橋本治「知性の顚覆」(3)

 
 さて、橋本氏によれば「ヤンキー」とは「経験値だけで物事を判断する人達」で、それに対するものは「すべてを知識だけでジャッジする人」で「大学出」である。
 わたしが若いころ、進歩的文化人という言葉があった。自分のことを進歩的文化人と自称するひとはいなくて、批判する側が主に用いていたのだから蔑称であったのだろうが、ではそういうひとたちが自分をどう自己規定していたのかといえば「知識人」ではないかと思う。そして「知識人」に対するものが「大衆」だったのではないだろうか。とすると「ヤンキー」は「大衆」ということになるのだろうか?
 知識人というのは大衆の蒙を啓いて世を正しい方向に導くことに貢献することを己の使命と考えているひとで、そういうひとは1970年くらいまではまだ日本にたくさん生息していた。わたくしが考える典型的な進歩的文化人はたとえば羽仁五郎である。アジテーターとしての才能が抜群だった。進歩的文化人といわれていたりもしたのであろう丸山真男アジテーターとしての才は欠いていたと思う。
 本書では後半に反知性主義のことがでてくるが、米国ではブッキッシュな人間というのは尊敬されず、農夫というようなイメージの何かにつながるひとが尊敬されるという伝統があるらしい。だからわたくしのような人間は、米国に生まれなくてよかった心底思う。それで、農夫という言葉からわたくしが想起するのがハイデガーである。ハイデガーこそは超のつく大インテリであるが、それにもかかわらず都会の人というイメージではなく木訥な農夫といったイメージがある。いずれにしても、ハイデガー進歩的文化人の対極にいる。ナチのほうにいってしまったひとである。ハイデガーは蒼白くない。日本でハイデガーに相当するひとというのは誰になるのだろうか?
 蒼白きインテリというのは日本でもいいイメージではないのだろうが、米国では最悪らしい。「学士様ならお嫁に上げよか」などということは、米国ではないらしいのである。
 夏目漱石が日本で抜群の人気を誇っているのも、その文章家として、また小説家としての希有の才能ということがその第一の原因なのであろうが、明治におけるインテリの運命ということをさまざまに描いたということが大きいのではないかと思う。
 さてでは、坊ちゃんはヤンキーなのであろうか? どこかで吉田健一漱石の「坊っちゃん」を評して、鴎外はあんな無責任な人間を主人公にした小説を書くことはなかった(できなかった)というようなことを言っていた。「坊ちゃん」では明らかにインテリは軽蔑の対象になっている。では、「坊っちゃん」の学士版である嫌疑がある「虞美人草」の宗近くんはどうなのだろう? 
 内田樹氏の「「おじさん」的思考」におさめられた「「大人」になることー漱石の場合」では「虞美人草」が正面からとりあげられている。実は、恥ずかしながら、この内田氏の論考を読んではじめて「虞美人草」を読んでみようかなという気になった。読んではみたが、とにかく読みにくい小説である。内田氏によれば、漱石が大学教師を辞めて、新聞小説家になったのは、「啓蒙」家の必要をその身に感じ、明治の若者に「これからどうやって大人になるのか」の指針を示さねばならぬという強い使命感に駆られたからなのだという。
 明治が決定的に欠いていたのは「近代的日本人」のロールモデルだった。なぜなら明治のひとは明治以前のものごとをまるごと「旧弊」として切り捨ててしまったからである。明治における「ご一新」という物語の創造がもたらした問題である。。
 だから、江戸までの世界では「時代劇」といわれるものが、明治以降では「ヤクザ映画」と呼ばれてしまう。(このあたり、明治からの近代をまるごと無視して、江戸末期という近世に自分をつなげようという橋本治の「近代の顚覆」での試みとオーヴァーラップするはずである。なぜ橋本氏が「完本チャンバラ時代劇講座」といった本を書いたのかとうこととも)
 明治維新というのは国民的合意のもとに形成された「つくりばなし」である、と内田氏はいう。明治の世に江戸の「遺物」が豊かに混在していたことを物語の水準で活写したのは山田風太郎をもって嚆矢とすると内田氏はいう。それに対して、司馬遼太郎は明治における「ご一新」の「つくりばなし」に殉じた日本人の健気さということを書きたかったのだろうと思う。
