今日入手した本
- 作者: 勢古浩爾
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2013/08/02
- メディア: 文庫
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氏は1947年生まれであるから、わたくしと同じ年回りである。偶然に本屋でみつけた本であるが、以前の本はもっと肩肘がはっていたような気がする。本書はかなり脱力が進んでいるようである。
こんなところがあった。『「もてない男はどうすればいいんだ?」「もてない男の気持ちがおまえなんかにわかるか?」なんか、生意気なのである。自分の気持ちは理解され、希望は叶えられなければならない、というのが現代日本の迷妄である。』
上野千鶴子氏の「おひとりさまの老後」にねちねち(ではないけれども)からんでいる。『友人もたくさんいて、仕事もあって、老後の資金になんの心配もない、小金持ちのおばさん』で『その上別荘まで持って』いるくせに、それが貧乏人の「ひとりもの」にも通用するような書き方をしてというわけである。
「おひとりさまの老後」については、前に相当長い感想を書いたことがある。わたくしは上野千鶴子というひとを嫌いではないのかもしれない。イヤなひとだと思うし、絶対に傍にいてほしくないひとではあるが、このひとには二面があって、社会に通用させている外皮としての「上野千鶴子」と外皮を脱いで一人書斎にいるときの「上野千鶴子」という二人がいて、後者はいいひとなのではないか思うのである。まあ、だまされているのかもしれないが、外での活動は社会的な役割として偽物の自分がしていて、一人でいるときの自分が本物という意識があるのではないかと思う。「鍵のかかる部屋」のなかの自分こそが本当にまもりたい自分であって、フェミニストとしての「上野千鶴子」は自分が選択してかぶった外皮というところがあるのではないだろうか? 「おひとりさまの老後」を読んで一番びっくりしたのは、たとえ外皮であるとしても、あれだけたくさんの敵をなぎ倒してきたのであるから、当然、野垂れ死にを覚悟しているだろうと思っていたが、かなり本気で平穏な老後を模索しているように思えたことである。フェミニズムから介護へと氏の転進?は、氏の外皮から内面への回帰を表しているのかもしれない。しかし社会的成功と内面の救済?のどっちもほしいというのは何だか虫が良すぎるような気がする。
そういうひとにからむと勢古氏はさえるのである。吉本隆明が「大衆の原像」という言葉で知識人を薙ぎ倒した手法である。