内田樹「街場のメディア論」の中の読者論・出版論

 
 たまたま、第6講「「本を読みたい人」は減っていない」から読みはじめ、第7講「贈与経済と読書」はまた例の話ねと思って飛ばし、あと第8講「わけのわからない未来へ」を読んだだけでの感想である。第5講までは読んでいないので(というか10分ほどで飛ばし読みした)、以下に書くことは相当の見当違いがあるかもしれない。
 さて、内田氏は「本を読みたい人」は減っているか?と問う。自答していわく、「僕は毎月十万円くらい本を買うし、書き手の実感としても僕の本は売れている。」 しかし例外的な事例を出して、答えとするのはいかがなものなのだろうか。氏もいっているように内田氏は人文学者なのだから、月十万くらい本を買うのは当然であろうし(人文学者としてはひどく少ないほうと氏もいう)、また氏は現在では例外的に本を出せば売れる著者として出版社が群がっているようなのだから、多くの売れない書き手はいい気なものだね、というかもしれない。
 筒井康隆氏は「みだれ撃ち瀆書ノート」で「ぼくの考える学者とは、月三万円以上の洋書を買いこむ人で(国文学者は別だが)、それ以外の人は学者じゃない」といっているが、この本は1979年の刊行だから、今ならやはり月十万以上であろうか? だが、多くの読者は学者ではないのだから、月10万も本を買うことはないわけで、とにかく本が売れなくなってきているのは事実なのである。
 内田氏によれば、その原因は出版する側が読者に対するレスペクトを失ってきているからだという。読者を見下している、と。どうせ読者なんか頭が悪いんだから難しいものなど読んでくれるわけもないしと考えてどんどんと口に入りやすい安直な本を量産してきた、その結果が今だというのである。要するに読者を消費者としてみていると。
 まず、電子書籍の問題。ここで内田氏がいっていることは基本的に梅田望夫氏が「ウェブ進化論」でいっていたロングテール現象論と同じ主張である。梅田氏はアマゾンのような形態ではリアル書店では在庫を抱えることができないほとんど売れない本も本のリストの中にくわえておけばいいのだから、いままで売れなかった本もこれからは商売になる(あるいはアマゾンのかなりの部分の収益は、すでに従来売れてこなかった本から得られている)ことを述べていた。梅田氏はアマゾンのような仕組みによって従来ならば商売にならなかったほとんど売れない本が読者の手に届くシステムができてきたことを論じていた。内田氏はさらに、絶版の本、稀覯本、図書館にしかない本なども電子化によって読者の手に届く可能性がでてきたことを指摘する。つまり今は読者がいなくても将来読者が出てくる可能性を想定している本まで電子出版のラインナップに入ってくる点において、それは読者へのレスペクトをもつシステムだという。
 さて、内田氏は《作家や出版社の私的利益》と《読書が世界にもたらる公的な利益》ということをいう。もしも、すべての書籍が電子化され、それをインターネットで送信して家庭のパソコンで閲覧できるようになれば、読者には便利だが、著作者は旧来の印税での生活がなりたたなくなる可能性がある。それは事実だが、著作で生活できない人は別の仕事を探すしかないと冷たいことをいう。
 内田氏は、自分にとって書くことの目的は生計をたてることではなく、ひとりでも多くのひとに自分の考えや感じ方を共有してもらうことである、という。自分には「言いたいこと」があり、それを「ひとりでも多くの人に伝えたい」と思っているのだという。ひとりでも多くの自分の読者をつくること、著作者のめざすべきものはそれであって、どの読者が自分の著作に金を払ってくれるかどうかは、一義的な問題ではないのだと。友達から借りても、図書館で読んでも、どうでもいいではないか、と。しかしだからといって「専業物書き」が職業的に成立しなくなってしまうもの困る。誰が困るかというと著作者ではなく読者なのだと。優れた書き手が書くことに専念できて、クオリティの高い作物を継続的に提供できる出版環境は、誰よりも読者のために守らなくてはならないという。現在たまたま出版が商売になっているのは、そのほうがテクストの質があがって著作者と読者の双方にとって利益になるからなのだという。書物が商品として扱われることが、テクストの質を損なうような事態になるのなら、書物を商品をしてあつかうことは考え直す必要があるという。現在は本を読む人ではなく、本を買う人のみが問題とされる、それがいけないのである、と指摘する。
