山本七平の初期の陸軍もの〔「私の中の日本軍」(上下)、「ある異常体験者の偏見」、「一下級将校の見た帝国陸軍」〕

 
 「ある異常体験者の偏見」は昭和48年から49年にかけて「文藝春秋」に連載されたものが昭和49年(1974年)5月に文藝春秋社から出版されている。
 「私の中の日本軍」は「諸君」に連載されたものらしいが本書中にはいつからいつまでの連載という記載はないようであった。刊行は昭和50年(1975年)文藝春秋社から。
 「一下級将校の見た帝国陸軍」は昭和51年(1976年)朝日新聞社からの刊行であるが、これがどこかの雑誌に連載されたものの書籍化か書き下ろしかはやはり書かれていないようである。
 わたくしは「私の中の日本軍」は初版を持っているが、「ある異常体験者の偏見」と「一下級将校の見た帝国陸軍」はともに1981年の版である。とすると、「私の中の日本軍」を刊行当時買って読まずにおいておいて、1980年頃に何かのきっかけで読んでみて、それで「ある異常体験者の偏見」と「一下級将校の見た帝国陸軍」も読んでみようと買ってきたということのように思うが、記憶がはっきりしない。
 いずれもどうということのない造本の本であるが、「私の中の日本軍」は刊行が古いためか紙がかなり劣化している。おそらく酸性紙なのであろう。これらはいずれも1997年ごろに刊行された「山本七平ライブラリー」にも収載されているはずである。
 イザヤ・ベンダサンが山本氏であることは現在ほぼ公認されていると思うが、山本氏が本名で出版した本は「ある異常体験者の偏見」が最初だったのではないかと思う。
 山本氏のこれらの本を思い出したのは、最近の慰安婦問題に関連してである。山本氏が論じていた「百人斬り競争」記事の虚実などが慰安婦問題とまったく同じ構造であると思えたからである。
 「ある異常体験者の偏見」は、毎日新聞社の新井宝雄という人のある文章への反発からはじまっている。今の時点からみれば新井氏は典型的な毛沢東崇拝者あるいは共産中国礼賛者なのであるが、共産中国では中国民衆が共産党毛沢東のもと一致団結して燃えるようなエメルギーで建国に励んでいるというような見方が根底にあり、そのようなエネルギーによって日中の戦争においても強大な武器をもつ日本が打ち負かされたのであるというようなことを述べていた。それに対して山本氏は、そういう発想は戦前戦中、日本の軍の上層部が大和魂というもので米軍の近代装備を打ち負かせるとしたのとどこが違うのだとした。第一、強大な武器を持つ日本などというが、日本の兵器の劣悪を知っているのか?、3挺に1挺しか弾のでない機関銃を持つ日本軍とチェコ製の高性能の機関銃をもつ中国軍では兵器自体のレベルが違っていたし、中国軍は日本と戦う以前から内戦を続けてきた戦争のプロで歴戦の勇士たちがそろっているのに、日本は日露戦争以降戦争を知らないアマチュアに近い軍隊であったという視点がまったく欠けていることなども指摘していた(新井氏のような主張はベトナム戦争当時にも見られたように思う)。
 「精神力」(民衆の燃えたぎるエネルギー)対「武器」という考えをとるならば、「精神力」という不確定要素はどのようにでも高く見積もることもできるのだから、戦争に突入した軍部の判断もまた正当化されるではないか? そこから話は「百人斬り競争」に移っていく。「十挺の機関銃で十万人を虐殺した」などという記述は当時の軍の装備をしっているひとなら端から嘘とわかることなのに、そういうことを平気で書いている。そもそも人を斬ろうにも中国軍はその姿さえ見えないのだそうである。
 「私の中の日本軍」ではもっと具体的に「百人斬り競争」の問題をあつかっていて、そもそも日本刀というのは武器として欠陥品なのではないかということを述べている。氏によれば日本刀は使うとすぐに鍔の上あたりで左に曲がってしまって、刃こぼれをしたりして、あっという間に実用に耐えなくなるのだそうで、それで百人も斬るなどということは実際の軍を経験した人であれば誰も信じないことであるはずである、と。そもそもこの「百人斬り競争」の当事者の一人は砲兵に属する軍人ということで、砲兵が砲のそばを離れ、白兵戦をもとめて戦場をうろつくなどそれだけで軍法会議ものである(それ以前に戦場の場数を踏んでいる中国兵はそもそも日本軍の視野にさえ入ってこないというのに)。
