村上春樹「1Q84」(4)エルサレム賞受賞スピーチ

   新潮社 2009年5月
   
 われわれはなぜ小説を読むのだろう? もちろん、こういう疑問はすでにおかしいので、小説を読まないひとはたくさんいる。立花隆氏はどこかで、作り話など読むひとの気がしれないと言っていた。吉田健一氏も、何かいいたいことがあるときに、わざわざ法螺話をでっち上げるなどという面倒なことをするひとの気がしれないと言っていた。もっとも夫子自身もちゃっかりと小説を書いた。それはとても奇妙な小説だったのだけれども。吉田信者であるわたくしもあまり小説は読まない。たぶん年に10冊以下だろう。そのくせ小説や文学を論じた文章を読むのは好きで、読んでもいない小説について何だかすっかりわかったような気になっているものも多い。今年になって読んだのはシムノンの小説と吉行淳之介の「技巧的な生活」、あとは「パルムの僧院」(読みかけ中断中)、この「1Q84」で4冊目である。
 だから小説について何かいえるほど、小説を読んではいない。それでも「1Q84」という小説が、たとえば「戦争と平和」といった小説とはまったく肌触りが違うことはわかる。多くの小説ではわれわれは登場人物に感情移入をしながら(反撥しながらということもあるかもしれない)読んでいくのではないだろうか(「風の歌を聴け」はそういう小説だと思う)。しかしこの小説の主人公である青豆も天吾もさして魅力ある登場人物とは思えない。むしろその周囲にいる小松という編集者、あるいは牛河という奇妙な人物、あるいは戎野先生、タマルという用心棒などがこの小説の厚みを作っている。さらに、挿入される「平家物語」やチェーホフの「サハリン島」も効果的だし、例の?ヤナ−チェックのシンフォニエッタもある(これは、自分の小説は「平家物語」やチェーホフの小説ほど古典的なものとしては残らないとしても、ヤナ−チェエックの音楽くらいには後世に残るという喩なのだろうか?)。
 もしもこの小説が青豆と天吾の愛の物語だけであったとしたら読めたものではない。二人の話は、どうみても小説の肉ではなく、物語の骨である。キングが「IT」の巻頭に書いている「子供たちよ、小説とは虚構(つくりごと)のなかにある真実(ほうとう)のことで、この小説の真実(ほんとう)とは、いたって単純だ − 魔法は存在する。Kids, fiction is the truth inside the lie, and the truth of this fiction is simple enough: the magic exists. 坊やたち、作り話というのは嘘からでた真のことなんだ。じゃあ、これから話してきかせるお話のまことは何だろう? 世の中には不思議なことが本当にあるということさ」というのは、そのまま「1Q84」にも当てはまるのではないだろうか? 青豆と天吾はなにがしかの魔法・不思議を成就する。
 今年2月におこなった「エルサレム賞受賞スピーチ」で村上氏はこういっている。「小説家は職業的な嘘つきである。だが嘘をついても、誰もそれを非難はしない。むしろ嘘が大きくてうまいほど褒められる。それは、小説家が語るうまい嘘、まるで本当のような嘘には魔力があるから。それは真実を隠れているところから引きだしてきて、目に見えるようにしてくれる。真実を原型のままそのままでとらえることは難しい。小説家は、フィクションという形式を利用して、潜んでいる真実の一端でも示したいと願うのだ。」
 ほとんどキングと同じことをやや不器用に語っているのかもしれない。ある時期、小説は筋とか物語とかを否定する方向に走った。アンチ・ロマンなどというものもあった。現代音楽といわれるものが、一時、旋律とか調和的な響きとかに背をむけたのと同じ動きである。波瀾万丈の物語、あるいは旋律があり起承転結をもつ音楽などは単なる娯楽のためのものとされ、芸術とは無関係なものとされた。
