S・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」

   中央公論社 2006年11月10日初版
 
 わたくしはあまり忍耐心があるほうではないので、小説の書き出しで乗れないとそのまま抛りだしてしまうことが多い。この「グレート・ギャツビー」もそうで、だいぶ前に二度ほどトライしては挫折していた。今回も最初のほうででよほど抛りだそうかと思ったのだが、村上春樹が巻末に書いている相当に力のはいった推奨と自負の弁に励まされてようやく読み通すとこができた。
 全9章の小説で、小説が動き出すのが第5章になってからであり、最初の4章は伏線というか後になってようやく意味がわかるようになっているので、読み始めたときには何だかいらいらした。それで読み終わったあと、もう一度読み直してみた。そうすると非常に技巧的なプロットによる小説であることをあらためて確認できた。それでも、村上氏が巻末の「訳者あとがき」でいっている誰かさんの言、「『グレート・ギャツビー』って読みましたけど、あれって村上さんが言うように、そんなにすごい作品なんですかね?」という感想に同感である。これが「カラマゾフの兄弟」と並ぶことのできる作品だとはどうしても思えない。「ちょっと待って下さい。『グレート・ギャツビー』がすごい作品じゃなくて、ほかの何がいったい「すごい作品」なんですか・・・」と村上氏はいうのであるが。
 村上氏によれば、『グレート・ギャツビー』は何よりも素晴らしい英語で書かれた原語で一行一行を丁寧に読んでいかないことにはその素晴らしさが十全に理解できない作品なのだそうである。村上氏の自負によれば、それ故に今まで紹介されていた『グレート・ギャッツビー』では、その真価を日本人は理解することができなかったはずである。だから自分が新しくまた翻訳をしたのは、その障害を少しでも乗り越えるためなのである、と氏はいう。
 でもそれは詩を翻訳することの困難そのものなのではないだろうか。「文学全集を立ちあげる」で丸谷才一が言っているように「詩は翻訳じゃわからないよ」である。

 No man is an Island, entire of itself;
 every man is a piece of the Continent, a part of the main.
 これをどのように訳しても、「人はだれでも、自分だけで自立している島ではなくて、大陸の一部、本土の部分なのだ」という意味は伝わるであろうが、あとは日本語で詩を作るしかない。村上氏のいっていることは、随分と無茶な要求であるような気がする。そういう無茶をいいたくなるほど、氏はこの作品を愛しているということなのであろうが。
 わたくしに、この作品が今ひとつピンとこないのは、ギャツビーという主人公にあまり感情移入できないせいなのだろうと思う。なんだかバカみたいという思いを禁じえない。デイジーというヒロインについても同様である。ギャツビーという主人公があれほどこだわるほどの女性としてデイジーが描かれているとも思えない。恋愛というのは傍からみれば何ほどか愚かしいものであろうが、恋愛小説が成立するためには、それが愚行でありながらも何か“聖なるもの”あるいは“普遍的なもの”と通じることが必要であろうと思う。しかし、この小説にそれがあるのだろうかという気がする。
 むしろ小説技巧家としてフィッツジェラルドはおそろしい才能の持主なのではないかと思う。伏線の意味が次々に明らかになってきてクライマックスを迎えた後、最終章でのアンチ・クライマックスでギャツビーという人間のある意味での“愚行”が聖化されるという劇としての構造作りはとても鮮やかである。ギャツビーという“子供”が“子供”のままで死に、その死に触媒されてまわりの人間は“大人”になって生きていく、あるいは“汚れて”生きていくことになる、という図式なのだが、ギャツビーがあまりに“子供”として描かれ過ぎているので、これは小説というよりもお伽噺あるいは寓話のように読めてしまう。
 巻末の村上春樹の「あとがき」によるフィッツジェラルドの生涯の解説を読むと、その伝記のほうが『グレート・ギャツビー』より面白いのではないかと思う。解説だけ読んでも、フィッツジェラルドと妻のゼルダの関係がこの小説に投影していることは明らかであるが、自分をギャツビーとトムという二人の人間に振り分ける手続きが今ひとつうまくいっていないような気がする。
 そういうことで、村上氏があれほど、この小説に入れ込んでいる理由がどうも今一つ呑みこめなかった。やはり原語で読まねばいけないのだろうか?

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)