橋本治「最後の「ああでもなく こうでもなく」 そして、時代は続いて行く−」

  マドラ出版 2008年10月
  
 橋本治が「ああでもなく こうでもなく」というとんでもない題名で「広告批評」に連載している時評をまとめた本はいままで5冊刊行されているが、6冊目となる本書は、その最新刊でありかつ最終巻となる。来年3月までで「広告批評」が休刊になるのだそうで、最後まで時評の連載は続けるが、それをまとめて本にするのは今回が最後ということらしい。そのためもあるかと思うが、今までの5冊とは少し肌合いが違う本となっている。なんとなく、しんみりしているというか、素直である。今までのものでは、言っていることは確かにわかるけれど、それで本当のところ一体何を主張したいのだ、といいたくなるようなわかりにくさとわまりくどさがあったが、本巻では、こう書いたのはこういうことがいいたいからだという自己解説が頻繁にみられる。今まで橋本氏の本を読んでいて、これをつきつめると「ラッダイト運動」になってしまうのではないかということをつねに感じていたが、本書に実際に「ラッダイト運動」という言葉がでてきたのは、ちょっとびっくりした。
 もう一つ、橋本氏の論では参考文献とか参照文献がでてくることがほとんどない。「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」とか「小林秀雄の恵み」のような作家や評論家を直接論じる文章をのぞけば、ほとんど他のひとの著書のことがでてくることがなく、氏の論でいわれていることがどの程度がすでに言われていることなのであり、どの程度が氏の創見なのであるかということがよくわからなかった。氏の書いた本をすべて読んでいるわけではないが、記憶にあるところでは、著書の名前が具体的にでてくるのは「宗教なんかこわくない!」での「死海文書の謎」「イエスのミステリー ― 死海文書で謎を解く」「利己的な遺伝子」くらいなものであるように思う。それが本書では、山田風太郎の「戦中派不戦日記」とか山本七平「私の中の日本軍」、内田樹「私家版・ユダヤ文化論」、ケラー「ディアスポラ」、コーン「シオン賢者の議定書」などといった書名が次々とでてくる。
 モンテイエの小説「ネロの都の物語」の文庫版の解説を橋本氏が書いているが、それを読んで、「なんで橋本氏はローマ史にこんなに詳しいのだ?!」とびっくりし、かつ不思議に思い、やはりこのくらいの知識は最低限もっていないといけないのかなと、自分の不勉強を反省したり、いやになったりしたことを覚えている(その後も、あいかわらず勉強はしていないが)。本書に、ある時期、ユダヤ教について勉強したとあった。ローマ史の知識はその副産物なのかもしれないし、「宗教なんかこわくない!」もまたそうなのかもしれない。そのように本書では、橋本氏のこれまでの著作の種明かしみたいなことがいろいろとされている。
 橋本氏のとても不思議なところは、その生きてきた過程に断裂がないように見えることである。著作するような人間の多くは、思春期のころに本から知識を吸収するようになる時期を経験し、それからはその知識を根拠に行動をはじめるが、それではうまくいかずに挫折し、それでようやく、知識というものはいかに生きるうえでの根拠としては不十分であるかを身をもって経験し、生きるうえで知識が果たす役割の小ささを学ぶ。
 しかし、その体験により知識偏重の時期からの生き方を修正することにはなっても、思春期以前の子どもの時代の感性にもどることはない。子供時代と思春期以降が決定的に切れてしまい、そこには連続性がないことになる。ところが橋本氏は子供時代とそのあとが連続していて断裂がないようにみえる(そういうひとは普通は本を書くひとにはならないのだが)。
 橋本氏は知識によって頭だけで判断する不健全性をほとんど身体的・肉体的な感覚で探知して、それを排除して生きてきているようにみえる。しかし、氏の肉体的な感覚が何に由来するのかはよく見えなかった。
 本書83ページに、

 私は昔から「軍隊」というものがこわい。外国の軍隊だと平静ではあるけれど、「日本の軍隊」ということになると、背筋に戦慄が走る。・・「軍隊」はなくなったが、「軍隊を成り立たせていた男達のメンタリティ」はまだ歴然と残っていて、それを子供だからこそ敏感に感じ取っていたんだろうかと、思うしかない。/ 「日本はなにかおかしい」と思う私の、やたらとへんな突っ込み方をすることの原点は、多分、その恐怖感によるものだろう。

