橋本治「浄瑠璃を読もう」(終わり)

 
 次は近松門左衛門の「国姓爺合戦」なのだが、橋本氏はあまり熱が入っていない。
 近松門左衛門人形浄瑠璃を代表する作家と一般に思われているのでとりあげたという感じで、氏にいわせれば、近松人形浄瑠璃作家の中では「ちょっと変わった存在」なのである。近松は有名ではあっても必ずしも上演されることは多くなかったため、そのうちに三味線の「譜」がなくなってしまったのだという。今、文楽で上演されている近松の世話浄瑠璃のあらかたは、昭和に復曲されたものなのだそうである。「カルメン」とか「ラ・ボエーム」の譜面がなくなって台本だけ残って、後世の作曲家が改めてその台本に作曲するというようなものである。近松の作品は人形浄瑠璃の作品としてではなく、その詞章として評価されてきたことになる。
 「国姓爺合戦」の主人公は、日本生まれの日中ハーフの英雄、鄭成功が明国を救う話なのだが、和藤内という名前になっている。ハーフなので「和でもなければ唐でもない」で「和籐内」という冗談みたいな名前である。わたくしがこの変な名前を知っていたのは、石川淳の短編「おとしばなし 和籐内」によってであるが、ここで紹介されれいる「国姓爺合戦」のストーリーはとんでもないもので、ハーフとはいいながらほとんど日本人としか思えない和籐内が明国を侵略する話である。「『国姓爺合戦』がこういう内容を持ったものであることを中国の人が知ったら、きっと反日感情は高まってしまうだろうなと、私は思う。ある意味で『国姓爺合戦』は、中国、台湾、朝鮮を侵略してしまう近代日本の先触れで、そのあり方を鼓舞して肯定するような作品でもあるのである」と橋本氏はいう。まことにそうなのだろうなと思う。しかし、最近の日本の風潮をみていると、こういう作品を上演して溜飲を下げたいとひともたくさんいるのではないかという気がしてくる。わたくしはどうにもこの作品に興味がもてないので、次にいってしまうこととする。
 同じ近松の「冥土の飛脚」である。「これはもう「文学」でしかない『冥土の飛脚』」という章の題名になっている。しかしわれわれのイメージしている梅川・忠兵衛の像は近松の「冥土の飛脚」ではなく、60年後の改作「けいせい恋飛脚」とか、さらにその歌舞伎化である「恋飛脚大和往来」によっているのだという。つまり「けいせい恋飛脚」などのほうが浄瑠璃的ということで、「これはもう「文学」でしかない」というのは「浄瑠璃的でない」ということでもある。観客の共感とか高揚とか驚きとかを狙った大衆劇ではなく、作者近松は醒めていて、遊女梅川とその相手忠兵衛の二人が心中にいたる過程を、こんなことをしたのだからこうなるのは仕方がないという目でみているのだという。「これはもう「文学」でしかない」というのは「これは純「文学」である」ということのようでもあって、だから名のみ有名でも「純文学」作家としての近松はあまり大衆には支持されず、作は演じられることも少なく、そのうち「譜」が失われてしまうというようなことになるのだということなのかもしれない。
 ここでの近松像は、最近の小説家としての橋本氏の姿勢にどこかで通じるところがあるような気がする。わたくしは橋本氏の書くものはなんでも面白くおいしいと感じるのだが、ただ小説だけはそう思えない。何か非常に窮屈な感じがする。文学、なかでも小説というのは何をやってもいいはずのもので、抜群のエンターテイナーである橋本氏であれば、もっともっと面白い小説がいくらでも書けるはずだと思うのだが、妙に禁欲的なのである。小説とはどのようなものか、どうでなければいけないのかという規定が橋本氏の中にあって、それにとらわれてがんじがらめにされてしまっているように思う。筆が伸びないとでもいうのだろうか? ひとことでいえば、ここでの近松はリアリストなのであるが、リアリズム小説というのはつまらないのである。ということで、これもパスして、最後の近松半二「妹背山婦庭訓」にいく。
