[道草」谷沢永一「山本七平の智恵」

 
 最近、山本七平氏の本を読み返しているが、それで本棚をみていたら奥からこの本がでてきた。1992年12月の出版だが、わたくしのもっているのは1993年の1月の第3刷である。今から約20年前の本。
 谷沢氏というひとはわたくしには今一つよくわからないひとで、「紙つぶて」などは本当に大したものだと思うし、同人雑誌「えんぴつ」の仲間であった開高健向井敏を加えた鼎談「書斎のポ・ト・フ」にも随分と教えられた。アナトール・フランスの「神々は渇く」、ツヴァイクの「ジョゼフ・フーシュ」、クーパーの「タレイラン評伝」、モーム「昔も今も」、あるいはオーエルの「動物農場」も、みんな本書で知ったか本書を読むことで読んでみたくなった本である。一番大きかったのは、篠沢秀夫の「篠沢フランス文学講義」を知ったことかもしれない。殿山泰司の本を読んで見る気になったのもこれを読んでである。
 しかし「人間通」になるとわからない。随分と救いのない人間観で、こういう見方で生きているとつらいだろうなと思う。そう思うのはわたくしがお坊ちゃん育ちで世間知らずであるからなのであることは間違いないが、これはヒュームの「およそ人間は無節操で利に走りやすい悪人であり、人間の行動には私利私欲以外の目的はないと想定しなければならない」というのとは違う。ヒュームは私人としての人間は私利私欲というわかりやすい原理で動いているので理解が容易であるが、公人としてふるまっている場合には正直でないので注意が必要ということをいっているので、ヒューム自身は無類の善人で無私の人であったとされているようである。「人間通」を読む限り、谷沢氏は人間が気高くなりうる可能性というようなことは信じていないようである。確かに人間は度し難い存在ではあるが、それでも何かの拍子に崇高の片鱗のようなものを見せることもあるということを信じないと、随分と人の生は味気ないものとなってしまうのではないかと思う。
 
 さてこの「山本七平の智恵」は、山本七平のすべての著作は全体で壮大な日本人論を構成するものであるという観点から、山本氏の著作のなかのそれを示す断片を引用して、それについての谷沢氏の見解を付加するという構成でできている。少し読み返してみたら、何だか最近の朝日新聞問題を論じているとしか思えないように思ったので、そのことを少し書いてみたい。
 
 巻頭には「日本人とユダヤ人」から、日本人は法律などどうでもいいと思っているという部分の引用がある。
 もしも「人間性が無視されている」と感じたならば、日本人は平気で法律を破る。しかしそれはその法に従う必要はないということには決してならない。「人間性を無視しない限りは」その法は有効なのである、と。これはおそらく川島武宣氏の「日本人の法意識」などにも通じる論で「なまなかの法律論は抜きにして、義理と人情の話し合い」なのである。
 ここでの「義理と人情」と山本=谷沢の「人間性」は通底してるはずである。そこから谷沢氏はみんなの賛同を得るということの日本での重要性を指摘する。
 日本人は人に言い伏せられる、言い負ける、いやいや従うということを何よりも嫌うのだ、と。法律は言い伏せるものなので、納得するというプロセスを欠く。みんな納得した上でないで、ものごとは進まない、法律にはそう書いてあるなどという話では「人間性」を欠き、「人情」に反するから、日本では誰も納得しないのである。
 
