村上春樹「1Q84」 (終)雑感いくつか

   新潮社 2009年5月
   
 青豆と天吾
 「1Q84」についてみなさんどのような感想をもっているのだろうと思い、インターネット上でいくつか感想をみていて、finalvent という方の評で、青豆の物語は天吾の書いている小説の世界なのだということが書いてあるのをみて大変びっくりした。そういわれてみれば、確かにそう読めるような気がする。天吾は、「空気さなぎ」の改作をきっかけに、自分としての月が二つある世界の物語を作り始めているのだから。鋭い読みをするかたがいるものだと敬服した。
 http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/06/1q84-book1-book.html
 この物語にはなんとなく辻褄があわないように思えるところがいくつかあるのだが、そのようにみればいくつかの疑問点は消失するのかもしれない。それと同時にこの物語は一層入り組んだ構造をもつことになる。
 村上氏は天吾の物語を書く。その天吾は青豆の物語を書く。といっても、もともと天吾は村上氏が創作した人物である。とすれば当然、青豆の物語も当然村上氏の作である。しかし天吾の物語の部分と青豆の物語の部分は次元が違っていいことになって、青豆の物語の部分は天吾のための物語であるということになれば、天吾が実際に10歳のときに一人のエクセントリックな少女とであったということだけが事実で、それ以外の青豆の物語は天吾の願望の産物であるとすると、それが天吾にとっていたって都合のいい展開となることも納得できることになるし、最後が青豆の死を暗示するにもかかわらず、「青豆をみつけよう、何があろうと、そこがどのような世界であろうと、彼女がたとえ誰であろうと」と天吾が心を定めることろで終ることの何となく割り切れない感じをも消すことになる。青豆の死はあくまでも天吾の作った架空の物語の中での死であり、実際の青豆は、まったく違う女性として現実の世界(といっても村上氏のつくった架空の世界での現実の世界)でどこかで生きている。それを実際に探しにいく旅が book 3 以降の物語となるのかもしれない。そうすると、さきがけのリーダーも実際には死んでいないのかもしれず、本当はあのような気弱なインテリではなく「悪の権化」であるのかもしれない。
 そうではあり、作中で天吾は「二つの月」がある世界の小説を書いていることは示唆されているのだが、それでもそれが青豆の物語であったとしていいのだろうかという思いは残る。この小説は青豆の話と天吾の物語が均整のとれた形で配置され、最初に出てくるのは青豆であり、主に行動するのも青豆で、天吾が新しい自分の小説を書き始めるのは book 1 の後半になってからなので、青豆の物語を天吾が書いたとしてしまうことは、読者からみるとアンフェアに見えるのではないかと思う。そのような解釈をふくめ、この小説は多様な解釈に開かれているとしたほうが、「1Q84」は豊かなものとして残るのではないかと思う。
 