 作者の近松半二は近松門左衛門を敬愛していたので、近松を名乗ったのだそうであるが、半二の時代にはすでに人形浄瑠璃は衰退しかかっており、この作品は危機に立たされた竹本座を立て直すために書かれたもので、事実、ヒット作となり、竹本座は息を吹き返したのだそうである。しかし半二の後にはヒットするような作品を書ける作者がでなくなり、そのため人形浄瑠璃伝統芸能化し、古典化していく。人形浄瑠璃は始まってから100年もしないうちに、リアルタイムの演劇ではなくなってしまった。(歌舞伎のほうでは並木正三や並木五瓶という人気作家が出、そのため、大阪の浄瑠璃から江戸の歌舞伎へと文化の中心も移っていく。)
 さて「妹背山婦庭訓」は大化の改新の時代を背景にするドラマである。敵役は蘇我入鹿なのだが、これはこの悪人を倒すドラマではなく「悪人を倒すことを目的とする善人達が悶え苦しむ試練のドラマ」であると橋本氏はいう。さらにいえば、三大浄瑠璃といわれるものも、すべて「善なる人、あるいは善であってしかるべきである人達が、不幸にのたうち回る話」のだとという。だから人形浄瑠璃には「救い」はない。そこにあるのは「不幸な結果を甘受するしかない者への鎮魂」なのである。だから浄瑠璃は日本人のマゾヒスティックなメンタリティを作り上げた。それを一蹴したのが前にとりあげた半二の、ハチャメチャなストーリーの「本朝廿四孝」の感傷を排したスピーディな展開であったと橋本氏はいう。だが「妹背山」はむしろ以前の浄瑠璃の形態に戻っているように見える。しかし、ここでの主役は善人たちではなく、倒される蘇我入鹿になってしまっている点が以前の浄瑠璃とは根本的に異なると氏はする。なぜそうなるのか、歌舞伎の世界で並木正三の英雄的な悪人が豪快に笑うのがもてはやされる、そういう時代になっていたからである。しかしこれはまた「婦庭訓」であるから「幸福な結婚をしたければ、命を惜しまず、夫となる男のために、身を粉にするような努力をしなさい」というフェミニストが目をむくような話でもあるのだ、と。
 などと書いてきたが、大化の改新の時代に武士がでてきてハラキリをしたりするのだから、話は滅茶苦茶である。そういえば「義経千本桜」も「仮名手本忠臣蔵」も「菅原伝授手習鑑」もみなそうなのだが。とにかく人形浄瑠璃というのはやたらと首が飛び、腹を切る。血まみれである(これは人形だからできるのだろうと思う。生身の俳優が演じるではつらい)。 とにかく、義経や大星由良助や菅原道真はまだなんとなくイメージできるが(そのイメージを作ったのが浄瑠璃なのかもしれないが・・)、われわれには(すくなくともわたくしには)蘇我入鹿はなんのイメージもわかない人物である。ということで、「妹背山婦庭訓」の内容にも立ち入ることはしない。
 
 橋本氏の導きで「浄瑠璃」を「読んで」きて、なんとなく浄瑠璃というものについていささかのイメージを持てるようになれたと思う。
 さて「不幸な結果を甘受するしかない者への鎮魂」ということである。この言葉から連想するのが井沢元彦氏が強調する日本における恨みを残して死んだものの怨霊への恐怖とその鎮魂のための神格化という問題である。典型的には菅原道真が天神様になるというものであろうが、浄瑠璃化も一つの鎮魂の儀式なのだろうか? あるいは棚に上げてしまう儀式、伝説化の儀式なのだろうか?
 そんなことを考えるのも、橋本氏に「桃尻娘」より前の作品である「義経伝説」という戯曲?があって、たまたまわたくしがそれを持っていて思い出して最近読み返したということがあるからである。買ってはいたが読まないままでいたのだが、たぶんこれは今なら理解できそうと思ったのである。まさにそうであった(日本の古典についての普通の常識を持っているひであればそうではないのかもしれないが)。それで「浄瑠璃を読もう」本編についての感想はこれで終わりとし、次に番外として、橋本氏の若き日の作「義経伝説」を見てみようと思う。
 

浄瑠璃を読もう

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