(4)自然

 この詩(シェイクスピアソネット第18番)には、漸く沈み掛けてゐて、いつかは沈むとも見えない太陽の豊かな光線が空中に金粉を舞はせてゐる英国の夏の黄昏がある。我々は東洋に生れて、かういふ濃厚であると同時に自然のまま美しい現実を、西洋の詩や音楽、或は絵を通してしか経験したことがない。

 「英国の文学」の最初の章「英国と英国人」の一節である。「英国の文学」は翻訳以外で吉田氏の書いたもので評価された最初の本であると思うが、現在われわれが読んでいるのは後に文章に大幅に手を入れたもので、最初に刊行されたものとは相当に違ったものであるということである。それでも当時、これを読んだ人はびっくりしたのではないかと思う。少なくともわたくしは、「真夏の夜の夢」の真夏というのが6月の半ばであるとか、このイギリスの自然の6月半ばの絢爛豪華があるからこそ、ソネット第18番の「Shall I compare thee to a summer's day? / Thou art more lovely and more tmeperate」の詩句が生きるというようなことは考えたこともなかったので一驚した。われわれは夏ということばから自然の美しさは想起しないのである。
 そして同時に「春から秋に掛けての英国の自然が、我々東洋人には直ぐには信じられない位、美しいならば、英国の冬はこれに匹敵して醜悪」であり、その冬が1年の半分を占めるという指摘にも驚いた。われわれの四季の感覚と英国人の四季の感覚はまったく異なるということなど全然念頭になかったのである。さらに「如何に美しいものにも対抗することが出来る忍耐力といふことが、英国人の国民性に認められる一つの特徴であると言へる」という指摘にも圧倒された。
 われわれは四季というと「花鳥諷詠」といったものをすぐに連想してしまう。吉田氏が論じる英国の夏は「夏の風物詩」などといったものとはまったく縁のないものなのである。
 わたくしが吉田健一を読み出して最初に感じたのが、氏が論じる文学というのが極めて肉体的なものであるということだった。太宰治とか吉行淳之介とかを読んできていたので、強靱な肉体といったものを文学からイメージすることはまったくなかった。そしてこの「英国と英国人」の章から同時に感じたのは「生活」ということで、太宰治からも吉行淳之介からも「生活」ということを感じることもまたなかった。あるいはあったとしても「生活」というのは「貧乏」といったことと結びつく何かであって、暑さ寒さといった肉体的な感覚とは結びつくものではなかった。
 ごく初期の習作をのぞけば、吉田氏の書いたものに文学青年的なものは見られない。日本の文学の中心にいたのは「文学青年」的な人たちで、小林秀雄だって「文学青年」を否定する文学青年というきわどい芸風の文学青年だった。つまりいくつになってもみな青年であり続けたわけで、そういう中で吉田健一という人が長く傍流であり続けたのは当然のことだったのであろう。
 わたくしが若いころ周囲にあった全共闘運動というのも青年の運動なのだった。そういうものとは違う何かを求めていたということがあったので、吉田健一に惹かれたのだろうと、今になって思う。