今日入手した本

 上野千鶴子「おひとりさまの最期」

おひとりさまの最期

おひとりさまの最期

 前に上野氏の「おひとりさまの老後」を読んだときに、よく覚えていないけれども「おひとりさま」互助組合みたいなおひとりさま同士のゆるい結合体のようなものをつくって、お互いに助け合うみたいなことが書いてあって、何だかなあと思ったことがある。養老孟司さんのいう「都市主義」、「こうすればああなる」といったように、世のできごとのすべてがコントロール可能であると思っているように思えて、それはちょっと甘いのではと思ったのである。上野氏は自身のコミュニケーション能力に抜群の自信を持っているようで、そういう人脈作りは自分の得意とするところと思っているようなのである。そのお一人様連合の忘年会だか新年会だかでは「失楽園」(渡辺某氏の方)にちなんでシャトー・マルゴーだかで乾杯するとかいうふざけたことも書いてあった。お金のほうにも困っていないひとなのだろうなあとも思った。
 「おひとりさまの老後」が8年前ということで、いよいよ氏も高齢となって(といってもわたくしより一歳下の年齢なのだが)、こういう本を書くことになったらしい。まだちらっと流し読みした程度だが、随分と円くなってきているなあという印象。「生まれることと死ぬことは、自分の意思を超えてい」ると書き、「どんな死に方もあり」であるという。尊厳死協会に異議ありといい、キュブラー=ロスの死を「揶揄するつもりはありません」といいながら揶揄している。「あのキュブラー=ロスだって、死ぬときにはじたばたするんだ」と書いているが、キュブラー=ロスは晩年、完全にあっちのひとというか、オカルトの方向の人、死後の世界などというひとになっていたのではないだろうか? 「あのキュブラー=ロスだって」ではなく、あのキュブラー=ロスだからそうなったのではないだろうか?
 「看取りの現場を支える専門職の多くが、この死にゆくひとのスピリチュアル・ペインに応えければならない、と使命感を持っている」ことをふしぎに感じるといっているのは同感。そんなことにだれも応えられるはずはないので、できないことをできるような顔をするのは不遜である。
 こちらがふしきに思うのは上野氏が「死んだらどこに行くのでしょう」という問いに応えるのは宗教家の仕事と思っているように思えることである(読み違いかもしれないが・・)。そんなことに応えられるひとは誰もいないのである(あるいは、人間が動物の一種であることを思えば、答えは自明なのであるが)。とすると人間もまた動物と思えるかどうかであって、広い意味での人文学の徒である上野氏はどうもその辺りの歯切れが悪いように感じられる。
 とはいっても氏は、昔にくらべれば、「こうすればああなる」とは言えないことが多いことはみとめるようになってきているようである。
 
J・ダイアモンド「第3のチンパンジー
若い読者のための第三のチンパンジー: 人間という動物の進化と未来

若い読者のための第三のチンパンジー: 人間という動物の進化と未来

 ダイアモンドの本ならなんでも面白いと思っているので、その新刊と思いろくに中身も見ずに買ってきたのだが、家で見てみたら「人間はどこまでチンパンジーか?」の増補改訂かつ若い人向けの簡略版であるらしい。いま「人間はどこまでチンパンジーか?」とくらべてみたら章立てはほとんど同じであるようである。
 上野千鶴子さんなどは、ダイアモンドの本などはあまり読まないのだろうか?