村上龍 「歌うクジラ」

   講談社 2010年10月
 
 村上龍の最新の小説。100年後の日本を描く、犯罪者を隔離する島で育てられた15歳の少年が、父の死に際しての言葉を実現するため本土への旅にでる、という話である。
 こういう設定は、すぐに、以前、村上春樹の「1Q84」を論じたときに紹介した蓮實重彦「小説から遠く離れて」の以下の文を想起させる。

 いかにも天涯孤独といった言葉の似合いそうな一人の男が、ふいにそそくさと旅姿など整え始めたら、ひとまず用心してかかるにこしたことはない。誰かにある用件を「依頼」されてちょっとした旅に出るとでも漏らした場合には、なお一層、警戒を強めるべきだろう。彼は素人でありながらも、探偵のまねごとを始めようとしているに違いなく、世に、探偵を気取る素人ほど厄介ではた迷惑な存在もまたないからである。
 この素人探偵は、他人というものをいっさい信用しない。謎を解決できるのは自分一人だと確信し、選ばれたことの特権にひそかな誇りをいだいてさえいる。この冒険の手助けになるのは、血をわけた兄弟なり姉妹に限られている。そうつぶやきながらひそかに連絡をとりあうこの二人組は、赤の他人ではないだけに、その協力関係もあなどりがたい緊密さを発揮し、とうてい局外者の入り込む余地はなさそうにみえる。
 あなた方には、われわれの冒険に加担する権利はない、と素人探偵はつぶやく。これは徹底して個人的な物語なのだ。これから始まろうとする冒険で意義ある役割を演じうるののはわれわれ二人に限られており、やがて目的が達せられてのち、首尾よく生還しえたものの権利としてわたくしが語るであろう物語に耳を傾けることだけが、あなた方に許されている唯一の楽しみなのだ。だが、それを単なる娯楽と思ったりしてはならない。というのも、この「宝探し」はひたすら個人的な動機にうながされた冒険だとはいえ、あなた方が等しく囚われている世界の隠喩として、なにがしかの意味をおびているのだから、心して聞くがよい。これはたんなる思いつきや嘘出鱈目ではなく、ある種の現実感さえ帯びた教訓的な物語なのだ。実際、そうではなかろうか、と彼はつぶやく。人びとが何の屈託もなく日を送っているこの世界にも、それ相応の権力機構というものが備わっており、現実の政治的な制度の影に隠れたかたちで人びとの生活を律している。そこには「黒幕」じみた策謀家もいればパルチザンンと呼ぶべき闘士もおり、ふだんは人目に触れぬ水面下で苛烈な葛藤を演じたてているのである。わたくしが選ばれた者の特権として「宝探し」の旅に出るのは、その不可視の闘争がある決定的な破局に直面し、そこでの権力維持に重大な危機が生じているからだ。

こういうパターンの小説は貴種流離譚という昔からある物語類型の変奏なのであると蓮實氏はいう。「依頼」と「代行」からなる「宝探し」というのは、RPGやミステリの定番パターンでもある、と。
 わたくしはRPGというのに疎くて、実際にしたことがないのだが、それでもこの小説を読んでそれを想起した。ある場面をクリアして、次のステージに進むという感じなのである。おそらく村上氏は確信犯としてこのような物語をくみたてているのであろうから、この小説がRPGを想起させるということは批判にはならないだろうが、とにかく、この小説の構造は単純なものである。
 アキラという少年が、育った島と本土を結ぶ橋を目指すところから物語がはじまる。そこでサブロウというやはり島で育ち、実の父を求めて本土を目指す青年と合流する。その橋を突破するために奪ったトラックにいたアンという女性と次に合流する。アンは地下組織の活動家の娘であり、その地下組織の助けをかりて、アキラたちは橋を突破し本土にはいる。反乱移民の地下組織は生体保存用の不凍液と還元剤の密売をしている。その密売の旅の中で、ガスケットと呼ばれる未来のスポーツの試合を見たりする。密売は失敗し、反乱移民たちは殺されてしまうが、アキラとサブロウとアンは生き残り、ネギダールという猿と人間の混血が運転する飛行機によってトモナリ(実はアンジョウ)という男がいる貧民街に運ばれる。その途中で飛行機は宇宙ステーションの近くまでいったりする。アンジョウはかってアキラを最上層の人間のための性的な道具として本土につれていったことがあり、幼児性愛の倒錯者なのであるが、階層が分離し固定した未来社会の中で、階層を横断する便利屋のようなことをしている。