中井久夫さん

 中井久夫さんが亡くなられたらしい。
 中井さんの本は随分ともっている。50冊くらいはありそうである。
 最初に氏の名前を知ったのは、1990年に刊行された「吉田健一頌」(書肆 風の薔薇)に収載されていた丹生谷貴志氏の「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という奇妙なタイトルの論によってではなかったかと思う。
 そこで丹生谷氏は吉田健一の文学を中井久夫のいう分裂病における「偽りの静穏期」のようなものだったのではないかとしている。「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」というのは、中井久夫氏の論文のタイトルで、精神分裂病患者の発症直前に短時間現れることがある静穏期について論じたものらしい。その「静穏期」は短時間であり多くはそのまま発症に至るのだが、この「静穏期」に踏みとどまった人として、中井氏はヴァレリー、ヴィットゲンシュタイン、リルケマラルメ、ユンク、マックス・ウェーバーカントールなどの名前をあげているらしい(この論文自体は、わたくしは読んでいない)。
 丹生谷氏は、吉田氏の晩年の著作もこの「静穏期」にとどまろうという試みに近いものとしてとらえている。ここでの丹生谷氏の論は、それまであった篠田一士氏やあるいは丸谷才一氏や池澤夏樹氏の西欧文学の正統につらなる文学者、文学青年的でない健全な市民の文学といった見方への疑義の提示になっていると思う。

 ここは吉田氏を論じる場ではないが、あえて述べたのは、中井氏の「西欧精神医学背景史」なども、「狂」への傾きというのを自身に感じていたひとだから書けたもので、だからこそ氏は、精神の安定のため、ヴァレリーの「若きパルク」や「カヴァフィス詩集」「いろいろずきん」の翻訳などをしたのであろう、とわたくしが感じるからである。
 「分裂病と人類」(東京大学出版会 1988) 「西欧精神医学背景史」(みすず書房 1999) 「治療文化論」(岩波書店 1990)などいずれもとんでもない本である。
 「西欧精神医学背景史」の「あとがき」で氏はそれを書いている間、「私はほとんど物狂いの状態にあったに違いない。」と書いている。そうなのであろう。この本は精神科医療に関心がある人以外にも、「西洋」というものにいささかでも感心のあるひとには必読のものと思う。
 たとえばゲーテファウストがなぜ読み継がれているのか? 魔女狩りの問題。森の文化の問題。日本の森の文化を根こぎにしたのは浄土真宗であるという指摘。また、尊王攘夷の倒幕運動から自由民権運動、さらに大陸浪人から、マルクス主義者という系譜。

 わたくしは「分裂病と人類」で鴎外の「沙羅の木」を知った。

 褐色(かちいろ)の根府川石に
 白き花はたと落ちたり
 ありしとも青葉がくれに
 みえざりし さらの木の花

 中井氏の本からさまざまなことを教えられてきた。

 確か斎藤環氏が、中井氏が日本の精神医学界にもたらした最大の功績は、日本の精神医学界がセクト化するのを防いだことだというようなことをいっていた。中井氏には患者さんの脈をとっていると患者さんの脈の数に氏の脈が同期するといった「神話」もあるようだが、あまり神格化するのも氏のためにならないと思う。

 なお、「看護のための精神医学」や神戸の震災の体験記なども大変示唆に富むものである。

 これからしばらく、また氏の本を読み返すことになると思う。