 次の「日本教の定義について」ではすぐに新聞の問題となる。
 山本氏はいっている。どの新聞でも、一つの立場に立つ。これは公正とは関係ないはずで、そもそも何かの立場・視点がない限りは新聞が記事を書く場合の立脚点が持てない。日本でその立場が鮮明なのは、日本経済新聞とアカハタであると山本氏はした(これは山本氏が書いた1970年という時点の話なので、今ならアカハタと公明新聞としたほうがわかるであろうと谷沢氏はいう。もう日経新聞は一般紙であるから、と)。それは自分がよってたつ基盤を鮮明にしている。しかし、一般紙が何によってたつのはか少しも明かではない。不偏不党とか公平とかいうが、ものを見ているならば、見ている自分の位置というがあるはずなのに、それを言わない。
 不偏不党とか公平というのは、西欧での観点からすれば、そういう位置に立ちうるのは神だけである。とすれば日本の新聞は「神」なのである。しかしと山本氏はいう。日本の新聞の立場は日本の「法外の法」、日本教の宗規なのである、と。
 それを受けて、一億の日本教徒の立場を無視して新聞社が存立できるはずがないではないか、と谷沢氏はいう。「赤旗」も、「われわれの党派の立場では、こういう見方が正しい」とはいわない。不偏不党、最も公明正大な立場からいうとという建前である、と。日本の場合には、党派性というのは忌避され、どこか絶対に正しい真実がこの世にあるはずだということが前提にされる。
 西洋では神に帰せられるこの絶対の真実が、日本では不思議なことに、その真実をすべての日本人が胸のなかに抱いているということになっている。だから日本人は新聞を読んでも、自分の考えに合っているかを見ているのであり、教わろうなどという気持ちは毛頭ない。日本人には真実は自分の胸のなかにあるのであり、それ以外の真実把握能力を他者に委ねることを絶対にいやがるのである。日本人全体が、一つの湯につかっていて、「いい湯だな」といっているはずだという前提があり、会話といってもその中での会話である。それを乱すものはすべて異端者となってしまう。
 ぞの次の章は「日本国民新聞『朝日』」で、日本の新聞が「プラウダ」と違うのは、商業紙であるということで、購読者から一定の判断を無言のうちに強制されているということにある。それに迎合せざるをえない。判決が先にあって、後から証拠を集めるようなことをせざるをえない。日本の新聞は日本教徒が法悦の気持ちでいられることを目的としている。この山本氏の見解に、谷沢氏は、これは「朝日新聞」偏向説という批評を根本から覆した画期的な論であるとする。経営にマイナスになる読者の数を減らすようなことをできないのである、と。
 「朝日新聞」は、読者がそれを欲するからそう書いている。谷沢氏は「読者がある日、自分の欲するところの仰角というか、俯角というか、あるいは横幅、それを変えれば、即座に、三日を経ずに新聞は変わる」ということを雑誌「諸君」に書いたという。
 昭和50年ころに日本人は大きく変わったという。それまでは地球上のどこかにお手本が欲しいと思っていた。日本には高度の文明をもつ国を先進国と認めるという必ずしもどの国も持つわけではない謙虚?な感覚をつねにもっていた。先進国は中国からイギリス・ドイツ・フランスとなりアメリカとなった。だんだんとそういうものがなくなってきて、最期は毛沢東中国にすがりついた。そういう日本人の心性を一番よく代表していたから、「朝日新聞」はトップの新聞となれたのである。他の新聞は「うちは朝日ほどひどくありません」というようなことが言えるだけであった。
 
 次が「毎日が「踏み絵」」。
 戦争中、国民の誰もが現状について正確な認識をしていた。しかし、その現状認識を口にすることはできなかった。いうと、「そういう弱気なやつがいるから今日の事態がおきたのだ」といわれて袋だたきの目にあうからである。谷沢氏も会社の業績が傾いたときも同じで、あす潰れるとか、銀行から新しい経営陣が乗り込んできたというような事態になってはじめてそれを口にできるのだ、と。
 日本においては「事実は問題ではなく、それを言うかどうかが問題」なので、日本人は事実はよく知っているが、考えているのは、それを言うかどうか、今言ってもいいかということのほうなのだ、と。
 だから戦時中、外から見ていると日本はあれほどの苦境に陥っていながらも、おそろしい耐久心をもって頑張っているように見えた。それで原爆が落ちた。
 こういう精神構造は日本人だけなのではないか? それほど他人の目が恐い。日本人はものすごくお節介で、抛っておいてくれない。個性とか個人の信念などが公認されない。日本人をただ一言でいうと“お節介”である。
 だから昔から、時々精神的亡命者が生まれる。インテリで日本的な人間関係の湿度に合わないひとがそうなる。しかし、その湿度に合うひとにとって日本ほど生きやすい国はない。
 こういう辺りを読むと、谷沢氏が「人間通」でいっていたのは、日本人はこのように生きると生きやすいということで、そのように生きるべきということではなかったのかもしれない。わたくしにはそうは読めないのだが・・。
 
 次が「是非論好きの日本人」。
 日本では「可能か・不可能か」ではなく、「是か・非か」に論がいってしまう。ひとからそれはできないと指摘されるのが不愉快である。だから、可能か不可能かではなく、是か非かという抽象論に走る。人間の力は乏しくて、かよわき存在であり、成すことのできないことがたくさんあるので、やむをえず出来ないことはあきらめざるをえないという自覚に直面することをいやがるのである。
 
 そして次が「なぜ己れの過去を悪くいいたがるのか」。
 現在の自分は無謬であるという信念は「現在の無謬性主張」という形でもあらわれる。戦中には大正から昭和はじめの自分は間違っていたとされ、戦後には、戦争中の自分は間違っているとされた。
 だから反省というのは「現在の自分は正しい。その正しい自分から見ると、過去は正しくなかった」という形をとる。過去の反省と批判が現時点での自己義認とワンセットなのである。
 過去と現在の双方が可謬性のあるものとして比較検討するという視点をもてない。この山本氏の論を敷衍して、谷沢氏は「日本人は現在の自分さえ正しければ、過去はどうでもいいのだ」という。
 過去がどうであれ、それを責めることは人情に反することで、日本教に反するのである。だから日本教の圏内では、自分の過去が暴かれることで自分が責められることはありえない。とすれば過去はどれほど悪くてもかまわないし、ましてや自分がかかわっていない自民族の過去であれば、それをどれほど悪くいえるかが、自分の現在が正しいことの証明になる。
 これは何も戦後のことばかりではない。明治には江戸をどれだけ悪し様に言えるかが競われた。だから、世界中のあらゆる戦争に必ずついてまわる事象を、羊羹の切れ端のようにそこだけ切り取って日本にだけあったものであるようにいう。
 
