E・ボウエン「日ざかり」
新潮社 1952年
これはイギリスの女流作家エリザベス・ボウエンの1949年刊行の長編小説を吉田健一氏が翻訳したものである。
第二次世界大戦中のロンドンを舞台にしたもので、「主人公ステラの恋人であるロバアトは、ダンケルクで負傷した後に、内地勤務を命じられて、全体主義に共鳴している彼は敵側のスパイとなっているのを、ステラは知らずにいる。それにロバアトの行動を監視しているハリソンという防諜関係の男が加わって、ステラの家から逃亡を企てたロバアトの死で事件は終っているが・・」というのが吉田氏による粗筋である。だから恋愛小説といえないこともないが、そこには甘美なものは一切ない。ステラは離婚歴のある中年の女性でロバアトは一回り下のまだ青年である。その恋愛の周囲にステラの息子ロデリックとそれへの父の従兄からのアイルランドの家と土地の相続の問題、ロバアトの田舎の家の売却の問題などがからみ、そこに狂言回しとしてルウイィという下層の女性が登場してくる。ハリソンはロバアトを監視しているとともにステラをストーカー的につけまわすという二重の役を演じていて、スパイと監視という探偵小説的ともいえるこの小説を複雑な味わいにしている。
「ステラとロバアトといふこの二人の恋人が、もつといい時代に生まれたならばもつとよく互いに愛し合つたといふやうなことはない。彼等が彼等である為にはこの時代に生まれる他なくて、彼等が住んでゐる世界を現在の危機まで運んで来たものは彼等の血管の中にも流れてゐた。」「二人の人間が愛の恍惚状態にどれだけ閉ぢ籠もつてゐようとしても、或る動き、と言ふのは、第三番目の存在がいつもそこにある。・・ただ一人の人間の顔を見詰めるといふことは、却つて凡てのものに面と向はなければならなくなることなのである。」
この小節を読んで感じるのは、村上春樹氏の「1Q84」とか橋本治氏の「巡礼」などといった小説となんとかけ離れたものだろうということである。この小説にくらべると「1Q84」の天吾とか青豆という主人公は記号めいて感じられるし、「巡礼」の主人公はその人物である必然性はなく「任意の」という感じである。作者のいいたいことが先にあり、あとからそのために主人公が導入されてくるとでもいうのだろうか?(村上氏の「神の子どもたちはみな踊る」とか「東京奇譚集」などではそういう感じはしないのだが・・) 人間を描くことよりも、別の何かを伝える手段として長篇小説が書かれているように思える。しかしこの小説ではステラやロバアトあるいはハリソンという人間がまず先にいる。小説というのはやはりそのようなものではないのだろうか?
イギリスの小説を読んでいると、土地と家が人間と同等の地位をしめていることを感じることが多い。「ハワーズ・エンド」とか「ブライズヘッドふたたび」とか。この小説もまた土地と家である。土地に根をはった人間が本物であり、そうでない人間(本書ではハリソンとルウイィ?)は偽物などというと語弊があるのだろうが。著者のボウエンもまたアイルランドにボウエンズ・コートという土地を相続した人ということである。
最初翻訳が手に入らずとりよせた原書(Vintage Classics)には「To Charles Ritchie」という献辞がついている(吉田氏の翻訳では省かれている)。原書に付されたロイ・フォスターというひとの解説では、この小説はボウエンの個人的な体験を色濃く反映したもので、戦時に経験したカナダの若い外交官チャールズ・リッチーとの恋愛がステラとロバアトの年齢差にもそのまま反映されている、などと書いてある。太田良子氏が訳した「エヴァ・トラウト」に付された年譜では、ボウエンは24歳で結婚しているのだが、34歳でハンフリー・ハウス、モーリス・バウラなどと恋愛、38歳でショーン・オフェイロンと恋愛などとあり、42歳でカナダのイギリス駐在大使チャールズ・リッチーと知り合い恋愛関係に、のちに生涯の友、とある。アランさんという夫は1952年に死んでいるのだが、離婚したとも書いてない。どうなっているのだろう。ボウエンさんというひとは恋多き女だったのだろうか? 1973年の死はリッチーさんが見守っている。よくわからない関係である。
この翻訳はかなり入手が困難である。めったに古書店にもでないようで、でると高い値がつく。それで最初原著を入手してみた。しかし「エヴァ・トラウト」の訳者の太田氏がいっているように、ボウエンの小説は「閉口するほど難しい英文で書かれて」いて、到底わたくしの英語能力では読めなかった。とにかく精緻かつ細密な描写の連続なので、すらすら読める「1Q84」などと違ってとても歯応えがある。現在の時流にはあわない小説かもしれない。数年間復刊をまっていたのだが、それほど多くの読者が期待できる本ではないのかもしれず、今後も復刊は難しいかもしれない。しかし一部の小説好きには、この濃密さがたまらないのではないかとも思う。1967年に刊行された集英社の「世界文学全集15」には、ボウエンのもう一つの代表作といわれる「パリの家」が収められている。こちらは容易に入手できそうである。こんどはそれを読んでみたい。
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