(17)江戸っ子

 鴎外と漱石では作風が非常に違っていて、例えば「坊っちゃん」の主人公のような愉快な人物は鴎外には書けなかった。漱石に出来て、鴎外に出来なかったことがあったのは当り前であるが、それにしても漱石坊っちゃんは、この二人の作家に見られる性格的な違いを鮮かに示している。こういう無責任な人物は、鴎外には書けなかったと言い直してもいい。又場合によっては平気で無責任になれるから、このように痛快に振舞えるのであるが、同時にそれは、ものをとことんまで考えるのを面倒臭く思う江戸っ子気質の現れでもある。

 「文学人生案内」の「文学に現れた男性像」から。
 長谷川郁夫氏の「吉田健一」の記載によれば、「文学人生案内」は、「人生」という雑誌に連載された「名作人生訓」と「婦人公論」に掲載された「文学に現れた男性像」をあわせた一冊として昭和32年に刊行されたものである。小説を読んでそこから人生訓をえるなどというのは吉田健一のもっとも嫌うところであるので、「名作人生訓」だとか「文学人生案内」だとか、なんだか氏にそぐわない感じのあるタイトルだが、頼まれたらどんのなものでも書くというのも氏の処世の態度であったらしい。上に掲げた文でもわかるように、いいたいことを書いている。
 昔あって今ないものの一つに人生論というのがある。昔、といってもわたくしが中学生のころには人生論というようなタイトルの本がたくさんあった。まだ人生などというものが何もはじまっていない中学生がそんなものを読んでどうするのだというのであるが、たぶん一高の学生が「ああ玉杯」などといっていたのと同じ乗りであったのではないかと思う。トルストイのものとか、白樺派の誰かのもあったように思う。
 わたくしは東京生まれの東京育ちであるが、父は群馬の出であるし、わたくしはほぼずっと山の手に住んできているので、本来下町に三代以上住むことが条件であろう江戸っ子ではない。しかし「ものをとことんまで考えるのを面倒臭く思う」人間であることは間違いないので、そういう点では江戸っ子であるのかもしれない。
 漱石が「寂しい子」であるとすれば、鴎外は「寂しい父」であったのかもしれない。だから、坊ちゃんは清に甘えることが出来、鴎外は「闘う家長」(山崎正和)として甘えを禁欲して生きたのかもしれないが、では健一さんが父だったかといえば、父は吉田茂のほうであって、健一さんは子どものほうであるとしかわたくしには思えない。健一さんには随分と子どもっぽいところが終生あったと思うので、巷でいわれている「訳知りの大人の文学者」というような像にはなかなか納得できないところがある。
 「暴力はいけませんとか何とか言って抗議する赤シャツとその連れに、拳骨と卵の雨を降らせる場面は、助六の啖呵に劣らず、我々に胸がすく思いをさせてくれる。併し赤シャツや野だいこは、そんな目に会わされることでどうなる訳ではなくて、坊っちゃん山嵐という二人の正義漢がなくなれば、学校でもどこでも、仕事が一層し易くなり、一面から見るならば、これは学校にいられなくなった二人の正義漢の負けである」などというのは見方によっては、随分と世間的な人生訓でもあるが、おそらく健一さんがいいたかったのは「地味」とか「地道」というような方面の何かで、坊ちゃんには確かにそういう方面への志向はみられない。宵越しの銭をもたないことを信条とする江戸っ子はそういう方向への志向を欠くのである。
 一方、「舞姫」の主人公の太田は「坊っちゃん」とは対照的で地味で目立たない。では太田は赤シャツの系列のひとかといえば、もちろんそういうことではない。
 人生訓だとかしゃちこばることもない。「坊ちゃん」は面白い小説なのだから、それで十分ともいえる。そこに出てくる人間たちはみなそれぞれに鮮やかである。これだけ短い小説でありながら、印象的な人物を多く描けたのだから、小説としてもう十二分に成功といえる。そこから無理に人生訓など引き出すことはないのだと思う。