アンジョウこそが最上層の人間の住む老人施設にいる権力者であるヨシマツへの案内者であるというのがアキラの父の遺言である。老人施設に向かう途中にあった隔離施設は最上層の人間の中からでた性犯罪者の矯正所のようなことろであるが、そこでアンジョウは殺されてしまい、サブロウとアンもアキラと別れてそこに残ることを強制される。今までの仲間に代わって、サツキという女があらわれる。サツキはかつてアキラが性的なサーヴィスを提供した最上層階級の人間である。サツキの案内で最上層の実態をみていくのだが、それは一種の地獄めぐりである。サツキに宇宙ステーションに通じる特殊なエレベーターに案内されたアキラは、そこでサツキと別れ、ひとりそのエレベーターでステーションにむかい、そこでヨシマツと対決する。ヨシマツは日本を支配している最上層階級の指導者のひとりなのだが、脳以外は人工臓器でおきかえられている・・・。
 本書が小説的な結構を維持しているのは隔離施設までの部分である。そこまではサブロウとアンという二人の同行者があり、いくつかの出来事がおきる。しかし、そこをでてサツキに導かれて最上層の人間の生活をみていく部分になると、行動がなくなり単なる観察となってしまう。最後のヨシマツとの対決の場面では、大部分がヨシマツの演説を聞くだけである。
 村上氏が最初からこのような物語を構想したのかどうかはわからない。後半の三分の一はとても急いでいる印象がある。物語がすかすかで、ほとんど説明だけになってしまっている。最後のヨシマツの大演説も「大審問官」のような迫力はない。「1Q84」でのリーダーのする話のほうがよっぽどましかもしれない。しかし、それにもかかわらず、ここが村上氏の一番書きたかった部分ではないかと思われるので、それが困る。小説で一番いいたいことが物語としてあるいは行動として描かれるのではなく、ただの演説となってしまうのはまずい。
 と、悪口ばかりを書いているが、こんな荒唐無稽な話をとにかくも読ませてしまうのは村上氏の筆の力であり、その力は日本の作家の中でも群をぬいている。両村上のなかでも春樹さんの上をいくかもしれない。その筆力によって、それでは龍氏が何を描こうとするのか、それがよくわからない。春樹さんの場合はそのつくる物語全体が暗示する何かなのであろう(「小説家にとって必要なものは個別の意見ではなく、その意見がしっかり拠って立つことのできる、個人的作話システムなのです。」「ときとして我々はたった一人で深い井戸の底に降りていくしかありません。」「語っている物語が力を備えさえすれば、主人公と書き手を読者は共に「ここではない世界」へと到達できる。そこは、元の世界でありながら、旧来とは何か違う世界です」)。しかしこの「歌うクジラ」では物語の構造はいたって単純であり、個々のエピソードが繋げられているだけという印象である。そして、主人公のアキラは自分の力によってではなく周りの人間の助けによってそれぞれの局面を乗りこえていく。それでも、隔離施設につくまでのエピソードでは、サブロウという青年やアンという女性に対する主人公の感情が描かれ、反乱移民とそれに対する宋文という独立地域の指導者のエピソードがあり、またガスケットという競技の描写など、物語に起伏がある。隔離施設をでてからは、そこに現れるサツキという女性もヨシマツという指導者も生きることに倦んだ人間であり、アキラという人間に世界への絶望を語る役割を演じるだけとなる。最後に主人公が、宇宙の孤独の中で、それでも生きていたいと思うところで小説は終る。「自分が自分であることを望む、それは自分が他人になってしまったら、他人として、誰かと出会うことになるから。生きる上で意味を持つのは、他人との出会いだけだ。移動しなければ出会いはない。移動が、すべてを生み出すのだ」とアキラ少年は思う。今までの物語がすべてアキラの移動の物語であったことが想起され、この小説の構造の意味が、それにより開示されることになる。
 しかし、とにかくも移動が成功し、アキラがヨシマツのもとにたどり着けたのは、アキラが実は選ばれたものとして半ばヨシマツの保護と監視のもとにあったからだということが最後に明らかになるのだから、この結末はすっきりしない。生きることに意味をもつ出会いをできるのは選ばれたものだけであるということにもなりかねない。実は、この百年後の日本は階層が固定化し、階層間の移動もほとんどなく、それぞれの階層がそれぞれの地域に別々に暮らしているという設定になっているから、アキラ少年の行動はその百年後の世界の構造に対する批判になっているわけなのだが、その行動が可能になったのは最高権力者の保護があったからであるということなのであるから、なんだかなあなのである。
