河上徹太郎「有愁日記」

 
 いま、河上徹太郎の本を読むひとがはたしてどのくらいいるのだろうか? わたくしも、吉田健一のお師匠さんでなければ読んでいなかった可能性が高いように思う。
 この本は昭和45年(1970年)春の刊行にされたもので、前年の「新潮」の1月号から12月号まで連載されたものを本にしたものである。布装の本が蓬色の箱に収められている。
 河上氏の本のなかでも本書が特に記憶に残っているのは、「象徴派的人生(二)」という章の末尾に、

 それから紹介したいのは、吉田健一君が最近「ユリイカ」に連載してゐる「ヨオロツパの世紀末」といふ長編論文である。これも前世紀の頽廃から推して、近代ヨーロッパ文明の爛熟を十八世紀におかうとするものらしい。(中略)この論文は吉田君の書くものでも従来と格段の円熟を示すもので、文明全体の核心を衝き、一寸類のない近代文明史が出来さうである。

 とあったためで、「ユリイカ」なんて見ていなかったし、吉田氏は「余生の文学」なんて題の本を刊行したばかりで、書きたいことはもうみんな書いた、これからは繰り返しで、後は余生だ,みたいなことを書いていたので、これから一段の円熟した作が出るなんて思いもしていなかった。それでその年の9月に刊行された「ヨオロツパの世紀末」を読み心底おどろいた。吉田氏のその後の旺盛なというか、ある意味異常な執筆については誰もが知るところである。
 それでこのヨーロッパ近代の歴史を論じた「有愁日記」の本文のほうで覚えているところはいうと、「ユダと現代風景」という章の以下のようなところなのである。山歩きから自宅に帰り、玄関わきにあるファイアー・プレースで薪を燃やそうとする話である。「薪がよく燃える燃えないでどんなに御機嫌が左右されるか、それは経験者なら分かるであらう」と氏はいう。

 雑多な薪をいくつか並べ、これでうまく燃え上がるだろうと火をつけて見ると、中で一本どうしても一緒に火がつかない木があることがある。見ると生だつたり、湿つてゐたりするのだが、さういふのは隣りと協調しないで、ひとりでくすぶつてゐるだけでなく、折角燃えようとする隣りを牽制する作用を持つてゐる。少し位置を変へて空気を通はせるが、周囲となじまない。業を煮やして私は思はず、
「まるで左翼だ。」
 と呟いた。傍にゐた若い友人が、
「なるほど。」
 と私の気持を分つてくれた。
 こんな独り言に属する放言をここへおいては、憤懣や誤解を招くことは必定だが、私もその時、釈明するやうに連れにいつた。
「いや、ぼくはこの木からユダつて男のことを思ひついたんだ。ぼくにいはせると、ユダは左翼なんだ。」
 やがて「ユダ」も衆寡敵せず、つひに燃え出した。然し消えないやうに終始気をつけてゐねばならず、しかも燃え上つても余り火力の足しにならなかつた。

 河上氏はユダを合理主義者であるという。知性による功利主義でもある。秩序と建設と前進による勝利。
 さて、河上氏がいう左翼とは?

 彼等は紳士であり、つき合つてあたりはよかつた。然し冷たかつた。その自信に私は辟易した。その結果決定的な不満は、彼等が信じられないことであつた。又彼等の方でも人を信じないことであつた。といふのは彼等が嘘つきだとかあてにならないとかいふのではない。本質的に溶け合つて来ないのである。(中略)彼等はいはば人情不感症なのである。

 たまたま覚えていた部分を抜き出してみているだけなのであるが、今も変わっていないように思う。現今の政治の動きを見ていると、人を信じることができない人間は他人からもまた信じられることもないということを証明しているだけなような気もする。しかし、そんなことを書いても何の役にも立たない。
 さて、吉田健一の「文學の楽み」の「新しいということ」の章に、

 ・・おゝ、アルプスの氷河が浄い花崗岩の岸壁を軋りゆくその接触よ。天上の星の運行の如く、崩れゆく万華鏡の如く、刻々変りゆく貌よ。汝の名は「時間」又の名は「倦怠」! 言葉はその間隙から抜け出て、春孵つた羽蟻の群れの如く、次々に昇天して遥か天界なる道理の許に憧れ赴く。おゝ、旋回! おゝ、眩暈!

 という文が引用されていて、出典が示されていない。誰のどこにある文章なのだろうと気になっていたのだが、ある時、これが河上氏の初期の「自然と純粋」の中の「羽左衛門の死と変貌についての対話」の中のソクラテスの台詞であることがわかったときは、とても嬉しかったものである。河上氏も若い時はこういう文を書いていたのである。
 

有愁日記 (1970年)

有愁日記 (1970年)