 という部分があって、ああそうだったのか、と思った。子供のときから続く感性がいまだに氏が日本の現状を批判する原点になっているということであり、それはなにが正くてなにが間違っているかという頭脳による知的な判断ではなく、怖いとか背筋に旋律が走るという、文字通り肉体的な感覚によるということである。ここも本書に頻出する種明かし的、あるいは自己解説的な部分の一つである。
 軍体のもつ「愚かしさ」、哀しい愚かしさと、恐ろしい愚かしさ、愚かしさのもつ暴力といったものは、たとえば、「戦中派不戦日記」や「私の中の日本軍」にその詳細が具体的なものとして描かれているという。
 「ネロの都の物語」の解説で、氏は、使徒パウロを「偏狭で劣等感が強くて、しかも異常なまでに確信に満ち満ちている田舎者のインテリ」と評している。おそらく氏が自分の周囲にみた知的な人々は、使徒パウロの亜流だったのであり、パウロもまた「軍隊を成り立たせていた男達のメンタリティ」を体現したひとのひとりだったのである。
 日本の軍隊は「偏狭で劣等感が強くて、しかも異常なまでに確信に満ち満ちている田舎者」が絶対的な権力を振るえる場であった。その権力の根拠は軍隊にいた年数である(「星の数よりメンコの数」)。
 もしも知識が純粋な真理への希求によってではなく、他に権力をふるう根拠として、「偏狭で劣等感が強いインテリに、異常なまでに確信を持たせる」ために使われるとしたら、そして「軍隊を成り立たせていた男達のメンタリティ」はインテリにもまた十分に備わっているとすれば、そこでの知識はただただ暴力の手段とされてしまうしかない。
 軍隊という組織は日本人のいちばんいやなところ悪いところを露呈させるものなのではないかと思っている。最近も自衛隊で何かリンチまがいのことがあったようである。陸軍内務班の私的制裁の伝統がいまだに生きているのであろう。何かをもっともらしい口実としたいじめである。
 いわゆる連合赤軍事件で、全共闘運動に共感していた多くのひとが決定的なダメージを受けたといわれる。わたくしはあの事件はバカなひとたちがバカなことをしでかしたというだけのことであると思っていたので、それがとても不思議だった。マルクス主義とか革命とか名乗られると、それをえらく深刻なものと受けとめてしまうのは日本の知識人の欠点だと思うけれども、それは宗教ときくと多くのひとが何もいえなくなってしまう同じ根っこの問題であると思う。「私の中の日本人」で山本氏は、連合赤軍事件の「総括」が陸軍内務班の「私的制裁」と同根の問題であることをきわめて説得的に論じている。
 もちろん、いじめは日本にだけあるではない。ダールの自伝を読んでいて、イギリスのパブリック・スクールが上級生による下級生のいじめの巣窟であることを知って驚いた。日本の軍隊のいじめとまるで同じと思った。しかし、パブリック・スクールは狭い世界である。日本の軍隊はある時期、日本を覆ったのであり、「軍隊を成り立たせていた男達のメンタリティ」はまだ歴然と現代の日本にも残っているのだとすれば、これは日本全体の問題である。
 「軍隊を成り立たせていた男達のメンタリティ」がいやというのは、わたくしの人生の選択にも決定的であったような気がする。医者という職業を選んだのもただただサラリーマンにはなりたくないというだけであった。わたくしには会社というのが「軍隊を成り立たせていた男達のメンタリティ」の結集しているところのように思えたのだと思う。とにかく自分が決定的に弱虫であり根性なしであることを自覚していたので、「なせば成る!」などという世界が死ぬほどいやだった。精神論のようなものが嫌いで、橋本氏ではないが、戦前の日本に生まれなく本当によかったと心底思う。軍隊に入れられて私的制裁などというものを受けたら、すぐに自殺でもしてしまいそうである。文藝春秋版の「山本七兵ライブラリー」の中の「私の中の日本軍」の巻末に、山本氏と司馬遼太郎氏の対談が収載されている。その題名が「リアリズムなき日本人」である。このリアリズムの反対にあるのが精神論である。この対談で、英国の参謀からみると、日本軍で一番頭の悪いのは参謀で、一番優秀なのは下士官で、現場を支えたのは彼らの賢さだと司馬氏がいっている。
 戦後日本の復興を担ったのも、この優秀な下士官たちであったのだと思う。その一端を描いた「電子立国 日本の自叙伝」という素敵に面白い本がある。まさに戦場で優秀だった下士官たちの戦後といった感じである。この本を知ったのは丸谷才一氏と山崎正和氏の「日本史を読む」という本によってであるが、山崎氏もいうように日本人の好きな「ものづくりの精神」といったものが見事に描かれている。しかし、この本を読んでみようと思った本当のきっかけは「日本電気東芝、三菱、日立、富士通といった各社の技術者が通産省の命令で作ったある意味では呉越同舟の組織であるLSI技術研究組合の思い出の会で、参加者が最後に肩を組んで「同期の桜」を歌うという丸谷氏の紹介であった。