 二つの月の世界
 わたしの読み方が浅いのかもしれないが、1Q84という世界がどうなっているのかがよく理解できなかった。青豆は最初の章で高速道路の非常階段をおりるときに1984年から1Q84年に入り込んだらしい。そこでは警官の制服が違い、2年前に本栖湖で事件がおき、アメリカとソ連は共同で月に宇宙基地を建設している。それならば、そこにいるひとたちはいつからそこにいるのだろう? 生まれたときから? それならば二つの世界が平行してあるのだろうか? 二つの世界は平行して走っているのだが、そして何かをきっかけにして、1984年世界の住人は1Q84年の世界に移動する。だが、1984年の世界で殺そうと思っていた男である深山は1Q84年の世界にもちゃんといるのである。深山は双方の世界に存在するのだろうか? そして1Q84の世界では殺されても、1984年の世界ではまだ生き続けているのだろうか? その深山を殺すことを命じた老婦人もその用心棒であるタマルもまた双方の世界に存在しているらしい。それとも青豆と一緒に1Q84の世界に移動したのだろうか? 村上龍の「五分後の世界」とかディックの「高い塔の男」では、実際の歴史とは別の歴史があったならばという想定での物語だからそれでいいのだが、「1Q84」は現実とほとんど変らない世界である。
 警察官の制服が変る原因となった「あけぼの」の事件は1Q84の世界での出来事である(1984年の世界にいた青豆は知らない)。しかし天吾も戎野先生も知っているのだから二人ははじめから1Q84の住人である。では青豆と天吾が10歳でであった時、二人はどちらの世界にいたのだろうか? 天吾はいつ1Q84の世界に来たのだろうか?
 青豆はbook1の途中で月が二つであることにきづく。天吾はbook2の最後にそれに気づく。しかし1Q84の住人の全員が二つの月をみているわけではないらしい。どうも選ばれたひとだけがそれを見るらしい。リトル・ピープルが空気さなぎを作ったときに月は二つになったようである。リトル・ピープルというのが何なのかよくわからないが、それは世界が平板なものではなく、奥が深いことを象徴する何かであるらしい。とすれば月が二つであることが見える人は世界の深層、表面的には見えない何かを見ている人なのである。
 これがこの小説の一番問題なところである。読者は、青豆と天吾の物語に同化して、自分もまた月が二つある世界をみることのできるひとであると思うようになる。自分もまた深層の世界、多くのひとが表面的に生活することで見逃してしまっている深い世界を知る人間であると思う。なぜなら自分は傷ついているから。傷つくのは自分が深い世界に生きているから。
 これはほとんど精神医学における、物語による治療そのものである。読者に、あなたもまたハリー・ポッターのように額に傷をもつひと、選ばれたひとなのですよと告げるのである。何が問題であるかといえば、これが端的に嘘であるからなのだが、小説家とは嘘を語ることによって本当のことを告げるひとでもある。
 この小説に少しユングのことがでてくる。ユングのいったこと、あるいはフロイトのいったことは荒唐無稽としかいいようのないものであるが、それでも現在まで残っているのはなぜかといえば、それが有効だったからである。端的に一部のひとを癒したからである。臨床においては、臨床行為は正しいかどうかではなく、有効かどうかで判定される。そしてルルドの聖水は多くのひとを癒してきただろうと思う。キリストもまた何よりも癒す人として人々の信仰を集めた。村上氏もまたある種の癒す力をもつ物語を書けるひとである。
 麻原彰晃というひとは有能なヨガの修行者だったのだと思う。ある種の呼吸法をおこなうと容易に神秘体験のようなものを得ることができるらしい。それで弟子もまたそれを学ぶことによって神秘体験を得、自分が変っていくことを感じた。1Q84の世界、月が二つある世界に移ったように感じた。
 自分のもつ何かによって他人がかわっていくのをみること、ひとが経験することのなかで、これ以上の喜びをもたらすものは、ほかにあまり多くはないのではないかと思う(医療の危険性はそこにある)。麻原彰晃というひとは弟子が変っていくのをみて自分が何か特別な能力をもっていると(わたくしにいわせれば)錯覚したのだろうと思う。それで教祖になった。わたくしは村上氏もまた教祖になりかけているのではないかという懸念をいささか感じている。だから村上氏の本がいくら売れても、あまり神格化しないほうがいいと思う。ノーベル賞なんかもらわないほうがいいのではないかと思う。
 
