山本七平「私の中の日本軍 上・下」」文藝春秋 昭和50年11月・12月刊 (二回目のとりあげ)

 
 実はこの本は2年半前くらいにも一度とりあげている。今回、年末に少し本棚の整理をしていたら、この間に新しい本に押しやられて奥のほうに隠れていた本の中から「山本七平ライブラリー」(文芸春秋)がかなり揃いででてきた。全16巻だが、第13巻「日本人とユダヤ人」の巻以外はみんなそろっていた。それと一緒に、埋もれていたこの「私の中の日本軍」の単行本もでてきた。
 山本氏が自身の軍隊経験を直接つづったものとしては、「私の中の日本軍 上下」昭和50年(1975年)12月刊、「ある異常体験者の偏見」1974年(昭和49年)5月、「一下級将校の見た帝国陸軍」 昭和51年(1976年) が一つのセットになっているが、山本七平ライブラリーの最終巻である第16巻「静かなる細き声」(これ自体は未読)巻末に付された年譜によれば、昭和47年(1972年)に横井庄一さんがグアム島で発見されたのをきっかけに文藝春秋に書いた文が、山本氏が自分の軍隊体験を書き出すきっかけとなったらしい。それが「私の中の日本軍」(「諸君」)で、1972年〜74年に連載され、75年単行本化されている。一方、1973年からは「ある異常体験者の偏見」も「文藝春秋」に連載され、74年に単行本化された。さらには75年には「週刊朝日」に「一下級将校の見た帝国陸軍」が連載されている(76年単行本化)。この頃、山本氏には日本帝国陸軍について書きたいことがいくらでも沸いてきていたのであろう。
 この「私の中の・・」の書き出しでは、日本赤軍のテルアビブ空港乱射事件や連合赤軍による浅間山荘事件を話題にしている、空港乱射事件で岡本公三が捕まったあとにとった態度が、日本軍人が捕虜になったときに示した態度に酷似していること、連合赤軍内でのリンチが日本陸軍で猖獗をきわめて私的制裁(リンチ)に酷似しているということから戦前戦後の日本社会の同質性というところに話をすすめていく。
 山本氏は日本の陸軍において天皇の命であるにもかかわらず完全に無視されたものが二つあり、それが「私的制裁」と「階級」であるのだという。タテマエの秩序ではない自然発生敵な土着の秩序体系がないと軍隊はもたず、私的制裁を禁じ、「星の数よりメンコの数」という秩序感覚を否定したら、崩壊してしまったであろうという。そしてここからが山本氏の論が冴えるのだが、戦後の「ある左翼政党」(日本共産党のことですね)でも「党歴何年あるいは入獄何回だけがものをいう」のだと書いている。
 連合赤軍事件は多くの全共闘新左翼系の潜在的顕在的な支持者に非常に大きな衝撃をあたえ、多くのその系統の運動からの離反者を生んだらしいのだが、わたくしにはまったくインパクトがなく、馬鹿な人間が馬鹿なことをしているというだけのこととしか思えなかった。ライフル何丁かで革命をおこすということを真面目に考えているというだけでも正気とも思えなかった。
 後に小室直樹氏の「危機の構造」を読んでいたら、この連合赤軍事件について「盲目的予定調和説」ということで説明していて、頭のいいひとが見れば同じ事件でもまった違って見えるのだなと感心した。「盲目的予定調和説」というのは「自分たちこそ自覚せるエリートであり、日本の運命は自分たちの努力にかかっている。この努力は「特定の行動」の遂行という形でなされるので、それに全身全霊を打ち込むが、それと関係ないことは無視する。特定の行動に打ち込めばその他のことは自動的にうまくいき、日本は安泰となる」というようなものなのだとされる。連合赤軍事件の場合、「特定の行動」とはライフル射撃の熟達ということで、この事件における彼らの射撃の腕には驚嘆すべきものがあったという。自分が自分の持ち場で全身全霊をつくせば、その他のことは自動的にうまくいくはずだという思考法は日本に蔓延しており、現代のエリート官僚や大企業のエリート・ビジネスマンも同じ思考法であり、遡れば、戦前の軍事官僚もまた同じ思考法でいたという。
 山本氏は現象面を捕まえ、小室氏はそれに理論体系をあたえているということなのであろうが、とにかく山本氏は日本の病理とその根源を嗅ぎ当てることに異能を発揮したひとだったと思う。
 そして日本の会社組織の病理ということを考えるためにも山本氏が示した視点はきわめて示唆に富むのではないかと思う。最近の過労死問題にしても、日本においてはある程度大きくなった組織は、単に機能集団であるだけでは機能しなくなって必ず共同体化していき、そのことで機能する集団として維持できるのだという視点からみないと見えてこない部分があるのではないかと思う。そしてパワハラの問題にしても、陸軍における私的制裁との類似という観点みると見えてくるものがあるはずである。