 山崎氏もいう。「あの「同期の桜」を歌うところは、象徴的でしたね。メンタリティが完全に戦前の日本人なんです。」 そのあと、万歳三唱のあと、参加者の一人が「ジャパン・インペリアル・カンパニー」という。「日本帝国株式会社」。技術というリアリズムと「軍隊を成り立たせていた男達のメンタリティ」。丸谷氏は「会社に対する奉仕の精神と、「俺は、俺のやりたいことをやるんだ」といわがままとは、なんというのかよく訳がわからないけれども、まったく並び存するわけです」といい、山崎氏は「つまり楠正成なんです」と応じる。さらに丸谷氏は「これは本当に司馬遼太郎の世界という感じ」という。司馬氏は日本人は本当はリアリズムに生きることを本然とするのに、どういうわけか昭和期の前半にはそれが失われたとする。山本氏も司馬氏もともに軍隊での経験から、日本人とはということを徹底的に考えることをはじめたひとであるであると思う。
 橋本氏のいうようにユダヤ人排斥が世界規模のいじめであるとすれば、まさにそれは人類全体の問題である。しかし、ユダヤ人排斥に向かう心情と日本の「軍隊を成り立たせていた男達のメンタリティ」が同じものなのか、それがわからない。なにか違うような気がする。「軍隊を成り立たせていた男達のメンタリティ」はかなり日本に固有のものがあるように思う。山本氏のいうように「日本軍のもっていたあの病根とも宿痾とも病的体質ともいいたいあの体質」は「もっと根の深い民族的体質」であるのかもしれない
 一部のひと(たとえば村上龍氏)の抱く、共同体的なものへの嫌悪は「軍隊を成り立たせていた男達のメンタリティ」への嫌悪なのだと思う。丸山真男の論もまた、氏の軍隊経験に深く依存し、「軍隊を成り立たせていた男達のメンタリティ」への嫌悪と強くかかわっていると思う。橋本氏もまた「宗教なんかこわくない!」で「日本人に一番必要なことは、“自分の頭でものを考えられるようになること”である」といっている。まさに近代化論である。「軍隊を成り立たせていた男達のメンタリティ」=前近代から、“自分の頭でものを考えられるようになること”という近代へ。
 しかし、丸山真男氏や村上龍氏とは違って、橋本氏は、近世のほうにゆく。「18世紀末の産業革命以来」を否定し、それとの決別をいう。これは今まで匂わされてはいても、本書のようにはっきりとは言われることはなかったと思う。「広告批評」というまさに産業の中枢をになう広告をあつかう本で「産業革命以来の否定」などということをはっきりと書くことなどできるはずはないではないか、と氏はいう。しかし、それが終刊の予定となって、本書でははっきりとそれが言われるようになった。
 「産業革命以来の否定」などというのはあまりにも奇矯な説である。それは橋本氏もよく理解している。だから、《本当の大転換の時代に必要なのは、「今が大転換の時期だ!」と叫ぶアジテーターではなくて、「そんなの分かってるよ」と言って、黙々と自分のなすべきことに励む人だと思う》と書いている。
 本書のトーンが今までと微妙に違っているのは、「広告批評」の終刊ということもさることながら、サブプライム問題に端を発する現在の混乱が影響しているように思う。人々は暗黙のうちに(?)、資本主義というのはこれでいいだろうかと思い始めているのではないかと思う。しかし、だから社会主義にという方向には決してならない。共産圏が崩壊して《歴史が終わり》、自由主義の勝利がいわれたが、自由主義と表裏一体であるとされている資本主義の信用は今回の出来事で深く傷ついたように思う。それははたしてこれからもうまく機能していくのだろうか?、という疑問が生じてくる。資本主義もだめ、共産主義もだめとなると、どうしたらいいのだろうか? 多分、どうしようもないのである。これからはあまりいいことはないだろうということである。そう橋本氏はいう。
 ひょっとすると、現在の世界は橋本氏が予言していた通りになってきたのかもしれない。もちろんそれは橋本氏の言論の力ということではなく、まったく別の要因によるのであるが。嘗て、福田恆存氏が舌鋒するどく批判していた進歩的文化人的言論は昔日の力を失っているが、これも福田氏の言論の力によるのではなく、まったく別の原因による。晩年の福田氏の言論が若い時と比べていささか精彩を欠いているように見えたのは、敵が消失してしまったためかもしれない。
 進歩的文化人と違い、資本主義はそうそう簡単に消え去ることはないと思われる。あるいはわれわれはそれに代わる仕組みを何ももっていないのかもしれない。しかし、ここ当分、それはあまり輝いたものとはみえなくなるであろう。橋本氏の敵は勝手に一人で転んでしまった。今の言論はヴァーチャルな経済を否定し、実体経済に回帰するという方向に当分は動きそうである。しかし、橋本氏は、ヴァーチャルな経済を否定するだけではなく、実体経済そのものも、それはヴァーチャルな経済よりはましかもしれないが、18世紀末以来の産業革命の趨勢の中に位置しているものとして、最終的には否定しようとする。とすれば、まさにラッダイト運動である。しかし、氏はとくに過激な主張をするわけではない。