 次が「臨在感的把握について」。
 臨在感的把握というのはおそらく山本七平氏の造語であると思うが、相手の意思や意向は一切斟酌せず、こちら側で勝手に想像、あるいは捏造、妄想して、それを相手に仮託する態度をいい、相手は当然そのような自分の仮託に則って反応することが期待される。谷沢氏は、それがそうならず、相手のエゴであるとか要求とかがでてくると、あいつは信用できない、あの国は信用できないとなる。とすれば日本人は他者とはつきあえないことになる、という。「気ごころの知れない相手」とはつきあえないのである。
 
 ここまでで50頁ほどであるが、とりあえずここまで。
 
 この何回かのエントリーで、最近の朝日新聞のことについて書いてきたが、わたくしの抱く感想のほとんどは、とっくにここに書かれていたのだなあと思うと、なんだかお釈迦様の手の平の孫悟空である。わたくしが感じたのは朝日新聞をめぐる議論がドメスティックだなあということであった。批判する側は何しろ《日本の美しさ》派であるから、その論がドメスティックになるのはやむをえないとしても、防衛にまわる朝日新聞とその擁護派の論もひどく内向きであることを強く感じていた。攻撃派はもともと世界のことには関心がなく、世界からどう思われるかにしか興味がないようであるし、朝日新聞側も世界には様々な物の見方や考え方があり、自分たちの見方はその一つに過ぎないという意識が希薄で、「正しい」ことはそのままどこにいっても正しいと通用するというような能天気な認識でいるように思えたからである。
 「朝日新聞」のこれまでの論調は、読者(新聞を読む程度の教養人)に歓迎されるという思いを前提に書かれていたのだと思う。ところが、谷沢氏がいう「読者がある日、自分の欲するところの仰角というか、俯角というか、あるいは横幅、それを変えれば、即座に、三日を経ずに新聞は変わる」が今おきているのではないかと思う。今の朝日新聞の狼狽と右往左往は、読者として想定していたような人がいつの間にか消え失せていたことに気がついたためだろうと思う。
 それではそのことにたった今気がついたのかといえば、「現状認識を口にできなかった」だけで、戦況は不利であるということは、多くのひとが気がついていたはずである。
 なぜ戦況が不利になったのか? 自分たちがしたことは褒められるとばかり思い込んでいたのに、現実がまったくそうはなっていないからであろう。「自分の過去を深く反省し、かつて犯した罪を悔いる日本という国を大いに尊敬する」というような反応がくるとばかり思い込んでいたのに、過去の罪をいつまでも糾弾される事態になってしまったわけである。日本人の感覚からすれば、過去を深く反省しているひとをそれでも追求するなどというのは、人間性と人情に悖る行為である。過去をあげつらっていまだに日本を責め続ける国々は人情を解さない人間性に欠ける文明的とはいえない国々である。そして朝日新聞はそれに同調していると思われてしまったため、朝日新聞は反=日本教の側と理解されてしまった。「朝日新聞」は、読者がそれを欲するからそう書いていたはずなのに、いつのまにか読者が欲しない内容になってしまっていた。そうなったのは、世界の人々が日本人と同じ感性であるはずという根拠のない思い込み(臨在感的把握)があったためである。
 朝日新聞を攻撃しているひとたちは日本教の信者である。かれらは日本教を世界に輸出しようとは思っていない。ただ日本がいつまでも日本教でまもられた《いい湯》の国であることを願っている。朝日新聞もまた日本教の信者なのであるが、日本教は世界に通用すると思い込んで失敗した。そうするとこれから朝日新聞はどんどんとドメスティックな方向に舵を切っていくのだろうと思う。わたくしは自分を《日本的な人間関係の湿度に合わない人間》で、《人間の力は乏しくて、かよわき存在であり、成すことのできないことがたくさんあるので、やむをえず出来ないことはあきらめざるをえないと思っている》ので、なんだかいやな時代になっていきそうな気がしている。さらに同調圧力の高い世の中になっていく、丁度その時代の変わり目に今立ち会っているような気がして、気が重い。
 

山本七平の智恵

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人間通 (新潮選書)

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日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

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