 アキラ少年は情報の隔離された島で育って、本土のことを知らない。その少年が移動を続けながら、100年後の日本を見ていくことになるわけだから、アキラ少年は読者代表でもあって、読者もまた主人公とともに少しづつその世界を知っていく。この100年後の世界の造形には、村上氏の現代日本への見方が自ずと反映しているはずである。
 村上氏は一部のひとからは経済評論家などと揶揄されるくらい経済について猛勉強をしている。本書をよめば生命科学とか脳科学とかについてもすごく学習していることがわかる。本当に頭がさがるが、それと同時に経済についても科学についても氏はアマチュアであって、一人の人間が勉強して理解できることの限界という問題も本書であらわれてきているように思う。というかヨシマツという人間の造形ににそれがあらわれているのではないだろうか? 指導者がよかれと思って強行した政策が結果として失敗したことをヨシマツは反省するのだが、それは勉強には限界があるという告白でもあるように読める。『ありとあらゆる経済書を読み・・単行本になった時のあとがきで読破した数百冊の本を、「参考文献」として列挙するのを楽しみにしていた。「ボクってこんなにお勉強しましたよ」と示したかったのである』などと「愛と幻想のファシズム」の「あとがき」に書く無邪気な村上氏はもういない。勉強すればするほどわからなくなることもまた多いのである。しかしそれでも「システムへの憎悪」と農耕民族を嫌い狩猟民族を称揚する氏は健在でもあって、アキラ少年の最後の独白もシステムへには入らないぞという宣言でもあり、移動こそが生であるというのも定住する農耕民族への嫌悪なのであろう。
 しかしそれにしてはヨシマツを描く部分の比重が大きい。村上氏が経済の勉強をはじめたのは、氏が嫌悪するシステムを、「全面的に支え」「ある時にはシステムそのものとなる」のが経済であるとわかったからなのであり、いわば敵の研究だったはずなのであるが、ミイラとりがミイラになるということがある。経済の勉強そのものが面白くなってしまったのではないだろうか? 経済というのは「経国済民」であり国のため民のためであって、自分のためのもではない。村上氏は自分のことではなく他人のことを考えるひとになってしまったのである。文学は本来はシステムからはずれた少数者のためのものかもしれないのだが、多数のひとのことも考えるひととなった村上氏の書くものは、従来の文学とは微妙に違ったものになってきているように思える。
 その点については、「小説の未来」で村上氏の「希望の国エクソダス」を論じた「物語の大きさ、小説の小ささ」のなかで、加藤典洋氏は「この小説を読むと・・、身体はとてつもなく大きいけれど、脳の部分がきわめて小さい、恐竜のような小説だなあ、という感想が浮かびます。・・物語の外枠を作るのに膨大な力を発揮しているわりには、そこに搭載されることになる小説的部分‐小説でしか書けない種類のドラマの部分‐は、ほんの少ししか」ないといういい方をしている。「小説は、論文とか評論とか社会批評といったものとどのように違う問題のさしだし方をするのか」ということである。しかし村上氏は「小説でしか書けない種類のドラマ部分」を主な目的とした小説を書くことはもはや考えていないだろうと思う。どこかで氏は小説のことを情報を盛る容器であるというようなことをいっていた。
 それで情報を大いに盛ったヨシマツの大演説の中にある小説的な部分としては、上層階級の人間が下層のものに対して抱く罪悪感と贖罪意識ということがある。「自分だけが、あるいは自分が属する小組織や小集団だけが、生への執着を充たすことに対する無意識の罪悪感と贖罪意識」という問題で、それは「すべての宗教と統治制度の根幹をなす」もので、「共同体の上位者には下層に救済の手を差し伸べることによって自身が救済されるという倒錯となってなって現れ」、「下層には順化と信仰と規律の根拠となってきた」のだとされる。それがヨシマツたち上層の人間を蝕んでいったのだ、と。きれいな言葉でいえば「ノブレス・オブリージ」の問題ということになるのだろうか?