 地球温暖化の原因が「人間の活動」あるいは「人間活動」ということになったら、その起点は、いたって簡単に分かる。十八世紀末の産業革命である。二酸化炭素を出すことを必要とする機械が登場して、人の生活は「便利」ということになった。だから、地球温暖化にストップをかける方向は、簡単に分かる。「産業革命以前に戻せ」である。もちろん、突然そんなことをしたってうまく行くわけがない。大パニックが起こるだけだから、「産業革命以前て、どんなだったっけ?」と考えながら、現実生活を少しづつ微調整して行くしかない。そして、そのゴールは「産業革命以前に戻る」でもない。「産業革命が起こる直前の地点にたって、ここから産業革命じゃない方向に進むためにはどうすればいいのか?」と考えて、二百年ちょっとの歴史を再スタートさせることだ。そうしないと、人類の歴史は終わる、ただそれだけのことである。

 歴史の教科書では、ラッダイト運動は世界の動きに逆らう反動として問答無用で否定されている。わたくしとしても、18世紀末以来の産業革命の否定などというわれても困る。医者をはじめた35年くらいまえには、MRは影も形もなく、CTもほとんど存在せず、超音波も霞がかかったような映像であった。その後の電子技術とコンピュータ技術の進歩によって、今やMR・CT・超音波のない医療など考えられなくなっている。それを推進してきたのは、人間のもつ生命への欲望と金銭への欲望である。決して、真理への欲求だけが技術の進歩を生んだのではない。そして、そのような欲望によってドライブされるのが資本主義なのである。そもそもわたくしが医者をはじめたころには、パーソナル・コンピュータも日本語ワード・プロセッサもまだほとんど存在していなかった。ましてや、18世紀末の医療などというのはほとんど何もないに等しい。
 しかし、資本主義と同じで、現在の医療もある壁にぶつかっているように思う。明らかに医療技術の進歩はプラトーに達しつつあるように思える。もっと資源を投入すれば、今よりもできることは増えるであろう。しかし、それはほんのわずかである。ある時期、医者が手を洗うようになっただけで妊婦の周産期死亡は劇的に減少した。今、大きな資本を投下して周産期医療の体制を整備すれば、それによって救命される母児は確かに増えるはずである。しかし、その数は決して多くはないと思われる。
 われわれの健康の増進に寄与した最大のものは、おそらく経済の成長とそれに基づく栄養状態の改善である。結核の減少も脳卒中の減少もそのおかげである。そうなると本当は心臓血管の動脈硬化による病気が増えてくるはずなのだが、どういうわけか日本ではあまり増えず、世界一の長寿国となってしまった。それなのにメタボリック・シンドローム対策などといって、さらに心臓病を減らそうとやっきになっている。「メタボ」などというのが問題になるということは、どこかで地球温暖化とも関係しているような気がする。明らかに何かか過剰になってきているのである。人間は過剰をめざす奇妙な動物なのかもしれないが・・。
 心臓病が克服されると、残るは癌だけである。わたくしの大先輩で百歳すぎまで生きた先生が、ある時いっていた。「癌はいいね。癌は死ねるから」 あらゆる病気が克服されて、老衰だけが死因となる社会が医療のめざす方向なのだろうか、ということをいつも考える。それを目指しながらも、実現されないというのが理想であるような気がする。
