の形態であるというのは自明であるように思われ、核家族などという形態は狩猟採集時代を生き延びることはできないという点からもそれが原初にあったということは否定できるのではないかと感じる。
 トッドのことを論じる場ではないのに、延々とこんなことを書いているのは、わたくしのようなクラシック音楽ファンというのは、西欧コンプレックスを持つものが多いのはないかと思っているからで、ヨーロッパを否定するフランス人知識人というトッドの姿勢に意外なものを感じたからということがある。つまりわたくしは「個人」というのがヨーロッパの産物だと思っているわけであるが、トッドは「個人」≒「民主主義」の起源をもっと人間の普遍的なものである原初の核家族という形態にもとめるわけである。ポスト=モダンのモダンとは西欧近代のことといっていいと思うが、ポスト=モダンの思想もまた西欧からでてきたという点が重要なのだと思う。そして吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」もまたポスト=モダンの本であると思うのである。
 しかし、音楽のほうに話を戻さねばならない。ヨーロッパほど芸術家(音楽でいえば作曲家)が大きな顔をしているところはないだろうと思う。ヨーロッパ以外では「芸」の比重がもっとずっと大きい。
 武満徹の「ノベンバー・ステップス」で初めて尺八や琵琶の音をきいた西洋人はさぞかし吃驚したのではないかと思うが、そこにあるのは音であり響きであり、あるいは間であるかもしれないが、なによりもまず「芸」であって音楽ではないと思う。実際、バックのオーケストラは何やらもそもそとやっているが少しも印象に残らない。後の武満にくらべればまだずっと前衛音楽的である響きであるが、一本の尺八、一個に琵琶に負けてしまっている。
 

クラシック音楽とは何か

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世界の未来 ギャンブル化する民主主義、帝国化する資本 (朝日新書)

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ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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