 なんでそんなことになったのか? それは「ロマンティック」の否定なのだろうと思う。陶酔すること、溺れること、そういう方向は人間を碌な方向に導かないとして、醒めた冷静な方向をめざしたわけである。しかし文学者が(作曲家も?)アンチ=ロマンの方向に走っている間に、ひとは物語に対する耐性が低下し、まったく陳腐な物語にも感激して心酔するようなひとが多くでてくるようになった。その象徴がオウム真理教であると村上氏はしているようである。
 とすれば村上氏のめざすものは、人々が陳腐で稚拙な物語に耐性をもてるようにするための別の物語を提供していくこととなる(本書で用いられている比喩を用いるならば、ウイルスに対する抗体をつくることだろうか)。現代音楽でショスタコーヴィッチといった例外をのぞけばソナタ形式で音楽をつくるようなひとはまず見られない。それはソナタ形式が19世紀の《ある種ロマンティックな》世界観を反映したものだからである。20世紀の作曲家はソナタ形式とは異なる別の音楽の構成原理を、各人それぞれが追求することを強いられた。ヤナ−チェックの音楽もまたその試みの一つであったようである。
 外から与えられたものではなく、自分が自分のために作った各自の物語をもつこと、その手助けをすること、それが村上氏が(すくなくとも)長編小説を書くときにめざしていることのように思える。
 それならば、ドーキンスの「利己的な遺伝子」もまた一つの物語なのだろうか? ドーキンスが自分の説が一つの物語であるというような主張を受け入れるとは思えない。単なる一つの仮説に過ぎないというとは思えない。ドーキンスによれば、それは科学が指し示す事実なのである。しかし、「事実」などというものは存在しないというポスト・モダン派の言い分もあり、進化などというのはたんなる仮説にすぎないというキリスト教原理主義からの攻撃もある。ぐだぐだとわけのわからないことをいってひとを煙に巻いているポスト・モダン論者の言説をドーキンスは虫酸が走るほど嫌いなようであるし、一方、キリスト教原理主義ばかりでなく、キリスト教信者一般も自分が権力を握ったら全員アウシュヴィッツに送りたいと思っているのではないかと思えるほど嫌いなようである。ドーキンスの言説がわたくしなどにはいささか「狂っている」ように見えるのは、「科学により真実を知っている人間」=「正義の側にいる人間」という図式が透けてみえるように思えるからである。
 「約束された場所で」のなかの対談で、河合隼雄氏は「悪意に基づく殺人で殺される人は数が知れてますが、正義のための殺人ちゅうのはなんといっても大量ですよ。だから善いことをやろうというのは、ものすごく難しいことです。それでこのオウムの人たちというのは、やっぱりどうしても、「良いこと」にとりつかれた人ですから」といっている。わたくしは、ドーキンスもまた「良いこと」にとりつかれた人であるように思える。キリスト教原理主義をはげしく批判するが、自身は科学原理主義にとりつかれているように思える。
 「1Q84」のなかで、老婦人は青豆に「混じりけのない純粋な気持ちというのは、それはそれで危険なものです」という。「あなたは間違いなく正しいことをしました。しかしそれは無償の行為であってはなりません。」「なぜならあなたは天使でもなく、神様でもないから」と。
 「1Q84」の中で青豆がしている殺人は、オウム真理教のなかで「ポア」といわれていたものの喩なのであると思う。よくは覚えていないがこんな理屈であった。「このひとは生きていればいるほど悪をなし、罪を重ねていく業をもった人間である。であるからこの人の生を絶つことは、これから犯していくであろう罪を事前に防ぐことになり、功徳なのである」
 青豆は老婦人のことを、「この人は間違いなくある種の狂気の中にいる」と思う。「頭が狂っているのではない。精神を病んでいるのでもない。精神は冷徹なばかりに揺るぎなく安定している。実証に裏づけられてもいる。それは狂気というよりは狂気に似た何かだ。正しい偏見と言った方が近いのかもしれない」 だからこの老婦人はオウム真理教への批判として登場しているのであろう。しかし青豆は老婦人の代理人として行動するのである。そうすると青豆もまた狂っているのだろうか?