 この本を読んで、特に日本刀の性能の話を読んで、完全に説得された。この「百人斬り競争」というのは「東京日日新聞」(後の「毎日新聞」)に掲載されたもので、この記事によって、この「百人斬り競争」をしたとされる二人の軍人は戦犯として処刑されている。山本氏は、この記事は何よりもこれを書いた記者が、自分は銃弾飛び交う最前線で仕事をしているということを日本に伝えるために書いたのだとと推測している。今日も敵は影も形も見えなかったなどというのでは記事にならない。
 日本刀の武器としての能力については反論もあるようであるし、この「百人斬り競争」自体は捏造記事であるとしても、これをおこなったとされる軍人が捕虜の処刑をした人数を誇っていたのではないかという見解もあるらしい。この「百人斬り競争」は朝日新聞本多勝一氏の「中国の旅」で取りあげられてこのころ話題となっていたようである。山本氏の本には「今の日本には「ご注進屋」という人がいて、何かあるとすぐ中国側にご注進」すると書かれている。わたくしには今の慰安婦問題と本多氏の「中国の旅」(これは読んではいないけれども、戦中に日本軍がいかにひどいことをしたかということが書かれていているらしい)は通底しているように感じる。
 ほとんど読んでいなくてこういうことをいうのはいけないのだけれど、本多氏のようなひとはもっともわたくしが苦手というか嫌いなタイプの人である(虎の威を借りて威張るひとだとだと思う)。しかし、本多氏をジャーナリストとして極めて優秀と評価するひともまた多いようである。氏にあこがれて朝日新聞にはいったひともいるらしい。そういう本多氏を優秀とする風土が慰安婦問題をつくったように感じる。山本氏によれば、本多氏のようなひとは結局、戦時中の日本の軍人の系統をそのままひくひとなのであって、戦中の戦意高揚の記事を書いていた気持ちとまったく同じ気持ちで中国への日本の侵略の反省を書いているということになる。
 「一下級将校の見た帝国陸軍」の第一章は「“大につかえる主義”」と題されている。事大主義であって、結局、軍隊を支配していたのは事大主義であり、マスコミを支配してきたのも事大主義であるということである。その時の“大”が帝国陸軍であればそれに仕え、アメリカ占領軍であればそれに仕え、毛沢東中国であればそれに仕える。
 朝日新聞は戦争反対を社是にしているらしい。しかし、戦争がいかに悲惨なものであり、軍隊というのがどんなにか非人間的なところであるのかということの教科書として、この山本氏の一連の陸軍を論じた著作ほどそれに適したものはないように思う。だが、それは同事に激烈なマスコミ批判の書でもある。要するにそこでいわれていることは、戦時中に戦意高揚の記事を書いた精神と、戦後に戦争を反省し非戦を誓う精神とは同じ根の上にあるということなのである。
 おそらく今一番必要とされることは、戦争翼賛の記事をなぜ書いたかということの真摯な検討のはずで、それをすれば慰安婦報道の問題点も自ずと明らかになってくるはずである。終戦すぐにアメリカ一辺倒に転換できたということは、自らの戦争へのかかわりについて碌な検討もしなかったということで、結局それをおこたったつけが今まわってきているということなのだと思う。
 山本氏は“右”ということになっているのかもしれないので、朝日新聞としてはそんなものを参照などは絶対にしたくないかもしれないが、“敵”の側にもまともな人がいるという広い心を持てない限り、再生はおぼつかないような気がする。