 「虞美人草」には三人の青年が登場する。小野君、甲野君、宗近君である。小野君と甲野君は「内面を持つ青年」である。「内面」というのは明治に輸入された概念であり、それまではの日本人は「内面」をもたなかった。「内面を持つ青年」はしかし現実への適応能力が減退する。一方、宗近君には内面がない。心やさしい、行動力抜群のボンクラ青年である。ではヤンキーなのか? そして、その宗近君には全然ヤンキー風ではない妹の糸子さんがいる。後半、宗近君は小野さんに大演説をぶつ。「糸公だけは慥かだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値を解している。君の胸の中を知り抜いている、糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣いのない女だ。・・・糸公は尊い女だ、誠のある女だ。正直だよ。君の為なら何でもするよ。・・・」 「虞美人草」のこの部分は吉本隆明も「夏目漱石を読む」でとりあげていて、そこには文学の初源性があるといっている。もとを正せば文学はこういうものだったと思わせるものがそこにあって、漱石の作品のなかでもそれがあるのは「虞美人草」のこの部分だけで、「虞美人草」は数多の欠点を持つ作品ではあるが、この部分があることによって、読むに値するとまで言っている。
 さて、この糸子さんは男の夢なのではないかという嫌疑もある。女のひとが「虞美人草」を読んで、どう思うだろうか? 漱石が鼻をつまみながら書いたのではないかと思われる藤尾さんのほうが女性には人気があるらしいのである。糸子さんは男に都合のいい女、一方、藤尾さんは「自分、あるいは内面」を持つ女。
 内田氏は糸子さんは「坊っちゃん」の清にも通じるという。清もまた男の夢なのではないだろうか? (吉田健一の「東京の昔」などででてくる主人公の青年が下宿する先でその世話をする婆やなども清の残像なのではないかという気がする。)
 で、ここで二つの二項対立が現出する。「大人」と「子ども」、「男」と「女」。
 「ヤンキー」と「知識人」を対立させれば、「知識人」は「男」になりそうな気がするのだが、では「ヤンキー」は「女」に配当されるのだろうか? 「知識」が男、「感情」が女というとあんまりではあるが、フェミニズムという運動が(過去に?)あり、本来生物学的には男女には差がないが、社会が役割分担を押しつけるというようなことを主張していた。生物学の知見からこの主張は完全に否定されているといっていいと思うが、生物学の側でもフェミニズム全盛期には、生物学者も男と女は生物学的に異なるという論文は発表できなかったのだそうである。男女には生物学的な差異がある。→それでは民族間にも生物学な差異はあるとでも言いたいのか? →それはナチスのした蛮行を肯定する道につながる。といった論法で発表自体が抑圧されていったらしい。
 漱石などはフェミニズム以前の人であるから、糸公礼賛、清を礼賛ですんでいたが、西洋から「内面」という概念がもたらされてくると、女性だって「内面」をもちたがるわけで、男性が不幸になる権利をもつのであれば、女性だって、ということになるのはほぼ必然である。
 内田氏によれば、「内面のある青年」は他者に贈るものを持っていない。それに対して糸子や清は贈るべきものをふんだんに持っている。しかし贈るばかりではつまらない。私だってもらいたいというところから藤尾のような女性が出現してくるわけである。
 なんだか話が収拾がつかなくなってきてしまって、橋本治さんとどうつながるのかという感じになってきた。わたしは橋本治さんの特異なところは憑依できるというか女性にもなれるという点にあるのではないかと思っている。
 橋本さんはかつて「ヤンキーとは、反知性的で根拠なく前向きで、美意識がバッドセンス」と書いたのだそうで、書いて、これは自分のことではないかと思ったのだそうである。
 さて、ここからが治さんなのだが、日本の伝統芸能や技術では「自分」というのは「出すもの」ではなく「まず消すもの」だったという。それが今では「自分」というのはまず出すものだということになって、そういう変化は日本では第二次世界大戦後におきた戦後派(アプレゲール)によっておきたという。たとえば石原慎太郎の「太陽の季節」。
 内田氏によれば、実はこれを書いた石原慎太郎は「真面目な大学生」で、「奔放な不良」は弟の石原裕次郎が担当しているのだが、と。この小説で、大学生と不良が一体化することができ、「俺たちはわけあって不良になっている。バカだから不良になっているわけではない」という主張がでてきた。知性と不良のはじめてのドッキングである、と。