 「1Q84」の構造は、登場人物にはまだ幼いころに原初的な体験があり、その後の人生はそこからの回復をもとめる探求であるというものである。青豆も天吾も(あるいはほとんどの登場人物が)幼いときに大きな不幸を経験し、その中でえた例外的なわずかな至福の経験を支えに喪失感を胸に抱きながら生きている。大分前に読んでもうほとんど内容は忘れてしまったけれども天童荒太氏の「永遠の仔」に「1Q84」は似ているところがあるのではないかと思う。「1Q84」の読者層は「永遠の仔」の読者層と重なる部分があるのではないだろうか? 青豆は10歳の時の至福の体験を胸に、その後の人生はただ汚れを重ねていくだけであるとして、最後は自分を「ポア」していく。
 「エルサレム賞受賞スピーチ」で一番耳目を集めたのは、「一方に背の高い硬い壁がある。もう一方にそれにぶつかれば壊れてしまう卵がある。そういう時には自分はいつだって卵の側にいることを選ぶ」という一節である。それには註がついていて、「どんなに壁の側が正しく、卵の側が間違っていようとも」というものである。それで卵とは「それぞれがみな一つ一つ異なるかけがえのない魂がもろい殻の中にはいっている存在である」人間のことであり、壁とは「人間がつくったものであるにもかかわらず人間を抑圧するようになっているシステムのことである」という絵解きもされている。
 この受賞講演全体を読んだのは最近のことだが、最初、新聞で「壁と卵」の話を読んで、随分とベタなことをいうなあ、小説家ならもう少し広がりのある言葉を使えばいいのに、と感じた。今回、全体を読んでみて一番気になったのが、「それぞれがみな一つ一つ異なるかけがえのない魂がもろい殻の中にはいっている存在である人間」という部分である。随分と古典的な心身二元論のように思えた。大事なのはかけがえのない魂のほうであって、それを保護している殻、すなわち肉体のほうは二次的なものであるとしているように思えた。文人の中では屈指の運動家である村上氏にしては随分と奇妙なものいいである。たしかに卵の殻はもろく弱い。それは拳銃の小さな弾丸によっても、アイスピックのような道具によっても、あるいは目には見えないウイルスによってもいとも簡単に破壊される。それは人間に平等にあたえられた条件である。
 巻頭であっけなく殺される深山氏もまたかけがえのない魂をもった存在である。しかし、そうなのだろうか? 村上氏はまたこの深山氏の側にもたつのだろうか? 深山氏は卵であると同時にシステムの側に立つ人間でもある。「約束された場所で」での神田美由紀さんという女性、現世のものごとにはまったく価値を見いだすことができず、自分の中の精神世界を追求する以外のことにはほとんど興味を持てない女性のあつかいをみていると、この卵の比喩でのもろい殻というのは、肉体のことではなく、《自分の中の精神世界》のことではないかと思えてくる。その精神世界は生きていくうえで経験するさまざまなことで容易に傷つく。
 スピーチの最初のほうで、壁の例として爆撃機や戦車などがあげられ、卵の例として武器をもたない市民があげられるのでわかりにくくなるのだが、卵とは傷つきやすい魂のことであり、壁とはそれを傷つけるすべてのものをいうのである。だからここで村上氏がいっていることは、自分はいつまでも傷つきやすい魂の味方でいたい、ということである。村上氏によれば、オウム真理教は傷つきやすい魂のシェルターとして機能した(老婦人がDV被害者女性のシェルターを運営していることになっているのは示唆的である)。しかしオウム真理教はそれにもかかわらず、あのような顛末をたどった。自分はそれにかわる別のシェルターを物語として提示したい、と村上氏はする。
