宮崎哲弥 呉智英 「知的唯仏論」

      新潮文庫 平成27年12月
 
 2012年に刊行された単行本の文庫化。
 呉氏、宮崎氏、ともに何でも知っているひとで、いわゆる知識人である。本書のタイトルからして知識人そのもの。
 呉氏は印象では何だか仙人みたいな欲望の枯れたとでもいうか、現世を超越したような感じの方である。自分の言説が世の中を変える可能性について何ら幻想を抱いていないというか、その可能性はまったくないことを自覚しているが、それでも知識人の矜持として思うことはいうというような感じ。一方の宮崎氏はもう少し娑婆っ気があるというか、ひょっとすると自分の言説で世の中に小さな爪痕くらいは残せる可能性がゼロではないと思っているようなところがあると感じる。
 宮崎氏は仏教徒なのだそうだが、呉氏は儒教徒?なのだそうで、両者とも東洋の側の人ということになる。儒教は宗教ではないだろうが、では仏教が宗教なのかといえば、宮崎氏や呉氏のような知識の人からみたらそうではなく、認識論ということになるのだろう。宮崎氏が仏教徒であるといっても、仏陀の説いた認識論を自分は支持するということに過ぎないように感じる。
 わたくしは宗教は敬して遠ざけたい人間なので、仏教についてもなにも知らない。ほとんど唯一の知識が橋本治の「宗教なんかこわくない!」で、そこで治さんは「ゴーダマ・ブッダの得た悟りとは「我思う、ゆえに我あり」である」などというようなとんでもないことをいっている。つまり「自分の人生は自分のものだ」ということを言っているのだ、と。「そういう風に説明しないから、仏教というものがリアリティを失ってしまった」「仏教関係者は、少し反省をした方がいいと思う」という。本書のいっていることも同じようなことなのかもしれないが、治さんの本はオウム真理教事件をきっかけに書かれているので、「宗教とは、この現代に生き残っている過去である」なんてことが大胆に言えてしまっているが、この宮崎・呉の対談は9・11の後であるから、なかなかそう歯切れがよくはない。
 治さんは大乗仏教を論じて、「人間というのはどうしてそんなに物事を複雑にしてしまうのか」といっているが、この対談で滔々と語られる宮崎氏の薀蓄などは、まさにそういう感じである。ここでも唯識とか阿頼耶識がどうとかも論じられている。もちろん、と威張ることはないが、この言葉を始めて知ったのは三島由紀夫の「豊穣の海」にでてきたからで、そこで三島由紀夫(あるいは作中人物の本多繁邦)が縷々解説しているのを読んでも、もう何が何だかさっぱりわからなかった。読んだのが二十歳過ぎであるからほとんど四半世紀前である。そのうちわかるときもくるのかなと思っていたが、そのときはこなかった。
 もう一つの仏教についての知識は「浄土三部経」とか柳宗悦の「南無阿弥陀仏」とかの方面で、結局実現しなかったが、米国人が書いた英語の浄土宗入門書のようなものを翻訳する企画があり、その一部を引き受けさせれられて、必要上読んだ。しかし、ゴーダマ・ブッダは歴史上のひとであるが、阿弥陀さんというのは何だかそのはるか前にいたひとのようで、一体、どうしてと思った記憶がある。実はこのあたりは仏教業界のタブー的問題であるらしいことが本書を読んでわかった。ゴーダマ・ブッダという一個人である覚者が信仰の対象となるためにはそういうことが必須であったということらしい。「浄土三部経」などで、「第十八願」などというのを知った。どうも浄土経などを見る限り浄土宗というのは一神教である。ゴーダマ・ブッダが説いたことといささかでも関係があるのかよくわからない。
 ということで、この対談を読んでも仏教についても自分は縁なき衆生であると思うばかりであったが、トリビアの部分でいろいろと面白いところがあって教えられた。
 宮崎氏:「河合隼雄なる人物が日本のニューエイジ思想、ニューサイエンスのドンだったことがよくわかる」
 そうなのだろうなと思う。そして河合隼雄の信者?である村上春樹にもニューエイジ的なものへの親和が色濃くあるのだと思う。村上氏が多くの読者を持つ理由の一つがそこにあるのではないかと思う。
 宮崎氏:「村上龍氏もやはり気功みたいな超越的なパワーをソフトウエア化すると主張していた山岸隆に入れ込んで、共著本まで出していた」
 このエピソードは知らなかったけれども、「全共闘世代は超能力にヨワい」というのには考えさせられる。
 宮崎氏:「ドーキンスは輪廻転生説を除けば、仏教を高く評価している」が「ドーキンスのなすべきことは、なぜ、迷信というミームが近代以降も淘汰されず、生き延びたかの解明、でしょうに」
 要するに仏教は「知的」なひとには受け入れられやすいのだと思う。本書でもいわれているように、仏教は「受け容れなくてはならない前提が極端にすくない」わけだが、仏教が少ないというよりキリスト教のほうが三位一体説とか処女マリアの懐胎とかイエスの復活とかあまりにシュールな話が多くて、だからその信仰には飛躍が必要ということなのだろうと思う。
 宮崎氏:「ロレンスの「黙示録論」が吉本隆明の『マチウ書試論』の種本」「ロレンス「黙示録論」をジル・ドゥルーズが夫人とともに翻訳している」
 これはともに知らなかったが、「知の欺瞞」などではなはだ評判の悪いドゥルーズであるが、やはりどこか現代の問題を突いたひとだったのではないかという思いがわたくしにはある。そして吉田健一とドウルーズがどこかで通底しているのではないかという思いがずっとある。それはわたくしにもっとも説得的であった吉田健一論を書いた丹生谷貴志氏がドゥルーズ学者であるということからだけなのだが、吉田健一の説いたことは存外ポストモダンのそれと近かったのではないかという仮定をすてきれないでいる。わたくしが最初に触れた思想家が福田恆存なのだが、それは吉本隆明が氏を「右の陣営」のなかのまともなひととして江藤淳とともにその名を挙げていたからである。福田氏の神輿がロレンスであったことを考えると、なぜ若き日の吉本氏が福田の名をだしたのかが、ようやくこれを読んで腑に落ちた。