 それ以前の近代日本文学の哀しいところは「自己主張をする主人公」をほとんど持たないことで、例外が「坊ちゃん」。で、坊ちゃんはヤンキーの元祖。
 大部分の文学の主人公は「自己主張が出来ない」ということに悩むものたちばかりだった。なぜなら「自己主張とは、社会のあり方に意義を唱える不良のすること」という理解が日本をおおっていたからである。江戸時代の「白浪」といった悪人はまずまともな社会人ではないという点で明治以降に文学からは排除されてしまう。
 そういう日本で戦前・戦後ともに「不良」の地位を確保出来ていたのは、左翼思想の信奉者だけである、と。「不良」はほとんど「非国民」であった。
 何が石原慎太郎に「太陽の季節」を書くことを可能にさせたのか? 時代風潮が大きいと治さんはいう。「太陽の季節」の前年には19歳のエルヴィス・プレスリーがデビューしているし、ジェームス・ディーンも現れていた、と。戦後は「不良」をどんどんと受け入れ続けてきたのだ、と。(そこで、板前がたずねたものだ、「お客さん、ご職業は?」/雨男は、鼻をヒクヒクさせて、マイルドな日本語で答えたものさ、/「わたしは、シュジンです」/へえ、主人?」/「シジンです」/「なーんだ、詩人ですかい」/そこで、ごくは演説したよ、ヒョロヒョロ、立ち上がって、演説したんだ、「日本じゃ/大学の先生と、云ったほうがいいね、詩人といったら、乞食のことだ、中西部とはちがうんだ、あの燃える、/夕日がギラギラ落ちて行く、トーモトコシ畠のまん中で、ほんとうの詩人とは、腕ぷしの強い農夫のことさ、日本じゃ、進歩的なヘナチョコ百姓ばかり・・・(田村隆一「リバーマン帰る」)
 ところが「自己表現のために必要なのは、まず自分を消すことだ」と思っている橋本氏は自己主張というものの本来を「社会の秩序を乱す不良のするもの」だと思っているのだという。しかし不良は個人ではものをいわず、仲間と「族」をつくる。太陽族、カミナリ族、みゆき族、暴走族、竹の子族・・・。みんなと同じになることによって、みんなの中にいることによってなりたつ自分、それは「他から拘泥されず、個としての"自分”を確保するという「近代的自我」のあり方とはまったく異なった異質のものだ、そう治さんはいう。
 進歩的文化人もまた「族」だったのだと思う。自立した強い「個」の集団というのとは何か決定的に違う、自分のそとにある旗印のもとに集うことによってはじめて自分が自分でありうるというそういうひとたちの集まりであったように思う。
 橋本氏は自分は「近代的自我の確立」が唯一絶対のたいしたものとは思っていないが、自分の考えが「近代的自我」を中心におく考え方に大きく影響されていることは間違いない、という。この点が橋本氏の特異な点で、近代的自我を奉るのでもなく、全否定するのでもなく、われわれはその枠組みの中でものを考えることを余儀なくされているが、だからといってそれを絶対視、神聖視することもないというクールな視点が基本にある。わたくしが最初の読んだ「宗教などはこわくない!」は橋本氏の「近代自我肯定」の部分が表面にでていた本なのであろう。それでこの人は丸山真男の変奏と思ってしまった。
 自分のことを考えてみると、「近代的自我の確立」を唯一絶対のものと思っていないことは確かだと思う。ただ「族」を作ることへの嫌悪感というのが非常に強くあることは確かで、「族」に加わらない自由、抛っておいてもらう自由を求めていることは間違いないように思う。医者という仕事を選んだあまり大きくない理由としては、どうもサラリーマンというのにはなりたくないなと思ったことがあるように思う。わたくしにはサラリーマンもまた「族」に見えるのだと思う。「私は此自己本位といふ言葉を手に握つてから大変強くなりました。彼等何者ぞやと気概がでました」(漱石「私の個人主義」)というのはとても強い表現で、わたくしにはそういいきる強さはまったくないのは確かではあるが、それを非常に希釈したものならわたくしのなかにもあると思う。
 「とめてくれるなおっかさん・・・」の駒場祭のポスターの批評性も橋本氏の近代への独特の距離感から出てくる。おっかさんは前近代の象徴で、不良になろうとする息子を必死になってとめに入っているわけである。背中に銀杏の入れ墨をした息子は粋がって、あるいは自己陶酔している。そして男東大なのである。明治の近代化以降、国家官僚の最大の養成地であり供給源であった東大が近代の路線を否定して不良になろうとしている。男東大はどこにいこうとしているのか?