 村上氏の世界的な人気の秘密はそこにあるのだろう。生きることで容易に傷ついてしまうひとはとても多い。そして何よりも村上氏自身がとても傷つきやすいひとなのであろう。氏の異常に隠遁的な生活もそれに由来するのであろう。村上氏の提供する物語は読者にこれは自分の傷のことを書いているのだという思いをおこさせる力をもっているらしい。それができるのは、村上氏が自分の個別の傷(村上氏が欠落という言葉でいうもの)をもっと一般的な傷として物語化できる希有な能力をもっているからなのであろう。そんな傷なんかボデイ・ビルをして体を鍛えればどこかにいってしまうと三島由紀夫ならいいそうである。しかし村上氏はフルマラソンを走っても、そんなことでは消えない傷をもつらしい。村上氏は三島由紀夫が嫌いで読み通せないといっている。
 ここでちょっと気になるのが、村上氏は傷つきやすいひとを描くという場所から、傷つきやすいひとを守るという立場への位置をかえてきているのではないかということである。つまりあれだけ隠れて生きていても、それでも《私的な人間》から《公的な人間》へと変貌してきているのではないかということである。なんだか《偉く》なってきているのではないかということである。
 それで想起されるのが、クンデラエルサレム賞受賞講演である「小説とヨーロッパ」(「小説の精神」所収)である。そこでクンデラは「フローベールによれば、小説家とはその作品の背後に身を隠したいと思っている者のことである」といい、「小説家は公的人間の役を引き受けることで、自分の作品を危険に陥れる」といっている。そうなると作品は小説家の行為、声明、立場の選択のたんなる附録とみなされてしまう危険が生じる、と。ここでクンデラは小説家と対立するものとして、ラブレーの造語である「アジェラスト」というものを出してくる。それは笑わぬ者、ユーモアのセンスのない者のことである。アジェラストは、真実は明瞭であり、すべての人間は同じことを考えているはずであり、自分たちは自分たちがそいうであると考えているものであると納得している。しかし、とクンデラはいう。人間が個人になったのは、真実の確信と他者の満場一致の同意を失うことによってであると。小説家はさまざまのイデオロギー的確信に異を唱え、神学者や哲学者の織りなした作品を破壊してしまう。ヘーゲルは普遍的「歴史」の精神を発見したが、フローベールは「愚かさ」を発見した。愚かさは認識の不足、知識の不足に由来するのではなく、人間の存在そのものに付随している。もちろん、個人が尊敬される世界はもろく、はかなく、アジェラストの軍隊の前にはひとたまりもないのだが、と。
 わたくしには、壁がアジェラストに、卵が小説家にそれぞれ対応するように思えるのだが、クンデラの講演のほうがずっとおよぶ範囲が広いと思う。オウム真理教は明らかにアジェラストの側だからである。それは笑わぬものであり、ユーモアのセンスを欠くものである。だからそれは恐い。「かけがえのない魂」へのこだわりが村上氏をオウム真理教を人ごととは思えないものとさせているのだろうと思うが、小説家はそれを人ごとと思わなければいけないのだと思う。
 村上氏は最近いくつかのインターヴューに答えている(「Courrier Japan 7月号、読売新聞6月16日・17日)。ベストセラーになって昂揚しているのかもしれないが(前者は、「1Q84」発売前のものだが)、著作の意図を語りすぎているように思う。もう少し「作品の背後に身を隠し」ていたほうがいいのではないかと思う。これだけ売れると、世の中を少しは動かせるのではという気になってくるのだろうか? ノーベル賞をとったらどうなってしまうのだろうかと、いささか心配である。
 
 註:村上氏のエルサレム賞受賞スピーチの原文はインターネット上のさまざまな場所でみることができる。ここではゴマブックスの「心をゆさぶる平和へのメッセージ」での原文からその訳文を参照して、自由に訳してみたものを使用した。
 

1Q84 BOOK 1

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