 対談のお二人、何でも知っているが、そのうちの知識の一つがマンガで、呉氏などはマンガ評論家でもあるらしい。わたくしはこの分野の知識は皆無で「エヴァンゲリオン」などといわれても何のイメージも思い浮かばないのだが、宮崎氏によれば、これはロレンス「黙示録論」を下敷きにしているとしか思えないような台詞やコピーが頻出するのだそうである。それを知れば、今度、「エアヴァンゲリオン」などといわれても少しは知った顔ができる。
 吉田健一がD・H・ロレンスをどう評価していたかは微妙だが(わたくしが覚えているのは健一さんがチェタレイ裁判で述べたという「猥褻とは他人の情事を嗤うことをいう」とかいう言葉である。その伝でいけば最近のマスコミなどは猥褻そのものである。谷沢永一が「人間通」で論じる日本人もきわめて猥褻な民族である)、吉田氏は広い意味でのブルームズベリー・グループの末裔ということにもなるように思うので、ブルームズベリー・グループを嫌悪したロレンスは苦手であっただろうと思う。吉田氏にはやはり貴族というところがあって、貴族はロレンス流の真面目あるいは生真面目からは距離をおくのではないかと思う。
 宮崎氏:「やはり吉本氏はヘーゲルマルクス体系内の思想家なのだと痛感しました。」 呉氏:「吉本は本当にヘーゲルマルクス系の人です。」
 わたくしには60年代の吉本氏と後年の吉本氏が同じひととは思えないところがあるのだが、ここでヘーゲルマルクス系といわれているのは「人間の知的好奇心や関心が、社会や歴史のほうにばかり向く」(呉氏)というようなことである。それと対立しているのが「この私」(宮崎氏)というもので、世界はある。しかしそれとは独立して「この私」がいる。「この私」はある時に生まれ、そのうちに死ぬのであるが、それは「その私」である個人には絶対的な存在であるが、世界の中ではまったくとるに足りない存在である、ということの問題である。
 吉本氏はもの凄く文学が読める人間でありながら、でも基本的な視座は社会や歴史のほうにあるということなのであろう。もしも世界が天国になったとしても、それでも「この私」の悩みは残るというのが文学の存在理由であろうが、マルクス的な見方でいけば「この私」が悩みを持つのは社会のせいであり、歴史に規定されるのである。ドーキンスというひとが何か間が抜けてみえるのは、氏の論からは「この私」という視座がほとんど感じられないという点にあるのではないかと思う。S・J・グールドのいっていることがはちゃめちゃでありながらもどこかで人をひきつけることろがあるのは、そこに「この私」という視座がつねに低音として流れているからなのであろう。グールドの言っていることはグールドなしではなりたたないが、ドーキンスのいっていることはドーキンスがいなくてもなりたつというような。
 本書でいわれていることの根底は、「この私」が残るかぎり「宗教」というものがまったくなくなることはないのだぞということのように思えるのだが、仏教というのは認識論を通じて「この私」と「社会と歴史」の双方を一挙に無化させてしまおうとものではないかと思う。
 西洋の困ったところは「この私」だけではなく「社会も歴史」もまたキリスト教に支配されてしまっているということで、マルクスの説だってキリスト教の終末論の裏返しであるし、ありとあらゆるところに宗教が浸潤している。だから文明を求めようとしたひとが宗教に対立したのは当然で、なんとか「原罪」意識をとりさろうとしたのである。わたくしが若いころ面白がって読んだ科学哲学でも過去の科学者がいかにキリスト教の視座からその説を唱えたのかということが楽しそうに説かれていた。つまり科学なんて「客観的」なもの(つまり「この私」抜き)では決してないぞ、ということである。
 日本は実に幸いなことにキリスト教が浸潤していないから、科学は客観的と平気で思われている。それで社会生物学論争などというのがよそ事で済んでいる。
 わたくしには最近の内田樹さんは絶不調のように思えるのだが、それはかつての氏の論の根底につねにあった「この私」がいつの間にか消えてしまって、もっぱら「社会と歴史」を論じるひとになってしまったからであるように思う。氏はレヴィナスのお弟子さんでレヴィナスユダヤ教のひとである。宗教が消えるはずはないのだが。わたくしが福田恆存からだんだんと離れるようになったのは、結局、福田氏は(そしてロレンスも)カトリックの変奏なのだなと思うようになったからであるように思う。
 しかし、やはりカトリックというのは魅力的ではあって、一番いけないのはプロテスタントなのではないかと思う。免罪符などは売らせておけばよかったのである。免罪符を売っていたお坊さんは自分は正義の側にいないことを深く自覚していたはずである。しかしそれを攻撃した側は自分の正義を疑っていなかっただろうと思う。なによりも困るのは正義の人なのである。
 本書を読んで、宮崎氏がサンデルさんの陣営のひとであることを知って、意外であった。ロールスをふくむアメリカの政治哲学というのは観念論の極北にあるように思うのだが。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

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