池田信夫 与那覇潤 「長い江戸時代のおわり 「まぐれあたりの平和」を失う日本の未来」(5) 中国―膨張する「ユーラシア」とどう向き合うか(ビジネス社 2022年8月)

 与那覇氏の「中国化する日本」については、ここで以前かなり長い感想を書いていたがあまり覚えていなかった。後期高齢者になるというのは本当に困ったものである。
 「中国化する日本」は氏が「大学院で東洋史を齧れば誰でも知っている話」という「宋朝以降の中国の伝統王朝は   「もともと新自由主義的な社会」だった」という視点をわれわれに紹介する本だったというのだが、ごりごりの西欧派であるわたくしにはどうもピンとこず、しかし何か大切なことがそこにあるのかなと思い、自分のための備忘録でもあるここに要点を抜き書きしておいたのだと思う。

 なにしろわたくしにとって中国というのは李白杜甫長恨歌であり三国志でもあって、現実の政治ではなく、詩であり、また英雄譚であり、ようするに昔の漢文の世界、鞭声粛粛 夜河を過る 曉に見る千兵の 大牙を擁するを・・ これだと日本の話だけれど、それと区別がつかない世界なのだから、酷いものである。

 わたくしのみる中国というのは、なにしろ大きな国だから時々の政権が実際に支配していたのは城壁に囲まれた都市部だけ、城壁の外の農村部はほったらかしというような途方もなく杜撰なものであった。しかし今でも中国においては、都市と農村という二元的な管理構造は解消できていないと思うので、私の理解は根本的には間違っていないのではないかという気もする。
 また、わたくしの中国観にかなり影響していると思うのは高島俊男氏の「中国の大盗賊・完全版」(講談社現代新書 2004)である。これは中国の政権交代の多くは、盗賊集団が政権を倒して国家を簒奪することでおこなわれてきたということを主張している。毛沢東の政権奪取もその驥尾にふすものだという主張が味噌になっている。
本当にその通りなのだろうと思うのだが、多くの山賊たちが掲げたスローガンは配下のインテリに作らせた単なる飾りにすぎなかったのに対して、中華人民共和国の場合は、山賊の首領である毛沢東自身が大インテリであったということで(但し、西洋的教養ではなく、生粋の伝統的中国文化人・・高島氏)、教養人がトップになると恐ろしいことになる典型的な事例なのだろうと思う。ついでに言えば、スターリンも大教養人だったらしいし、ポルポトもまた。

 高島氏が引いている毛沢東の詩(詞・・ツーというらしい)を紹介してみる。

北方の風光、
千里、氷はとざし、
万里、雪は舞う。
長城の内外を望めばただ茫々。
大河の上下は、
突如その流れを止めた。
(中略)
山河はかくのごとく魅力にあふれ、
無数の英雄がこぞってひざまづいた。
惜しいかな秦始皇・漢武帝は詩文を解せず、
唐大皇・宋太祖も風雅に劣る。
一代のわがままもの、
ジンギスカンは、
弓を引いて大鷲を射落とすことしか知らぬ。
みな過去のひととなった! 文雅の人物は、
やはり今日を看よ。

 最後の一行を高島氏は「それはほら、きみの目の前にいる男を見てほしい。」という意としている。
実に気宇壮大でいい詩である。問題はこの大教養人がマルクス主義を本気で信じていて、そのため、1500万〜5500万人が死亡したとされる「大躍進政策」とか、2000万人が死んだとされる「文化大革命」を引き起こしたことである。
 それから、大きな声ではいえないが、自分には、北方謙三氏の「三国志」も少し影響しているような気がする。塩を運ぶ道とか・・。基本的に北方氏のこの本は全共闘世代の挫折のうっぷんをフィクションの世界で晴らそうというものであったと思うが・・・
 それに浅田次郎氏の「蒼穹の昴」、これ本当に凄い小説。科挙の制度とか宦官とか、歴史解説書などの何十倍もよくわかる。

 さて、上記のような理解だから、「宋朝以降の中国の伝統王朝は「もともと新自由主義的な社会」だった」といわれてもピンとこなかったのだと思う。
 高島氏によれば、中華人民共和国を作るのに何より貢献したのは日本である。蒋介石の国民党との直接対決ではまったく勝ち目はなかった中国共産党は、日本がでてきて蒋介石と闘ってくれたので漁夫の利をえることができた。
 高島氏による、ごく簡略化した中国の近代史。
911年:辛亥革命。清が倒れ、
1912年:中華民国ができ、孫文が大統領になる。しかしわずか2ヶ月で袁世凱に追われる。
1916年:袁世凱が死ぬ。その後は、群雄割拠で軍閥時代が続く。
1919年:孫文が日本から中国に戻って中国国民党をつくる。これもソ連の援助を受ける。
1921年:中国共産党ができる。ロシア革命の4年後。ソ連の工作による。それは北京大学の当時の最高級知識人の集団だった。
 当初は国民党も共産党ソ連の傀儡で仲はよかった。
1924年:国民党と共産党が合併。毛沢東も国民党に入り、幹部となる。
1926年:孫文の後を継いだ蒋介石が北伐を開始。
1927年:蒋介石は国民党から共産党員の追い出しを始め、南京に「国民政府」を樹立。・・・
 さて、その先がいよいよ毛沢東なのだが、高島氏の本では、その辺りの記述が50ページほどもあるので、わたくしにはそれを要約する根気がない。関心のある方は直接、高島氏の本にあたっていただければと思う。
 273ページに「毛沢東という人は「体が丈夫で、頭がよくて、意志が強くて、・・「乱」の好きな人」とある。歴史上の英雄豪傑はみなそうなのだろうが、とにかくボルテージが高い人。毛は湖南人であるが、湖南人はトウガラシが大好きなのだそうで、毛も大好き。で、トウガラシを食わないと強い革命家にはなれないぞ、といってみなに薦めていたそうである。毛が海外留学を断念したのもパリやベルリンにはトウガラシがないときいたからだとか・・。(←本当かしら?)