 もっとも山本氏の本は脱線に次ぐ脱線で、横道にはいったまま出てこないようなところも多く非常に読みづらい。山本氏は何かが変だと感じる能力においては超一流であったと思うが、それを論理的に構成し示すことはいたって苦手であったように思う。自分で“異常体験”をして“偏見”をもつようになったといっているくらいであるから、そもそも自分の体験すら言葉ではどうしても尽くせないところがあると感じていたと思うし、その体験がもたらした嗅覚で“何かおかしい”と感じることはあっても、その“おかしさ”を読者にわかってもらうことには苦心惨憺していたように思う。それが氏の本を読みづらくしていると思うが、それでも読む価値がある本であることは間違いない。
 司馬遼太郎氏も山本氏も今では“保守”の人とされることが多いのかと思うが、今度の戦争に従軍して、そこでの経験で徹底して懲りて、なんでこんな愚かな戦争をしたのかの追求を生涯のテーマにしたひとだったのだと思う。司馬氏が戦車部隊、山本氏が砲兵という陸軍のなかでも例外的に工学的な部隊に所属したことがそれに関係しているような気がする。メカニズムというのは精神力などではいかんともしがたい部分を持つ。銃は明治38年製、機関銃は大正11年製、ソ連との戦争ばかりを想定していて、アメリカとの戦争など考えてもいなかった軍がおこした戦争、勝てるシナリオをまったく持たないではじめた戦争、そこには合理的な思考が片鱗も存在していない。しかし紙のように薄い甲板の戦車でも合理主義思考で動かすしかないし、フランスでの設計のまま作って日本人の体格にはあっていない砲であっても、なんとかそれを使うしかない。
 要するに軍の上層部は“真面目に”戦争をしていない。そしてそういう不真面目な戦争を朝日新聞は(それ以外の新聞も)煽りに煽った。朝日新聞の上層部も不真面目であったのである。なぜそのようなことがおきたのか? そこのまともな反省なしに戦後出発してしまったことのつけを今支払うことになってきているのだと思う。
 そしてもうひとつ感じるのがマルクス主義の亡霊ということである。マルクス主義を、“資本家という巨悪”対“労働者という弱者であるがゆえに正義である人々の連合”の対立という図式でとらえると、“巨悪”に対立するものは“正義”の側に立つことになる。ソ連の崩壊でマルクス主義の神通力が消失した後も、“強者”対“弱者”という図式は残り、弱者に味方するものが正義という信念はそのまま残った。“反権力”と“弱者救済”が報道の大前提として残った。慰安婦問題でいえば、日本軍が権力であり強者の側で、慰安婦の側が権力によって一方的に蹂躙された弱者となる。だから弱者の側にたってその味方となることが間違ったことであるはずはないし、それによって報道する側が正義の側にいることも自動的に証明されることになり、主観的には善意ということになる。その報道に一部間違いがあったのだとしても、それを認めることは弱者救済の方向が後退してしまうことになる。大義は弱者救済なのであるから、大義の前には少々の間違いは許容されるべきであるという論理が続いてきたのであろう。本当は守りたいのは自分が正義の側にいるという思いのほうであったのかもしれないが・・。
 山本氏はフィリピンに砲兵としていった。わたくしがいつもものを考えるときの参照枠としている吉田健一氏は海軍だった。吉田満氏の「戦艦大和ノ最期」ももちろん海軍である。阿川弘之氏も海軍だったと思う。同じ従軍といっても陸軍にいったものと海軍にいったものでは軍への見方が違ってくるということがあるのだろうかということも、考えなくてはいけないことなのだと思う。
 

戦艦大和ノ最期 (1981年)

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暗い波濤 下巻

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山本五十六

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