 このポスターを書いている橋本氏は、当時の大学闘争の高揚とその自己陶酔を批評的あるいは批判的にみている。そうかといって明治以降の近代化の方向を是としているわけではまったくない。明治期から続いている一高東大のエリート意識のかたちをかえたものが大学闘争の運動にも色濃く反映されていることを見抜いている。「嗚呼玉杯に花受けて」の精神は健在なので、「栄華の巷を低く見て」いる「五寮の健児」である「益荒男」が「剣と筆をとり持ちて 一たび起たば何事か 人世の偉業成らざらん」というわけである。「我国民を救わんと」「行途を拒むものあらば 斬りて捨つるに何かある 破邪の剣を抜き 舳に立ちて我呼べば 魑魅魍魎も影ひそめ 金波銀波の海静か」(矢野勘治作詞)で、なんだかほとんど治外法権の世界である。(大学闘争の頃、多くの人が「大学の自治」ということをいって。大学内には法の支配は及ばないと考えているようであった。(それをアジったのが羽仁五郎「都市の論理」?)
 ところでこの「太陽の季節」などの話を読んでいると、わたくしなどが想起してしまうのが石坂洋次郎(といっても最近亡くなった渡部昇一氏経由での石坂洋二郎像)である。その作品は、渡部氏によれば「恥ずかしいほど明るく、楽天的で、浅薄で読むにたえない」ものなのであるが(もっともそれは後年読み返したときの話で、渡部氏が戦後にそれを読んだときにはあまりの面白さに震えたのだそうである)、それは戦後の明るさを何よりもよく表したものであったという。この石坂論は「戦後啓蒙のおわり・三島由紀夫」の中で展開されているのだが、戦後の明るさが失われていく時代を描いたのが三島の「鏡子の家」だという。石坂の明るさ、三島の暗さ・・「明るさは滅びの姿であろうか、人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」(太宰治「右大臣実朝」)
 あるときにはベストセラーになるくらい読まれるが、ある時期からまったく読まれなくなってしまう作家がある。石坂氏などその典型で、わたくしが若い時には多くの映画が作られ、テレビドラマなどにもなっていたような記憶がある。映画の多くの主演は石原裕次郎だったのではないかと思う。映画をみたことはないし、テレビドラマも気恥ずかしくて見られなかったが、一言でいえば石坂氏は反=封建の作家という印象を持っていた。われわれの若いころに非常に多く使われたが最近ではまったく聞くことがなくなった言葉の一つに「封建的」というのがある。「古い」というのとほぼ同義で使われていたのではないか思うが、要するに昭和20年以前のものの考え方はすべて駄目という感じである。
 日本には二度の「ご一新」があったわけである。「明治維新」と「敗戦後」。しかし、二度全否定すれば、最初に戻るわけではなくて、前のものはすっかり忘れてしまうわけである。とはいっても、二度目のご一新は、失敗に終わった第一のご一新のやり直しという見方もあるだろうと思う。いづれもお手本は「西」にあるわけであるが、最初がヨーロッパを先生としたのに対して、今度はアメリカを先生とした。しかしややこしいのは「西」はだめだ、これから「東」で行こうという勢力が少なからずいたことで、大学出に限れば、そういう方のほうが多数であったかもしれないということである。
 スタートが「ヤンキー」だったのに、いつの間にか、関係があまりないところに話が移ってしまっている。橋本氏によれば、「ヤンキー」とは「経験値だけで物事を判断する人達」であり、それに対するものは「すべてを知識だけでジャッジする人」で「大学出」ということであった。明治という国家が、数少ない大学出が西欧から集めてくる知識でできあがった
というようなところがある。(「それは尊大で余裕のある激励というよりは、むしろ国家がひとりの青年にかけた切ない依頼の言葉であった。小さな、無力な国家が彼を送り出して、「頼むよ」と、肩に手をかけているのが彼にはまざまざとわかったはずである。」山崎正和「鴎外 戦う家長))
 何となく「ユリイカ 2010年6月号」特集 橋本治」をみていたら、坪内祐三さんの文章に小林信彦氏の「橋本治も・・徒党を組まない人ね。当節珍しいサムライだと思う」という言葉が引用してあった。徒党を組まない、族には加わらないヤンキーが橋本氏なのかもしれない、ということで、とりあえず収拾のつかないまま擱筆する。

マルティン・ハイデガー (岩波現代文庫)

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「おじさん」的思考 (角川文庫)

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完本チャンバラ時代劇講座

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