 「1Q84」はすぐれた文学作品か?
 内田樹氏が「村上春樹にご用心」で、フランス語に翻訳された村上作品を日本語に戻すということをしている。実に効率よく原文に近い文に戻っている。一方、太宰治のフランス語翻訳というのも紹介しているが(そういうものがあるのである)、それを読んだフランス人はこの何が面白いのだと思うのではないかと推測されるような代物である。有名な「桜桃」の冒頭。「子供より親が大事、と思いたい。/ 子供のために、などと古風な道学者みたいな事をを殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。」 これが翻訳できるだろうか? フランス語訳からの内田氏の直訳。「両親は子供に優先する、というふうに私は思いたい。/ 古代の哲学者たちのように、まず子どものことを考えるべきだ、と私も思ってはみたけれど、そうもゆかない。両親は子どもよりも傷つきやすいのだから。」 このフランス語訳(の内田氏の直訳)が伝えているのは意味だけである。太宰治の原文のもっている多くのものがそこでは失われてしまっている。「子供より親が大事、と思いたい」というのは五七五であることを内田氏は指摘する(いわれてみれば確かにそうである。「この土手を登るべからず 警視庁」)。太宰の文のもつテンポのようなもの、それをふくめて翻訳することが果たして可能なのだろうか。
 同じ「ご用心」で、松浦寿輝氏の村上氏の「東京奇譚集」の批判が紹介されている。「言葉にはローカルな土地に根ざしたしがらみがあるはずなのに、村上春樹さんの文章には土も血も匂わない。いやらしさと甘美さとがないまぜになったようなしらがみですよね。それがスパッと切れていて、ちょっと詐欺にあったような気がする。うまいのは確かだが、文学ってそういうものなのか」というものである。この批判に対して内田氏は、「「ローカルな土地に根ざしたしがらみ」に絡め取られることは、それほど文学にとって死活的な条件なのだろうか」と反論し、「村上文学が世界各国に読者を獲得しているのは、それが国境を越えて、すべての人間の琴線に触れる「根源的な物語」を語っているからである。他に理由はあるまい」といっている。
 松浦氏がいっている「ローカルな土地に根ざしたしがらみ」というのは日本語のことなのだと思う。村上氏は日本語で書いていながら「普遍語」でかいている。それでいいのだろうか、というのが松浦氏のいいたいことなのではないかと思う。
 というようなことを考えるのは、今、水村美苗氏の「日本語が亡びるとき」を読んでいるからである。水村氏は、ジョン・アップダイクが、「英語で読んでいる限り、漱石がなぜ日本で偉大な作家とされているのかさっぱりわからない」と書いているのを、悲憤慷慨している。漱石を評価する外国人は日本語が読めるひとだけで、日本語が読めない外国人のあいだでは漱石はまったく評価されていない、という。
 水村氏によれば、真にすぐれた文学は翻訳不能なのである。とすれば翻訳され多く読まれている村上作品は「文学」ではない、ということになる。「捉えにくい個別的な〈現実〉を描こうとする代わりに、人類に共通する神話的世界を描こうとしている。・・古くさい壮絶な善悪の戦いが氾濫」しているというのは村上作品の批判ではなく、ハリウッド映画の批判なのだが・・。
 《国境を越えて、すべての人間の琴線に触れる「根源的な物語」》というのも一つのいいかたであり、《捉えにくい個別的な〈現実〉を描こうとする代わりに、人類に共通する神話的世界を描こうとしている》というのも、また一つのいいかたである。「西洋語に訳された日本文学を読んでいて、その文学の真の善し悪しがわかることなど、ほとんどありえないのである。わかるのは主にあらすじの妙であり、あらすじの妙は、文学を文学たらしめる要素の一つでしかない」とか、「(日本で)漫然と広く流通している文学は・・「女子供」のためのものである」などというのは、読んでいて「日本語が滅びるとき」が去年刊行された本であるにもかかわらず、「1Q84」批判であるようにも思えた。
 荒川洋治氏は「文芸時評という感想」で、村上氏の「神の子どもたちはみな踊る」を絶賛し、「文章もすみずみまで神経がとどき、読者を十分に楽しませ、憩わせ、考えさせる。そして作品はその奥に「闇」をもつ。こういうものは他にはみあたらない。そこには読者に向けての「想像力」があるのだ。まばゆいばかりに、それがはたらいているのだ。こうなってみるとこの日本では村上春樹だけが小説を書いているのだといえるのかもしれない」とまでいっている。一方、「海辺のカフカ」については批判的で、その文体を「文学の読者ではない人(あるいは日本語のあやに通じていなくてもいい日本人以外の読者)のために発想された「文体」」といい、なにかひとつのことでも「渾身からいおうとするとき、文学的にも思索的にも、につめようとするとき、この「文体」は本来じゃまになるはずのものだ」といっている。
 確か、内田氏の本で知ったのだと思うが、カミュが「なぜ小説を書くのか?」ときかれて、「文学のなかで、小説だけが翻訳可能だから」と答えたというのを想い出す。
 「1Q84」はとんでもなく売れているらしい。とすれば、「文学の読者ではない人、日本語のあやに通じていないひと」もまたたくさん読んでいるに違いない。そういうひとが読むのは「あらすじの妙」「物語の妙」だけなのだろうか?
 「この日本では村上春樹だけが小説を書いている」のだとしても、「神の子どもたちはみな踊る」や「東京奇譚集」などの短編のほうに、村上氏の力はよりはっきりと出ていて、長編小説は物語の力に少し頼りすぎていて、小説としてのあじわいや手触りといったものはいささか乏しいものとなっているようにおもえる。
 「1Q84」でも「平家物語」や「サハリン島」、あるいは「猫の町」の話などが、随分とこの小説を小説らしくしている。さらには「不思議の国のアリス」から「七人のこびと」までが加わる。そういうい夾雑物を除くと、この小説は案外と単調なものとなってしまう。長編小説では、氏はまだどこか無理をしているところがあるのかもしれない。

 (「日本語が亡びるとき」はまた別に独立して論じたい。)
 

1Q84 BOOK 1

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村上春樹にご用心

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東京奇譚集

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日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

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文芸時評という感想

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神の子どもたちはみな踊る

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