 ここに書かれていることによれば、それは人間という本来は弱い動物が生き延びるために「ともに生きる動物」となったことにより、社会的にセットされてきたものであるという。この問題だけでも一冊の本が書けるようなことがあっさりと述べられているわけで、人間の社会性が生得的なものではなく文化的なものであるという見解自体、人間が「空白の白板」として生まれるかという問題として議論が百出するところであろう。
 『パーヴェル・アンドレーヴィッチは領内の百姓たちの飢ゑを無関心で見すごせない。かれが「知りもせず、理解もせず、一度だつておもつてみたこともなく、愛してもゐない」飢民の存在が、かれの心のうちに奇妙な不安と焦燥をひきおこすのである。断じて愛ではない。では良心か‐とすれば、愛のない良心とはいつたいなにものであるか。かれはやうやくその不安の正体に気づいた‐「烈しい不安がつのるたびに、その一切の秘密は飢民のうちにはなく、自分がかくあるべき人間でないといふ意識にあるのだと、密かにおもひあたつたこともいくたびかしれなかつた。」』 これは福田恆存の「チェーホフ」の一節であるが、社会的動物としての人間という説明を持ちだすよりも、こちらのほうが文学的であると思う。キリスト教道徳の問題である。これに対しては、フォースターの「愛は、私生活では大きな力です。最大の力と言ってもいいほどです。ところが、公的生活では役に立たないのです。・・ポルトガルで暮らしている人が、まったく知らないペルーの人を愛しなさいなどという‐これはバカげた話で、非現実的で危険です。・・われわれは、じつは、直接知っている相手でなければ愛せないのです。・・公の問題はもっと地味な、あまり愛情とは縁のない精神が必要で、それは寛容の精神です。・・これは消極的な美徳なのです。要するにどんな相手でもがまんする、何事にもがまん、という精神なのですから」という。わたくしとしてはこちらをとる。罪悪感というのはキリスト教が後世にもたらした害悪なのであり、文明というのはそれを払拭していく過程なのだと思っている。
 ということで、ここで提示される論については異論がいろいろとあるのが、ここでは、生物学あるいは医療にかんすることだけ二つほど書いておく。1)医療が進歩した未来社会においても解決できない問題として褥瘡(とこずれ)が残っていまうとされている。どうも納得できない。たとえばこれに対する解決策がロビン・クックの医学ミステリ「コーマ」に示されていた。2)脳だけになって、脳以外はすべて人工物になってしまったヨシマツは末梢からの入力、たとえば筋肉や皮膚からの入力がないように描写されている。目と耳に相当する入力はあるように描かれているのだが、それ以外の入力は想定されていないようである。そうなると意識さえ保てないのではないだろうか? 「中枢は末梢の奴隷」(養老孟司)なのである。大体、脳人間ヨシマツには骨さえないのであるから血液はどこで作られるのであろうか?
 などなど納得できない部分は多々あるのだが、百年先の世界を描写したらたくさんの瑕疵がでてくるのはやむをえないであろう。大体、その時代の日本は世界の中でどのような位置にいることなっているのか、それすらも本書ではよくわからない。しかし、そういういろいろなことを考えさせることができれば、この小説は目的を達しているのかもしれない。
 
 (付記)
 この小説は最初i−PAD用に配信された電子書籍で読んだ。横書き、数字が算用数字など最初は違和感があったが、読み通すことができた(最後は物語がダルになってきたのとで、その点で読み続けていくのがいささか苦痛になってきたが)。付属している坂本龍一の音楽はまあどうということはなかった。篠原潤というひとのイラストはそれなりの効果を作っているように思えた。
 読み飛ばして、再読しない本であれば電子書籍の形で読むことはできそうである。しかし、ここで感想を書くようなことをするために読みかえすという場合には、相当つらい。それで結局、紙の本も買った。ぱらぱらとページを繰って気になる場所を探すというようなことはまだまだしづらい。本はかさばるのが弱点であるが、たとえば上巻の大体、五分の三あたりの左のページにあった記載というような物理的な記憶が案外とばかにならない紙の本の利点であるように思った。厚さがない本ではそういう記憶が生じない。
 しかし紙の本の半分以下の値段で買えるのであるから、わたくしのような酔狂なことをしている人間でないかぎり、電子書籍で充分なのかもしれない。
 

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