 本書で橋本氏が指摘しているように、最近の日本人は「景気の回復を!」ということをあまりいわなくなった。それと交代して出てきたのが「年金問題の解決を!」である。今のままでいいから、自分たちは過去の遺産で生き延びられればということかもしれない。日本に限らず、どの国でも年金という制度が遠からず破綻することは避けられない。しかし、それを政治家は明言できない。すれば落選である。年金にしろ福祉にしろ、経済が永久に拡大するという前提で過去に設計された。その前提を信じるひとはもやはいないであろう。むしろこれから経済は縮小していくかもしれない。そうであれば、近々制度が崩壊することは確実である。しかし、橋本氏のいう「今も、この先当分も、いいことはない。だけど、将来のために我慢しなければならない」「我慢しても、当面いいことはない、もしかしたら、生きている限り、いいことはない。でも、それでも、我慢をしなければならない」に、どれだけのひとがついてこられるだろうかと思う。「わが亡きあとは洪水」という方向に走るひとのほうが多いのではないだろうか。
 橋本氏にしても、そういう時代がこんなにも早くくるとは思ってもいなかったかもしれない。本書の憮然とした感じはそれに由来するのかもしれない。橋本氏は「それ見たことか!」とか「だから言ったじゃないか!」ということは言わない。自分の言論にそのような力があるとは思っていない。もともと橋本氏は個人にむかってしか発言しない。覚悟をきめた個人がいくらかでも増えること、氏が期待しているのはそれだけかもしれない。これからの時代は一寸先は闇の時代になっていきそうである。そのなかで、氏には、どのような時代になっても「石にかじりついても自分で食っていきます」という覚悟がある。
 昔、氏が「貧乏は正しい!」の中で、もしも水道がこなくなれば、井戸を掘るということを書いているのを読んで意表をつかれたことがある。「普通、水道の前段階は“井戸”だ。あるシステムがだめになった時、人間は普通、その前段階に戻る。」 もちろん、「べつに今すぐ井戸を掘る必要なんかは全然ないが、それを知っておくことが、まず第一に重要である。」 なぜなら、「そのまんまで行ったら、きみは現実から舞い上がった異常者になるだけかもしれない。シミュレーションの困ったところは、所詮一つのシミュレーションが自動的に増殖して行って、“現実的”ということがどこかに消えちゃうこと」だからである。「現実というのは、そうそうすっきりはっきり簡単には出来ていない。「スローガンだけで現実が変革できんだったら、誰も苦労はしねーよ」というのは、現実というものが、こういう風にマヌケで、もったらもったらしているからである」ということである。
 井戸を掘るというのは、《18世紀末の産業革命以前に戻る》である。昔、わが家の庭にも井戸があり、そこで西瓜を冷やしたりしていた。しかし、工業化のせいで、地下水は汲みつくされ、もやは井戸を掘っても水はでてこないらしい。18世紀以前に戻ることさえ容易ではない。
 以前から橋本氏の本を読んで、確かにそうかしれないけれど、でもそんなことできるわけないだろうと思ってきた。しかし、昨今の状況は橋本氏の言説に追いついてしまったのかもしれない。そんなことできるわけはないだろうなどとは言えなくなってしまったのかしれない。それだから、今を予見した予言者のように氏があつかわれる危険もまた増しているのかもしれない。氏は教祖となることから逃げてきたひとだと思う。氏が時評をもうやらないというのも、教祖あつかいされることからなんとか逃れようとしているのかもしれない。そして氏は平安時代と連続している日本を克服するという壮大な原理論の方向に論を進めていく。それはすなわち官僚依存をどうやって克服していくかということである。自分ではなく、だれか上のほうの人が考えてくれればいい、あるいは考えてくれなければいけないということの否定である。しかし、それはとんでもなく大きな課題である。「現実というものはマヌケで、もったらもったらしている」ものなのだから。
 

最後の「ああでもなくこうでもなく」―そして、時代は続いて行く

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貧乏は正しい! (小学館文庫)

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