 ところがここから話が違ったほうに展開していってしまう。「読書人」のほうに話がいくのである。多様な趣味嗜好を持ち、多様なリテラシーを備えた「読書人」こそが、社会の文化的な基礎であり、なによりも物書く人々にとっての最大の支援者であるという。そのような「読書人」のしっかりした層を形成することは、書籍にかかわるすべての人間が切望してよいことのはずである、という。そして話が「読書人」の書棚のことから蔵書のほうへと展開していく。明らかにここから話がマスとして読者から、「読書人」という限られた層へと議論の対象が変化してしまう。
 「読書人」にとって、本棚とは「こういう本を選択的に読んでいる人間であると他人に思われたいという欲望」によって配架されるのだという。ひとから「センスのいい人」だと思われたい、「知的な人」だと思われたい、「底知れぬ人」だと思われたいという欲望があらわに投影されるのだと。いや他人なんか僕の家にはこないよというひともあるかもしれないが、書棚を一番よくみるのは自分であるので、書棚は自分がどのような人間でありたいかを自分で思いたいかを語るものであるという。蔵書をすべて読んでいる人間などいるはずがない。むしろほとんど読んでいないのが普通である。しかしいつか読まねばと思っている、そういう本が書棚には並んでいるのであると。そして電子書籍の最大の欠点は蔵書を形成しないこと、書棚を空間的に埋めていかないことなのであるという。蔵書を残すができないではないか、「蔵書を残す」というのは、学者や文人にとってはほとんど「生き甲斐」といっていいものなのに、と。蔵書こそが自分の「真の業績」と思っている学者や文人は少なくないのだそうである。
 電子書籍のビジネスモデルは、本をあまり読まない人間が設計したものだという。だから、その将来は明るいとは必ずしもいえない、と。しかし出版文化が相手にすべきなのは、選書と配架にアイデンティティをかける「読書人」の絶対数を増やすことなのだという。
 さて、また議論が移って、内田氏の著作のかなりは以前ネットで発表したものを編集者がエディットしたものだということに変わる。つまり本来ネット上で無料で読めるものをわざわざお金を出して買うひとがいるわけで、それはネット上で氏の書いたものを読んだひとが、無料で読んだけれど、一応お礼をしておいたほうがいいかな」と思って買ってくれるのであるという。これがいつもの贈与論につながり、「おのれを被造物であると思いなす」能力と結びつくとされ、その能力こそが信仰を基礎づけ、宇宙を有意味なものとして分節することを可能にしたという方向に議論がいってしまう。信仰の基礎は「世界を創造してくれて、ありがとう」という言葉に尽きるのだという。こういう方向にいつも議論が流れていってしまうのが内田氏のアキレス腱で、おそらくレヴィナスに由来する氏の若い時からの思想に由来するのであろうが、これは頭でしている議論であって、肉体的に腑に落ちるものとなっていないと思う。内田氏の中では充分説得的であるのかもしれないが、それが他人に届く言葉になっていない。内田氏が本当にすべきであるのは、それを本当に読者に伝えることのできる本を書くことであるはずである。しかし、今のように次から次に本がでる状態では、他人に向かっての本は書けても、自分と対話する、まず自分を説得するための本を書くことはできないのではないかと思う。最近氏が出す本は他人の蔵書の中に長く残りそうなものはあまりないのではないだろうか? 以前の本はそうでもないものもあると思うのだが。
 内田氏のネット・エディット本が売れているのは、内田氏のネットの文章は全然みていず、紙の本だけで氏を知っているひともたくさんいるのと、ネットでみているひとでも、ネットで分散して書かれているものを検索するようは容易ではなく、書籍の形になった方がずっと読みやすいからであると思う。要するに編集者の功績が大きいのであり、そういう努力への対価もふくんでいるはずである。
 
