今日入手した本
- 作者: 秦郁彦
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2011/05
- メディア: 単行本
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タバコ問題では毀誉褒貶の人、平山雄氏のことが主に論じられている。例の受動喫煙の害について言い出したひとである。本書によれば、喫煙者が吸い込むのが主流煙、吐き出すのが副流煙で、より有害なのは後者とされているが、わたくしの理解では、副流煙とはタバコを吸わずに手に持ったり、灰皿に置いたりしたときに発生する煙で、吸い込む時よりも低い温度で燃えるので、その時により発がん性の高い物質が作られるということなのでないかと思う。そういうこともあるかもしれないが、副流煙だって圧倒的に多く吸い込むのは喫煙者であろうと思うので、それが周囲の人が大きな影響を及ぼすというのは眉唾なのではないかという思いが以前からある。平山氏存命のころ、癌学会で氏の発言をきいたころの印象では、平山氏は孤軍奮闘というか誰にの相手にされない話を一人うまず語り続ける変人という扱われ方であったように思う。いまでいえば近藤誠氏のようなものだろうか? 平山氏について言われていたことは、氏の疫学的発表の根拠となる生のデータを氏は決して公表しないというようなことで、そのため氏の発表するデータの信頼性ということについて多くの人が疑問を持っており、それで信用されていないように思えた。疫学とは相関関係をいうことはできても、因果関係については何も主張できない学問で、そもそも副流煙どころか主流煙であっても、動物実験では死ぬほどタバコを強制的に吸わせても肺がんをつくれないのだそうである。そもそもタバコがコロンブスによって西欧にもたらされてからすでに五世紀、しかし、前世紀までは肺がんはきわめて珍しい病気であった。だから肺がんの増加は実はタバコではなく自動車の排気ガスであり、タバコは自動車会社が自己の責任から世間の目をそらすための犠牲の羊であるという説が横行することにもなる。喫煙率はどんどん減っているのに肺がんはどんどんと増えてきている。副流煙どころかタバコが肺がんの原因という説すら科学的にはきわめてあやしいらしい。(咽頭がんや喉頭がんは疫学的には肺がんよりさらに濃密な相関がしめされており、またタバコがCOPDの原因となることも明らかであると思うので、タバコがかなりの疾患の原因となりうることは確かだろうと思っているが。) 実際、平山説は当時国際会議では袋叩きに近い扱いだったらしい。しかし、時は流れ、平山理論は禁煙運動家の間で「神の福音のように」もてはやされることになる。
WHOには狂信的な健康絶対主義者が巣食っているのだそうである。その代表として一時期事務総長であったブルントラント女史というひとが紹介されている。小児科医出身の元ノルウェー首相なのだそうである。彼女はタバコの煙と電磁波が大嫌いなのだそうで、最後の自分の仕事は電磁波規制と宣言しているのだそうである。そういえば最近、携帯が健康に悪いかもとかいう話が報道されていた。
いやなことが書いてあって、タバコ撲滅運動はかなりの成果を生んだので、次の目標はアルコールなのだそうである。ノルウェーの宗教は何だったろうか? ピューリタン主義というのはつくづくといやなものである。
鴎外と脚気については、以前、坂内正氏の「鴎外最大の悲劇」という本を読んで以来興味をもっている。鴎外というのは実にいやなひとであったろうと思う。漱石のほうがずっといいひとであったのではないかと思う。山崎正和「鴎外 闘う家長」での鴎外像は実に美しいが、あそこに書かれた鴎外像はほとんど山崎氏のポジティブな自画像なのであり(ネガティブな方は「舟は帆舟よ」)、よく考えてみれば、家長というのは、保護する人なのであり、自分以外を子供あつかいしているのであるから、なかなかいい気な話でもあることになる。
- 作者: 四方田犬彦
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2010/09/28
- メディア: 単行本
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「恋愛の終わり」という文の中に「恋愛というのは一種の才能のようなもので、できる人にはできるし、できない人には一生かかってもできない。それを無理に試みようとしたとき、破局が訪れることになる。わが身に恋愛をいう義務を背負わすことによって不幸に陥ってしまう人々が、何とたくさん存在していることか」とある。恋愛というのは神秘体験のようなもので、むこうから襲ってくるものであって、襲われたら仕方がないというようなものなのではないだろうか? 才能の問題ではないように思う。別にロラン・バルトの「あらゆる恋愛に終わりを告げるのは性交である」という警句?も論じられている(それも真面目に)。バルトはそれを本気で言ったのだろうか? 警句というは真面目に論じるのはルール違反なのではないだろうか?
読んではいないが、四方田氏には由良君美との関係を書いた「先生とわたし」とかいう題名の本もあったように思う。それで吉良氏の「みみづく偏書記」とか「みみづく古書市」とかを本棚から出してきてみた。吉良氏のような偏屈な本読みというのはもう絶滅に近いだろうか? ラヴジョイの「存在の大いなる連鎖」だとか(わたしは荒俣宏氏の本で知った)、バークの「動機の文法」だとかといったなつかしい本が紹介され、山口昌男氏の本への言及も多い。「吉田健一の不思議な文体」というのもあった。「現代日本出版界の特有のモーレツ拙速主義は、ほとんど書物と称しえない安手のペーパー・バック本のパルプの山を生産してきた」という文が書かれたのが1971年である。現在の状況を見れば憤死するのではないだろうか?