鹿島茂「ドーダの人、小林秀雄」(その3)

 
 すでに2回も論じているが、まだ「はじめに」までであって、本論は小林秀雄の文章は難解で理解不能ということろから始まる。そういう理解不能の文であるにもかかわらず、60年代・70年代の大学入試には小林秀雄の文章が頻繁に出題されたというのは何たること! と鹿島氏は慨嘆する。
 わたくしも若いころに小林秀雄を読んだが、いうまでもなく入試対策としてである。鹿島氏は小林氏の文章を理解不能というが、わたくしはわかったとはいわないけれども、入試問題の正解はどれかということは何となくでもわかることが多かった。散文を書く場合に第一に必要なことは論理的に書くことであろうが、わたくしが受験したころの現代文といわれるもので要求されたのは、論理とは別の文学的な飛躍というようなものを読みとる能力といったことであったような気がする。それを詩的といえば詩的なのかもしれないが、とにかく理科系的あるいは数学的な何かと対極にある何かを感じ取る能力のようなものがそこでは問われていたように思う。文学中学生から文学高校生で、小説などを読み漁っていたことが、そういう何となくわかる感覚を育てたのかもしれないが、おかげで現代文だけはいい点がとれた(あとは漢文だが、これは道徳教育の代用としてであろうか中学高校6年間、漢文の授業時間が多かったという環境のためである)。駄目なのは数学で、英語も駄目だったが、英文としては理解できなくても、この内容からすると正解はこれしかないなというような現代文の応用によってある程度は点をとることができた。そういうわけで何とか大学に潜り込めたのは小林秀雄に負うところが大きいかもしれない。そちらに足を向けては眠れない恩人ということになる。
 そして臨床をはじめて数年して、患者さんの訴えをきいていて、患者さんはこういっているけれども、本当に訴えたいことはそれとは別のことなのではないかというようなことが何となくわかることがあって、どうもそういうことに全然アンテナが働かないひとがいるらしいこともわかってきた。受験で物理数学が大得意だったようなひとはそういう方面にはだめな傾向があるように思う。
 ということで、文学的感性とでもいうしかない何かというのが、物理数学的な論理の世界とは独立して存在するということはあるのかもしれない。現在でそういう飛躍の多い文章を書くひととして養老孟司さんがいるように思う。氏の「バカの壁」が売れたのは、これは氏が書いたのではなく、そのしゃべったことを編集者がリライトしたものだったということが大きかったのではないかと思う。養老さんも若いころに小林秀雄を読みすぎたのかもしれない。
 鹿島氏は、「Xへの手紙」から以下のような文章を引用している。「利口さうな顔をしたすべての意見が俺の気に入らない。・・例へば俺の母親の理解に一足だつて近よる事は出来ない。母親は俺の言動の全くの不可解にもかゝはらず、俺といふ男はあゝいふ奴だといふ眼を一瞬も失つた事はない」 ここで「利口さうな顔をしたすべての意見」といわれているものが「物理数学的な論理」あるいは「理屈」であって、「母親のあゝいふ奴だ」という理解が「まるごと一挙に本質をつかむ」とでもいった「論理を超越した理解」なのである。これで想起するのが、中原中也の「幸福は/ 和める心には一挙にして分る」という「無題」という詩の一節である。論理は順をおって理解していく。しかし、そうではない「一挙に分る」という把握の方法があって、そちらのほうがずっと高級である、あるいは本質にせまれる、というようなことだろうか?
 鹿島氏は、ここでお袋がでてくるのは、本とか読書とか批評とかには無縁な生活をしているものの持つ叡智のほうがインテリの理屈を超えるというインテリ恫喝の手法としてであるといっているが、インテリは頭で考える、ふつうのひとは全体で考えるというようなことなのではないだろうか? ここで鹿島氏は、実生活での了解方法と文学的芸術的了解方法という二つの方法の対比をいっているが、小林秀雄がいっていることは、文学とは頭で作るものではなく、体全体あるいは生活全体で作るものがというようなことではないかと思う。
 しかし、鹿島氏は実生活と芸術を対比するという行き方が1980年くらいまでは当然とされていたが、1980年ごろからのサブカルチャー文化が、その区別をこわしてしまったという。それで小林秀雄も有効性を失ってしまった、と。だが、現代を覆うサブカルチャー一元論も、リーマン・ショック東日本大震災福島原発事故で崩壊の兆しをみせているという。いずれハイパーインフレがきたら一元論どこではなくなるぞ!、と。
 という駄法螺?をかました後、鹿島氏は、小林秀雄の駆使するさまざまなドーダの分析に入る。
 わたくしが本書を読みながら常に感じていたのは、小林秀雄を論じている時、鹿島氏の脳裏につねにあったのが吉本隆明のことではないかということである。吉本隆明もまた「ドーダの人」であるのか?
 鹿島氏は、小林秀雄の初期の評論「アシルと亀の子」という題のアシルがアキレス(アキレウス)のフランス語表記であり、これは「アキレスと亀」という有名なゼノンのパラドックスをいった表題であるにもかかわらずなぜアシルなどという表記をしたかについてこだわる。ここを読んですぐに思い出したのが呉智英氏の「吉本隆明という「共同幻想」」での、吉本氏の初期の論文「マチウ書詩論」でのマチウ書とかジェジュとかが、マタイ伝やイエスのフランス語読みであることについての呉氏のこだわりである。ここで呉氏はマウンティングという言葉を用いているが、これは鹿島氏の「ドーダ」と等価であろう。そして小林秀雄の母親(お袋)は吉本隆明における大衆の原像なのではないだろうか?
 吉本隆明の初期の論集の「自立の思想的拠点」は実に奇妙な構成の本で、5部に別れるが、1と5には詩が収載されている(5には詩以外にも「現代詩における感性と現実の秩序」と「アラゴンへの一視点」という文学論も収められているが)。「自立の思想的拠点」とか「情況とはなにか」といった思想的・政治的論の前後に「告知する歌」といった詩が配されるのである(なぜたれのために一篇の詩をかくか/ われわれは拒絶されるためにかく/ この世界を三界にわたって否認するために/ 不生女の胎内から石ころのような思想をとりだすために/ もしも手品がひつようならば/ 言葉を種にしてもっと強くふかく虚構するために/ 読まれる恥ずかしさから/ 逃れるために・・)。そして思想的・政治的論の方にはレーニントロツキースターリンマルクス主義・労働者階級・プロレタリアートといった言葉があふれている。むき出しの政治論の前後に世界を否認し、世界から否認されるうことを歌う詩が配される。こういうのを格好いいと感じた若者が60年代にはたくさんいたのだと思う。これまた「ドーダ」に痺れたのである。
 

ドーダの人、小林秀雄 わからなさの理由を求めて

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吉本隆明という「共同幻想」

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