橋本治「その未来はどうなの?」(2)

 
  今回はあらためて「まえがき」から。
 橋本氏は、なんでここでに書いているようなことを考えているのかというと、それをしないと「自分の足下が崩れてしまう」からだという。「自分が明確だから、世の中のことなんかどうでもいい」と言える人は、自分を明確にするその前の段階で、「世の中がどうなっているのか」について十分な学習をしてしまっているのだという。しかしそういう学習は、いつまでも通用するとは限らなくて、いわば充電式の電化製品のようなもので、使っているうちに消費されてしまうのだ、と。この本は橋本氏の充電作業の記録というわけである。
 以前、竹内靖雄氏の本を読んでいて、別に日本が滅びてもかまわない。大事なのはどのような国、どのような体制であっても生きていける人間であるように自分を鍛えておくことだ、といったことが書いてあるのを読んで、驚嘆したものだった。わたくしにはとてもそのような覚悟はない。わたくしがしていることは、わたくしがいろいろな点において少数派であることの確認作業のようなものだが、そうだからといって自分の見解を多数派にしょうと運動をする気はまったくない。少数派なのだから、将来どのようなことがおきても泣き言はいわないようにしたいと思っているだけである。
 
 さて、橋本氏がまず論じるのがテレビ。橋本氏は「下らないヴァラエティ番組」が好きで「テレビというのは本来的に下らないものだ」と思っているのだそうである。テレビというのは「向こうから我が家に勝手にやってくるもの」で、普段着でいるところにきてしまうので、「よそ行き」を着て外に観にいく映画などとは根本的に違っている。寝そべったまま享受できるのだから、講談本とマンガの親戚である。テレビがでてきて、それまで娯楽と思われていなかった“暇潰し”や“いたずら”が“娯楽”になってしまった。
 それで、テレビは日本人をどう変えたか? やたらの数の批評的言辞を弄する人間を生み出した。だがそれにもかかわらず、言論そのものを活性化することはなかった。そして、「いい加減であってもいい」ということを普及させたが、それが「いい加減でいい」のとは違うということは、理解させなかった。
 わたくしはテレビをほとんど見ない。そのルーツをたどると、高校生のころ團伊玖磨の随筆集「パイプのけむり」を読んでいて、そこに「自分はテレビなどという低級な電気紙芝居なんか一切信用しない」というようなことがあって、そうか、そういう見方もあるのかと思って自分でも実行してみたら、テレビを見なくても一向に困らないことがわかったというのがはじめのような気がする。團氏のハイカルチャー趣味に感染したのである。テレビを低俗といっているひとはハイカル志向のひとが多い。橋本氏の特異性は、マンガ・ちゃんばら・歌謡曲といったインテリが顔をしかめるような方向への親和性がとても強いにもかかわらず、いまや大知識人になってしまっているというところにある。
 「ドラマ」については前回論じたので、次に「テレビ」とも関連する「出版」の話題。橋本氏がいうには、出版界は「えらそう」が支配的な世界である。つまり「下らなくない」世界なのである。橋本氏が最初の単行本を出したのは1978年なのだそうだが、すでに「若者の活字離れ」がいわれていたのだそうで、まだ20代であった氏は「当ったり前じゃん。自分が読みたい本なんか全然ない」と思ったのだそうである。本というのは、めんどうくさくて難しくて、「だからなんだって言うの?」というようなもんだと思っていたのだ、と。
 橋本氏がはじめての本を出版したのと前後して、1977年ジョッブスらがアップルコンピューターを立ち上げている。21世紀になるとグーグルが「ユニバーサル図書館」の構想をはじめる。このような動きは、それまで本というものが持っていた権威への反旗という側面があるのではないかと、橋本氏はいう。
 出版の世界には、本は「えらい人の書くもの」で、読者は「えらい人の書いたものを拝読させていただくもの」だというような思い込みが濃厚にある。その「えらそう感」が出版不況の大きな原因となっているのではないかと、氏は指摘する。もっとも「若者の活字離れ」のころから、今までとは毛色の変わった本もでるようにはなった、だからこそ自分なども作家になれたのかもしれない、と氏はいうのだが。
 アップルコンピュータの思想は反=中央集権である。そこには「えらい人」はいない。「ユニバーサル図書館」というようなものがでてくるのも、書物のもっている権威を失墜させたいという意識があるからではないか?
 出版業界がわかっていないただ一つのこと、それは人は本を読むことによって賢くなるということである。「えらい人の書いたものを拝読させていただく」などということがいつまでも続くことはないのに、読者が著者と対等になる可能性ということに思いいたらないのである。「根本的にえらそうになっていることに気づいていないことは問題だ」と氏はいう。
 
 ここで橋本氏がいっていることは、そのまま新聞業界にも通じるのではないかと思う。新聞もまた売れなくなってきているのだそうだが、あの異常な「えらそう感」があれば、そうなるのが当然という気がする。「社説」などというものがあって、それにえらそうなことを書いて恥じるところがないのだから、相当にタフな神経である。知識人というものがあり、それが民衆を指導していくというような時代錯誤をいまだに信じているのだろうと思う。新聞という王様がいて、臣民を導くという構図である。橋本氏によれば、そういう構図こそ反=民主主義なのであるが、新聞社は自分たちは民主主義の砦をまもっていると思い込んでいるに違いない。
 ついでにいえば、医者というのもかつては「えらそう」の代表選手であったような存在で、自分たちが「えらかった」古き良き時代への郷愁を捨てきれない「お医者さま」はいまもたくさんいる。そういう先生方はクレーマー的な患者さんを蛇蝎のごとく嫌う。「医療のことなどなにも知らないど素人が、専門家にむかって偉そうな口をききやがって、まったくもって許せない、どうしてくれようか」というわけである。世が世であれば、「そこに直れ!」でただちに成敗してやれたものを!、くやしい! と咽び泣いている。
 橋本氏は「民主主義は究極の政治形態である」という。それは民主主義が「力のある支配者が生まれることを防止するシステム」であるから。そこでは「私がすべてを決定するのだから、余計なことを言わずに黙っていろ」という人がいなくなる。「お医者さま」には大変に気の毒な世界である。しかし、「力で押さえ込む独裁者がいなくなった代わりに、国民の全部が王様や独裁者の性格を獲得して、自分の利益ばかりを追求するようになったから、収拾がつかなくなっ」ているのも事実で、クレーマーというのはその突出形態なのであろう。
 しかし、政治とか経済などの話題はまた稿をあらためてみていくことにする。
 

その未来はどうなの? (集英社新書)

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