橋本治「その未来はどうなの?」(1)

 
 第2章「ドラマの未来はどうなの?」にとんでもないことが書いてある。
 さて、ここでのドラマとは「指針のない世の中で、人が生きて行くための指針となった物語」を指すのだとされる。江戸時代は、「なにしてやがんだ手前ェは! このバカ野郎!」というような指針が満ち満ちていて、これと調和的でなければ生きていけなかったので、歌舞伎などを「人生の指針」にする必要がなかったのだ、と。歌舞伎などは「深入りするとろくなことにならないエンターテインメント」なのであった、と。
 ところが明治維新の近代になると、「人が自由に生きてもいい」ということになった。しかし「自由」とは「指針のない状態」なのでもあり、「自由」を与えられたって「なにしていいのか分からない」という人がたくさんできてくる。その人たちに指針を与えたもの、それが講談であったと橋本氏はする。講談とは、「どんな無茶なことでも、なんとかしようと思えばなんとかなる」という、とんでもなく前向きな世界観を持った男性好みのものであり、近代前期の日本人の中に「なせばなる、なせねばならぬ何事も」という体質を確立してしまうのだ、と。もちろん、そういう世界観を講談が作ったのではなく、「めんどうくさいことを抜きにして前向きでありたい」という近代前期日本人の中にあった願望を、講談が拾い出しただけであろうがと橋本氏はしているのだが。「維新の志士」という人たちも、ほとんどが「めんどうくさいことを抜きにして前向きでありたい」という人たちで日本人はそういう人たちが好きなんでしょう、と。
 『そんな日本人の獲得した前向きな民力が日本の近代化を達成し、そのあまりに単純な「どんな無茶でもなんとかしようと思えばなんとかなる」という世界観が、日本人を戦争に向かわせ、そして負けさせたんじゃないかと、私なんかは思っております』と橋本氏はいう。
 司馬遼太郎などがきいたら憤死しそうな議論である。司馬氏は明治と昭和前期を徹底的に対比的なものとして描いた。明と暗、合理的とファナティック。でもその両者ともにそのバックボーンが「どんな無茶でもなんとかしようと思えばなんとかなる」であるなどといわれると、である。
 どちらも読んでいないけれど「龍馬が行く」とか「燃えよ 剣」の坂本龍馬や土方才三は「どんな無茶でもなんとかしようと思えばなんとかなる」というタイプかもしれなくて、少なくとも逡巡するタイプではなく、前向きの人であろう。そして読んでいないけれど、どちらも女にもてるらしい。三島由紀夫は「第一の性」で、『男の夢というのは、大暴れして、英雄視され、その上美女に愛されれば、それで満点、それ以上の欲はあまりないのです』といっているが、龍馬も才三も男の理想で、だから司馬氏の読者は男が多いのかもしれないし、司馬氏の小説は講談の系譜の中にあるのかもしれない。
 橋本氏が講談の系譜として取り上げるのが吉川英治である。宮本武蔵は挫折なんかしない、ただ困難に立ち向かって乗り越えるのみ。
 だがしかし、いま講談をきくひとなどほとんどしないし、「人生の指針」という言葉からは、多くのひとは文学を思うかもしれないと、橋本氏はいう。ところが近代になって生まれる文学は「自由にしてもいいと言われたって、どうしたらいいのか分からない。世の中はそう単純じゃないから、“どんな困難でもなんとかしようと思えばなんとかなる”なんてことはありえない!」という苦い認識を前提にする。つまり「挫折あり」を前提にするのが文学で、「挫折なし」を前提にするのが講談。
 講談から出発した「読み物」はやがて「大衆小説」となるが、「大衆小説」だって進化して「挫折」をちゃんと取り入れる。そこで「ニヒルな主人公」が登場してくる。(小説の中の)龍馬や才三に微塵もないのがニヒリズムである。それにくらべて昭和の前半は暗い。「めんどうくさいことを抜きしして前向きでありたい」ではなく、「めんどうくさいことを抜きして、一花咲かせたい。駄目なら死ねばいい!」というようなデスペレートな気分が漂っていて、前向きではなく捨て鉢な感じなのである。
 そうか、昭和前半の日本をダメにしたのは「大菩薩峠」であったのか!、という馬鹿なことを、しばし考えたことであった。
 

その未来はどうなの? (集英社新書)

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