 さて、ようやく高島氏の本を離れて、本文に戻る。

池田:2019年1月の武漢のロックダウンを見て、近代的な人権概念のない中国だからできると思ったが、その3月からイタリアをはじめとして、多くの欧米諸国がロックダウンに追い込まれていった。西洋近代の人権概念がゆらぐように見えた。
那覇:ヨーロッパではまきかえしもあったが、中国は22年3月に上海でのロックダウンにまで進んだ。
池田:宋朝になって「科挙官僚制」ができた。日本は「国民が政府を信じていない」という点では中国に近い。これは、日本の場合は、国民が法を超える「空気」(山本七平)で統治されているから。
那覇:日本人にとって中間集団こそが世界のすべて。国家とはなるべくかかわりたくない。
池田:鎌倉時代に、武士の家を「緩く束ねるだけ」のあり方が統治機構のモデルとして定着した。江戸時代のシステムはその完成形。
那覇英米法の国では憲法なんて、要は国民と政府の間の「契約書」にすぎない。
池田:それが成立するためには「強い個人」の概念の確立が必要。
那覇:今の中国の問題は、「恣意的な裁量」に全面委任されていること。
池田:今の日本では原発の新設はほぼ不可能であるが、中国は2030年までに原発を100基運転する予定で世界最大の原発大国になるとされている。(今のところはまだ石炭火力に依存だが・・)
池田:ⅭO2削減に寄与するのはEⅤではなく、ライドシェア。
池田:日本の輸出入の四分の一は中国が占めている。

 昨今の天変地異の時代に、原発100基も作って大丈夫なのだろうか? しょっちゅう中国からはダムが決壊寸前というニュースが流れてくる。
 さて、ここで山本七平氏の名前が出てくるが、それは日本を論じる場合にどうしても氏の論が外せないからだと思う。
 しかし昔どこかで読んでびっくりしたのだが、丸山真男氏は山本氏の本を一冊も読んだことがなかったそうである。氏にとってはアカデミーのなかにいる人だけが論ずるに足るひとであって、在野のひとなど眼中になかったのであろう。そうすると渡辺京二氏などもまったく視野にははいっていなかったのだろうか?

 山本氏の日本論は何より氏の軍隊体験から生まれたのだと思う。司馬遼太郎氏の論もまた。
 山本氏の「私の中の日本軍」に「浅間山荘銃撃戦」の話がでてくる。氏はいう。「あれは「戦い」でも「銃撃戦」でもない。戦場なら五分で終わり、全員が死体になっているだけである。今ならバズーカ砲、昔なら歩兵砲の三発で終りであろう。一発は階下の階段付近に打ち込んで二階のものが下りられないようにし、二発目は燃料のあるらしいところに撃ち込んで火災を起させ、三発目は階上に打ち込む。・・・しかしこの「戦い」?を赤軍派の方は「権力に対して徹底的に戦い」「その戦いを全世界に知らしめた」とする。権力側が「殺さぬよう」に手を抜いただけなのに・・。安田講堂攻防戦もまた同じであろう。
 砲弾3発でどこにどのように打ち込むかまで山本氏が書いているのにはびっくりである。それは氏が実際の戦地での戦争をわが身で経験しているからである。しかし赤軍派の愚は日本軍の愚の繰り返しなのだと山本氏はしている。
 少し前にとりあげた佐藤・池上両氏の「日本左翼史」がどこか薄っぺらい感じがするのは、実際の生身の人間がおこなう血が通う「政治」と紙の上だけので頭の中だけの「政治」が区別されず、むしろ頭の中の政治に比重が傾きがちであることによるのではないかと思う。
 日本には「強い個人」が確立していないということがよく指摘されるが、強い個人はまとまるはずはなく、めいめい勝手に好きなことを主張するだけである。そういう存在が習近平氏が率いる強権国家に勝てるはずはないと思う。
もしも人類の歴史がもう少し続くとすれば、西欧近代というのはあるいは歴史のなかで一時的におきたささやかなエピソードとして記載されることになるのかも知れない。

 最後の第6章は「提言」- 日本の未来も「長期楽観」」でと題されている。
 本当に楽観でいいのかしら?