 蔵書の話のあたりを読んでいて、すぐに渡部昇一氏の「知的生活の方法」の中の「あなたの蔵書を示せ、そうすればあなたの人物を当ててみせよう」を想起した。また「続・知的生活の方法」には、build up one's own library という言葉もあった。Library というのは、書斎、書庫、蔵書をあわせたような感じの言葉なのだそうである。この渡部氏の著作はまさに「読書人」論であったと思う。要するに、本を読むことで一生を終ることに悔いがない人間の話なのだが、そうであれば、読書人というのはいつの時代にもそんなに多くはいるわけがない。それを増やすことが可能なのかどうか、そもそも増やすべきであるのか、それもなんとも言えないように思う。読書人というのは一種の畸形人であるかもしれないので、内田氏がそういう人たちを無邪気に称揚しているように見えるのがいささか意外であった。
 蔵書の最大の問題は人にみせる(あるいは自分にみせる)ことではなく、それをどうやって整理収納するかである。とにかくも何らで背表紙がみえるようにしておかなくてはならない。それを目にすることが新たな思考の展開に繋がることがしばしばあることを、ある程度本を読むことをしているひとならみな経験しているはずである。しかし、ある一定数以上に本が増えると、本を目の届く場所においておくことが至難になる。ひとに見せるどころか、自分がどうやってみつけるかが一番の問題となる。置き場を確保し、必要な本を見つけられるようにすることがどんどんと困難になってくる。わたくもここでいろいろ書いていて、引用しようと思う本が見つけられずに30分、一時間探し回ることはしばしばある。だから「知的生活の方法」の書斎の構想の部分を読むと涎がでる。
 最近、上野千鶴子氏の「ひとりの午後に」を読んでいて、研究室の本が著者名五十音順に並べて配架してあると書いてあって仰天した。上野氏もいうようにこの方法では著者名が思い出せないとアウトであり、記憶力ゼロのわたくしにはとても採用できそうもないが、一番の疑問は、たとえば、「あ」と「い」の間に充分な空間を残しておかないと、本が増えた時にすぐにダメになるだろうということである。よほど広い空間を確保してあるのだろうか? しかし両側の壁が天井までぎっしり本で埋まっているとある。しかも三列なのだそうである。つまり正面から見える本の奥にもう二列本があるらしい。わたくしは奥に背の高い本をおき、その手前に背の低い本を置いたりしてなんとか背表紙がみえるように収めているが、たしかにある著者の本がここにあるということさえわかれば、その奥に見えないところに置いておいてもいいわけである。それにしても、そもそも配置する空間がなければどうしようもないのだが。
 「本棚を他人に覗かれるのがイヤだ。まるで自分のアタマのなかを、覗かれているような気がするからだ。その逆に他人の本棚を覗くのは好きだ。たとえ趣味が悪い、と思われても」と上野氏がいうのは、まったく同感である。他人に書棚を見せたいように書く内田氏の気持ちが今ひとつ理解できない。
 本には、あるいは本を読むひとには二種類あるのだと思う。一回読んでそれで終わりの本と、繰り返して読む本。あるいは本は一回読んで読み捨てにするひとと、同じ本を繰り返し読むひとである。さらには普通の書店で本を買うひとと、ブックオフで買ったり売ったりするひと。わたくしはブックオフというところには、本に対するレスペクトがないような気がして近づかないようにしているのだが、本が消費財であるとするひとにとってはきわめて合理的なところなのであろう。そして本を純粋に消費財としてしか見ないひとは本を読むひとのなかの相当多くのな割合をしめていて、そういうひとにとっては build up my own library などということはまったく意味をなさないだろうし、電子書籍というのはきわめて有用な今後の媒体となっていくのだろう、と思う。そういうひとが本を買わなくなって、そのあとに本を繰り返し読む「読書人」、自分のライブラリィを作るひとたちだけが残ったとして、そのひとたちを相手に出版という業種が今後も存続しうるのだろうか? もしも「読書人」しか本を買わなくなれば、本は今よりもすっと高価なものとなるだろうから、結局、それらの出版も採算がとれなくなり、それらも電子化していくしかなくなるのだろうか?
 「文学といふのは、要するに、本のことである。その他に新聞とか雑誌に載つたものは文学の切れ端と見て構はなくて、その証拠に、文学の切れ端と呼べる程度にその中で読み甲斐があるものは後に一冊の本に纏められ、この方が一層何か読んだ感じがする」と「文学の楽み」で吉田健一氏がいっている。また氏はいう。「何だらうと、或る本が読めるか、読めないかを決めるのに一番確かな方法は、その本が繰り返して読めるものかどうか験して見ることである。わざわざ験して見なくても、これは本を読むのが好きならば必ずやることになるので、さうすることで気が付くのは、本を読む楽みといふのが、その本の所謂、内容を知ることが主になつてゐないといふことである。」 ネットにのった文章というのはまだ切れ端であるので、それが一冊の本になって、はじめてところをえる。そしてこの「街場のメディア論」が繰り返して読める本であるかである。
 本書を読んでの一番の疑問は、本を書くひとがそれで生活できるべきであるとアプリオリに言えるのだろうかということである。現在、クラシック音楽の作曲家で作曲で食べているひとはほとんどないだろうと思う。武満徹さんはそうだったのだろうか? 現代詩人で詩を書くことで食べていけるのは谷川俊太郎さんだけではないかと思う。それなら小説家とか文筆家がそれで食べていけるべきであるといえるのだろうか? 何かの間違いでたまたまそれで生活できるということはあるかもしれない。それは運であり僥倖であって、そうであって当たり前ということはないのではないか思う。昔ならパトロンがそういうひとを食べさせた。今では、大学という象牙の塔がそういう人の多くを食べさている。つまり文学とか人文学などというのは基本的にマチュアの仕事であって、アマチュアのしていることが飯のタネになるということは時にあるかも知れないが、例外事象のはずである。俺たち専業の物書きがいなくなると読者であるあなたたちが困るであろうなどというのは、いささか知識人の傲慢なのではないだろうかと思う。
 

街場のメディア論 (光文社新書)

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みだれ撃ち涜書ノート (集英社文庫 79-D)

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ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

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知的生活の方法 (講談社現代新書)

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知的生活の方法 続 (講談社現代新書 538)

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ひとりの午後に

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文学の楽しみ (講談社文芸文庫)

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