今日入手した本

 勢古氏の本は何冊か読んでいる。最初に読んだ本、何だったか?「まれに見るバカ」?で、経歴に氏が1988年第7回毎日21世紀賞受賞とあったので、へぇと思い、名前が記憶に残った。というのは、わたくしもたぶんその少し前の毎日21世紀賞に応募して、最終選考に残ったが、賞をとれなかったということがあるからである。賞をとると副賞にワープロがもらえて(たしか小錦が宣伝していたやつ)、なにしろ当時のワープロというのが高価だった(20〜30万?)ので、いくらすねかじりのドラ息子といってもすでに就業していた身としては親にたかるわけにもいかないので、それが欲しく、賞金も確か100万円?かで、選考委員の何人かは名前を知っていた人で、その著も少しは読んでいたので、こういう路線でいくと受けるかなという戦略で臨んだのだが、長い文章を書くのははじめてで(400字20枚?)、起承転結どころか、よくいえば序破急、実態は竜頭蛇尾でもなく、頭でっかち尻つぼみ、導入の次に根拠のない結論くるような駄文になり、目的達成はならなかった。しかし、これは無駄にはならなかったかもしれず、ある程度の長さの文を書くことが苦痛ではなくなり、結果として、ここでつまらない文を書き連ねることになっていることになっているのかもしれない。(ということはやはり無駄だったということかもしれないが・・)
 氏は1947年生まれであるから、わたくしと同じ年回りである。偶然に本屋でみつけた本であるが、以前の本はもっと肩肘がはっていたような気がする。本書はかなり脱力が進んでいるようである。
 こんなところがあった。『「もてない男はどうすればいいんだ?」「もてない男の気持ちがおまえなんかにわかるか?」なんか、生意気なのである。自分の気持ちは理解され、希望は叶えられなければならない、というのが現代日本の迷妄である。』
 上野千鶴子氏の「おひとりさまの老後」にねちねち(ではないけれども)からんでいる。『友人もたくさんいて、仕事もあって、老後の資金になんの心配もない、小金持ちのおばさん』で『その上別荘まで持って』いるくせに、それが貧乏人の「ひとりもの」にも通用するような書き方をしてというわけである。
 「おひとりさまの老後」については、前に相当長い感想を書いたことがある。わたくしは上野千鶴子というひとを嫌いではないのかもしれない。イヤなひとだと思うし、絶対に傍にいてほしくないひとではあるが、このひとには二面があって、社会に通用させている外皮としての「上野千鶴子」と外皮を脱いで一人書斎にいるときの「上野千鶴子」という二人がいて、後者はいいひとなのではないか思うのである。まあ、だまされているのかもしれないが、外での活動は社会的な役割として偽物の自分がしていて、一人でいるときの自分が本物という意識があるのではないかと思う。「鍵のかかる部屋」のなかの自分こそが本当にまもりたい自分であって、フェミニストとしての「上野千鶴子」は自分が選択してかぶった外皮というところがあるのではないだろうか? 「おひとりさまの老後」を読んで一番びっくりしたのは、たとえ外皮であるとしても、あれだけたくさんの敵をなぎ倒してきたのであるから、当然、野垂れ死にを覚悟しているだろうと思っていたが、かなり本気で平穏な老後を模索しているように思えたことである。フェミニズムから介護へと氏の転進?は、氏の外皮から内面への回帰を表しているのかもしれない。しかし社会的成功と内面の救済?のどっちもほしいというのは何だか虫が良すぎるような気がする。
 そういうひとにからむと勢古氏はさえるのである。吉本隆明が「大衆の原像」という言葉で知識人を薙ぎ倒した手法である。